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主権者教育は国民統合のための国民教化運動たる国民精神総動員運動全体主義への道

2024-11-21 10:59:05 | 教育

 2016年3月31日に公表された『「主権者教育の推進に関する検討チーム」中間まとめ~主権者として求められる力を育むために~』の内容について、新聞が載せた。

 主権者教育を推進する方法として、地域行事への主体的な参加促進や高校生向け副教材の使用状況を調べる事などを盛り込んだ。「手伝いの推進」もその一つだ。チームトップの義家弘介文科副大臣は「家庭を守らずに地域を守れるか。地域を守れずに日本を守れるか」「国がこんなお手伝いをしなさいという事ではないが、学校が評価する事は必要」と説明。子どもたちが手伝いの内容を記した日記を学校に提出するなどの取り組みを広げる考えという。

 新聞は見出しで、「お手伝い」が主権者教育?と疑問を呈し、識者のコメントには、「子どもの主体的な行動より、大人の期待に応えさせる思惑が感じられる」「家庭教育と学校の主権者教育は別だ」「しつけに偏った印象だ。政治的問題を家庭でどう話し合うかという点にも触れるべきだ」などを載せている。

 この記事の限りでは「お手伝い」の事を中心に問題としているかに思われる。しかし、この「主権者教育中間まとめ」における問題はそれ以上に大きな問題を含んでいる。

 それは、「中間まとめ」の「2、主権者教育の基本的な考え方について」の内容に示されている「主権者教育の目的」である。それによると、「単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他社と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担う事ができる力を身につけさせることとした。このような主権者教育を進めるに当たっては、子供達の発達段階に応じて、それぞれが構成員となる社会の範囲や関わり方も変容していくことから、学校、家庭、地域が互いに連携・協働し、社会全体で多様な取組を行う事が必要である。また、取組を行うに当たっては、学校等のみならず、教育委員会等の地方公共団体の関係部署が、積極的な役割を果たす事も重要である。」としている点。

また、「3、主権者教育の推進方策についての【1】の1」で「平成27年12月に全国のすべての国公私立高等学校等に配布された副教材が有効に活用されるよう、今後、平成28年中に実態把握のための全校調査を行う。さらに、優れた取組を行う高等学校等の指導方法等について調査・分析し、その結果を共有する事により指導の充実を図る」としている点。

【2】社会全体で主権者教育を推進する取組について、の(2)学校、家庭、地域の連携・協働による子供達の社会参画の機会充実、の1の地域住民参加型の多様な活動の実施や地域の多様な人材を構成員としたネットワークの構築」で「国家・社会の形成者としての意識を醸成するためには、グローバルな視点で国家的な課題等を知る事と同様に、ローカルな視点で身近な社会の課題などを知る事も地域を作り、支えるためためには重要である。身近な社会の課題などを知り、地域の構成員の一人としての意識を育むためには、学校だけではなく、地域資源を活用した教育活動・体験活動や、子供が、地域行事などについて、単なる参加者ではなく、主催者の一人として参画し、主体的に関わる機会などを意図的に創出していく事が必要である。そのため、平成28年1月に文部科学省が発表した「次世代の学校・地域創生プラン」でも掲げられている「学校を核とした地域の創生」などの観点を踏まえ、土曜日の教育活動、放課後子供教室、学びによるまちづくり、親子で参加・参画する地域活動などの地域学校協働活動や、社会奉仕活動などの体験活動において、より多くの地域住民が参画した発展的な活動が実施されるよう、地域と学校との連携・協働体制を構築する。また、こうした地域学校協働活動等が多様かつ継続的なものとなるよう、退職教職員教員志望の大学生などの地域における多様な人材を活用するとともに、それぞれの活動を個別に支援するだけではなく、コーディネート機能を強化し、連携・協働型の取組の推進を図る。」としている点。

 そして、「2子供の生活習慣づくりの推進」として「子供達が家庭において、基本的な生活習慣や社会的なマナーを習得し、自立心を養う事ができるよう必要な家庭教育環境の整備を進める。また、子供達が構成員としてお手伝いなどの役割を担い家族の一員として主体的に家庭生活に参画する取組を進める。」としている点である。

 新聞は最後の「お手伝い」だけを問題視しているが、このまとめに書かれている内容は、国民、家庭、学校、地域すべてを動員して、政府の指示のもとに「統合」「統制」しようとするものである。そして、このモデルは、日中戦争勃発後に「挙国一致」体制を持続するために実施された「国民精神総動員運動」であり、「主権者教育」なるものはその復活をめざすものなのである。平成版「国民精神総動員運動」なのである。

 1937年8月24日、近衛内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定。「挙国一致堅忍不抜の精神を以て現下の時局に対処すると共に今後持続すべき時難を克服して愈々皇運を扶翼し奉る為官民一体となりて一大国民運動を起こさんとす」として実施決定。9月11日には、政府主催の国民精神総動員大演説会をひらき、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の3つのスローガンを掲げ運動の開始を呼びかけた。運動の推進団体として、運動が民間から起こった自発的な運動であるかのような外観をもたせるために「中央連盟」を結成。在郷軍人会などの軍人団体、愛国婦人会・国防婦人会などの婦人団体、大日本連合青年団・壮年団中央協会などの青壮年団体、全国神職会・仏教連合会をはじめとする教化団体など74団体、その多くは工場主・小売店主・地主・教員・神官・僧侶など地域の有力者。地方組織は道府県単位の総動員地方委員会が中心となり、地方官庁がこれに協力する形式をとった。このようにして上からの組織化を進め、神社・皇陵の参拝、勅語奉読式、武道・ラジオ体操の奨励、清掃などの勤労奉仕など様々な儀式や行事を通して、天皇制(神聖天皇主権)イデオロギーを浸透させて国民統合を強め、自発的な戦争協力態勢づくりに力が注がれた。1940年9月11日、内務省は運動の実行単位となる「実践網」整備のため「部落会町内会等整備要綱」を発し、全国くまなく部落会・町内会・隣組などの隣保組織を整備し、常会を開設するよう指示した。「整備要領」では、隣保組織の目的は「国民の道徳的錬成と精神的団結を図る」組織であり、「国策をひろく国民に透徹せしめ国政万般の円滑なる運用に資せし」め、「国民経済生活の地域的統制単位として統制経済の運用と国民生活の安定上必要なる機能を発揮せしむること」とされた。部落常会や隣組常会などには、構成員全員の出席が原則。常会は、宮城遥拝、皇軍の武運長久祈願および「英霊」への黙とう国歌斉唱のあと、諸事項伝達、協議・懇談に入るのが一般的。常会では申し合わせが行われたが、違反者には制裁が加えられた。申し合わせは強制力として働き同調を余儀なくされた。つまり、「非国民」という言葉の発生。

 1942年8月14日、部落会・町内会・隣組など隣保組織は大政翼賛会(1940年10月12日結成)の下部組織へ正式に編入、両者の一本化がなされた。

(2016年4月8日投稿)

 

 

 

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自公政権による国立大学法人法改悪や日本学術会議の統制と北里柴三郎のことば

2024-11-17 10:10:48 | 教育

 北里柴三郎(1852~1931)は東大卒で細菌学者。ドイツへ留学しコッホに学び、破傷風菌の純粋培養に成功した。1889年に帰国。1894年にペスト菌を発見し、血清療法の研究に尽した。1892年10月に福沢諭吉の援助を得て私立伝染病研究所を設立し初代所長となった。しかし、1915年に私立伝染病研究所の東大移管に反対し、私立北里研究所を起こした。1916年慶応大学医学部開設の際には福沢への恩義から初代部長となった。1923年には日本医師会初代会長となった。

 さて北里柴三郎は、安倍晋三政権が(ここでは彼の思惑については触れないが)2024年に新たに発行するとしていた1000円札の肖像画に採用している人物である。彼の価値観を知れる「ことば」として、東大の緒方正規教授の在職25年祝賀会における門弟総代としての祝辞を以下に紹介しよう。

「時に或は学術上において、先生と意見の衝突をきたした事もありまして、先生の尊厳を冒し奉った事もございますが(緒方が脚気の病原菌を発見し発表したのに対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定したが、北里の意見は正しかった事など)これは学術上の事で、正々堂々いわゆる君子の争いであります。……かくの如きは学問に忠実なる真正の研究者として、初めてこれをあえてなし得るのであります。かの学術研究の何物たるかを解せず、したがって意見なく、いたずらに他人の説に雷同附和する軽躁浮薄の輩、もしくは表面は服従を装い、裏面にてその事業を悪口するが如き者、総じて曲学阿世(曲学を以て世俗におもねり、任期に投ずる言説をなす事)の徒は、決してかくの如き趣味を伺い知るものではございません。」

 岸田自公政権改正国立大学法人法成立にこぎつけた。改正法は「一部の国立大に『運営方針会議』という合議体の設置を義務付ける。会議は学長と、外部の有識者も想定する3人以上の委員で構成し、中期目標予算の決定などを行う。学長選考に関しても意見を述べる事もできる。委員の選任には、文科相の承認が必要」という内容であり、「承認人事を通じて、大学の直接的支配に乗り出そうとしている。大学の自治への死刑宣告」と評すべきものである。又、日本学術会議の組織改編に関して内閣府が決定した法人化への基本方針「➀学術会議の会員選考に当たって外部有識者から意見を聞く『選考助言委員会』を設置 ➁外部者が過半の『運営助言委員会』を設置 ③大臣が任命する『監事』が業務や財務を監査 ④大臣任命の外部有識者による『評価委員会』が業務や運営を評価、などの内容で、「改正国立大学法人法」と同様に、大学の独立や自律性を否定する内容となっている。岸田自公政権独善的な目的完遂のために憲法を無視した、大学の自治学問研究の自由抑圧したり統制しようとするファッショ的な企てをやめるべきである。

(2024年1月8日投稿)

 

 

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自公政権は学習指導要領教科書検定制度を自己の偏狭な主張価値観を押しつける制度(国定教科書制度)に変質させ国家公教育生徒を私物化した

2024-10-04 11:30:04 | 教育

 安倍自公政権文科省は、領土問題について教師はどのように教えるべきであると主張しているか。国民が明確に認識しなければならないその主張の基本的特徴は、安倍政権は歴史上の一時期の政権でありながら、「安倍政権の見解」を日本国民はもちろん関係諸国に対しても独善的に、さも普遍的真実であるかのように「我が国の見解」という言葉を使って強制し開き直ったという点にある。安倍政権は、学習指導要領制度を、今回の要領改訂で、その中身全体を政権の見解や価値観歴史観に基づくように作り変え、指導要領の法的拘束力を悪用して、学校教育(先生や生徒)に押し付けていく制度に変質させたのである。

 改訂指導要領では、尖閣諸島について、中国も領有権を主張している事について、文科省は、「我が国が実効支配している固有の領土である」と教えるべきだとしている。ここで「我が国が」としているが、固有の領土である」と主張しているは安倍自公政権であって、それを意図的に「我が国が」という表現を使って、これまでの日中政府間の交渉事実を無視した自己の偏向した主張を強制的に正当化しようとしているのであり、それは国民に事実を明らかにせず欺こうとしている行為であり、国民としては、「安倍自公政権が」と読み変える事が必要である。

 また、竹島北方領土についても、文科省は「先方が領有権を主張しているが、それは不法占拠であり、歴史的にも国際法上も我が国固有の領土であると説明すべきだ。他国の主張を並列で扱う指導は不適切だ。我が国の領土について正しい理解の妨げになるなら、中国や韓国の主張は教えないでほしい」としている。

 ここでも「我が国」としているが、国民としては、「安倍自公政権」と読み変える事が必要である。また、「正しい理解」としているが安倍自公政権の見解の理解」と読み変える事が必要である。また、安倍自公政権の主張は、今はやりの「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」というものであり、日中政府間の(棚上げ論)を受け入れず開き直ったものと考えるべきである。また、「中国や韓国の主張を教えるな」というのは、学校教育ではあってはならない行為で、「学問の自由」「研究の自由」「学習権」など人権を侵害する行為であり、憲法違反であるが、安倍自公政権の常識は国民のそれとは異なり、自己都合でルールを変えるのでそんな事は何とも思っていないし、現行憲法を廃棄(憲法改悪)するつもりだから。

 また、文科省は、教育基本法は、教育の目的として、「国民の育成」と規定しているから、先生の役割は「我が国の立場は国際法的にも、歴史的にも妥当だときちんと言い切ってもらう」事であるとしている。

 しかし、「国民の育成」という言葉の前の部分に、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な○○○○○」という文言があり、「我が国立場(安倍自公政権の見解)」を「言い切る」事を先生の役割にする根拠にはできないのである。しかし、文科省はその文言を完全に無視し、「安倍自公政権の見解」を子供に言い切る事を先生の役割と決めつけ押しつけているのである。この事は安倍自公政権においては、教育とは教化する事とみなしており、先生の役割は安倍自公政権の主張(指導要録の内容)を伝えるだけの存在と見做している事を意味しているという事である。そしてそれは、先生は生徒を絶対服従させなければならない意味も含んでいるのである。これは神聖天皇主権大日本帝国政府下の教育方針そのものである。

 また、文科省は、「グローバルな時代だからこそ、我が国の立場を正しく理解する必要がある。日本の主張を子どもたちが理解していないかぎり、平和的解決とはならない」という。つまり、「グローバルな時代だから安倍政権の見解を正しいものとして理解する必要がある」としているのであるが、「グローバルな時代だから」という言葉は、国旗掲揚国歌斉唱を不法に国民に強制する場合にも用いられる常套的説明で、これは詭弁であり、何の正当性ももたない国民を欺瞞し愚弄した説明である。「我が国」は「安倍自公政権」、「正しく理解」とは「安倍自公政権の見解を理解」、「日本の主張」は「安倍自公政権の主張」と読み変える必要がある。言葉に騙されてはいけない。

 また、文科省は、「古地図を持ち出した綿密な実証作業をしなければ、我が国の立場を実証する事は難しいから、領土問題は存在しない」と教えるべきだとしている。「我が国」は「安倍自公政権」の意であるが、文科省の説明は詭弁であり結論が短絡的で、この事は、学校が生徒の学習権や学問の自由を否定する事を意味するし、先生には生徒に伝える知識授業内容を統制禁止する事を意味している。これも神聖天皇主権大日本帝国政府の教育方針である。

 また文科省は、「領土問題で白黒の判断がつきにくいというのは理解できない。並列な扱いでは我が国の領土に対する正しい理解に至らない」としているが、これは、安倍自公政権の「オルタナティブ・ファクト」以外の何物でもない。そして、国民の反対を押し切って安倍自公政権が自ら政府見解を定め、政権の偏向した主張価値観歴史観に基づいた改訂指導要領を定め、その指導要領の規定であるとして先生に「安倍自公政権の見解」に基づいた画一的な指導を強制し、子どもたちには「安倍自公政権の見解」を「事実」として押し付けているだけである。傲慢独善そのものである。安倍自公政権は学校教育を私物化し、安倍自公政権の偏向した「主張見解価値観歴史観」を押し付ける場と見做しているのである。安倍自公政権は、学習指導要領制度国定教科書制度に変質させ、学校教育を神聖天皇主権大日本帝国政府が強制した「教化教育」の場へと変質させ、その内容を政権の偏向した主張見解価値観歴史観のみに統制し画一化しようとしているのである。

 また、文科省は、「日本の公教育とは要するに、教育基本法の言葉を使えば国家及び社会の形成者を育てる事を目指している。他国の主張があり、それには理があるという風に思っていただくのは困る」としている。この文科省の理屈についても、先に示したように、教育基本法第1条「教育の目的」の「国家及び社会の形成者」の前には、「人格の完成を目指し、平和で民主的な」という文言が記されているのであり、安倍政権文科省にとって都合の良い言葉だけを、部分的に切り取って利用し改訂学習指導要領を正当化する根拠にはできない。

 また、文科省は、改訂指導要領について「子どもたちが我が国の領土について正しく理解するために、定められた内容を指導する事を規定している。その目的に沿わない指導は不適切だ」とする。先にも書いたが、ここでの「我が国」の意味は「安倍自公政権」であり、「正しく理解する」の意味は「安倍自公政権の見解を理解する」である。そのうえで、それ以外の指導は「不適切」であるとするのである。この姿勢は、学習指導要領制度を自己の政治目的達成のために恣意的に悪用しているものであり、安倍政権の見解価値観歴史観のみを正当とする思想統制であり、学問の自由学習権、教育権など人権を侵害するものであり、安倍政権の政治思想の押し付けであり、指導要領制度を制度として存在させながらその制度の意味をまったく変質させてしまった事を意味しているといえる。

まさかそんな事はしないだろう」という言葉は、安倍政権に対しては使えない

麻生氏が言った、「ナチズムの手口ようにやればいい」というのはこの事なのだ。

(2017年4月4日投稿)

 

 

 

 

 

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津田梅子が女子英学塾(現津田塾大学)創設決意の環境・精神的背景

2024-07-03 11:26:56 | 教育

 1871年11月からの岩倉遣外使節には、神聖天皇主権大日本帝国において最初の官費女子留学生(この時、華族・士族の男子留学生は53人)5人同行した。北海道開拓使開拓次官・黒田清隆が募集した米国への留学生であった。留学条件は、官費留学生で、期間は10年往復の費用・学費・生活費などの支給があった。出発に際して、皇后が「……婦女の模範に……」との沙汰書を授けた。5人の女子の出自はすべて旧幕府側で下記の通りである。

吉益亮子(16歳)⇒旧幕臣の娘。目を患い翌年帰国。

上田悌子(16歳)⇒新潟県士族の娘。病により翌年帰国。

永井繁子(11歳)⇒旧幕臣の娘。東京音楽学校などで教職に就く。後に海軍大将となる瓜生外吉と結婚。10年留学。

山川捨松(12歳)⇒旧会津藩士の娘。後に元帥・陸軍大将となる大山巌の後妻。「鹿鳴館の花」と呼ばれた。11年留学。

津田梅子6歳)⇒旧幕臣・洋学者の娘。女子教育に力を注ぐ。11年留学。山川と帰国。

 さて、津田梅子が、女子のための学校創設を決意した環境・精神的背景についてであるが、何といってもまず、梅子の父親が娘を留学させ、米国と米国人を知る機会を与える決意をしたという点である。梅子の父親、津田仙は元佐倉藩士で、1853年に米国ペリー艦隊が来航した時、江戸海岸防備の任に当たり、米国艦隊の優秀さを見学している。その後、1867年に幕府勘定吟味役・小野友五郎渡米に随員となり、福沢諭吉らと約半年間の米国生活を体験している。維新後、北海道開拓使嘱託となり、開拓次官・黒田清隆が欧米視察から1871年に帰国した時、顧問として同行してきた米国農商務局長・ケプロンから、女子教育振興論を聞かされている。以上の父親の経験体験が、梅子を米国へ留学させる決意をさせ、それが梅子の精神に大きな影響を与えたといえるだろう。梅子がこの留学の機会を与えられた事得た事が先ず、女子の学校創設を決意する大きな要因となったのである。

 次は、ホームステイ先の家族からの影響である。中流家庭(ワシントン、日本大使館勤務のランマン夫妻)に預けられ、「日本人の身体をもった米国人」と評されるほどに米国人的思考を身につけた事である。この事が、帰国してからの日本社会での女性の置かれた立場や夫婦の在り方や男女の在り方に敏感に反応意識思考するようになったようである。彼女は述べている。「女性は猫のようにおとなしく怠惰です。ただ男たちの命令を待っている従者のようです。彼女たちを責めたい気持ちもありますが、同時にその地位に憤りを感じます」と。

 そして梅子は、神聖天皇主権大日本帝国における女子教育の立ち遅れを痛感する中で、女子のための学校創設を自己の使命と考え、再び1889年に米国フィラデルフィア・プリンマー女子大学へ留学し、教育学や教授法の研究をした。

 そして1900年7月、大山捨松(大山巌侯爵夫人)に顧問として協力を得て、念願の私塾「女子英学塾(1948年津田塾大学)」を創立。そして、開校式の式辞今日有名な「オールラウンド・ウーマン(多才な女性)になれ」と彼女の熱い思い訴えたのである。

※『戦後50年 みんな生きてきた』(朝日新聞社編)には、津田塾に関係する方々の「津田ものがたり」が所収されている。

(2022年4月25日投稿)

 

 

 

 

 

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朝日新聞記事「はじまりを歩く」の「二宮金次郎像設置普及」説明への疑問

2024-06-24 20:41:18 | 教育

 2021年2月13日の朝日新聞記事「はじまりを歩く」が「二宮金次郎像」を取り上げていた。その中でその像の設置の全国的広まりについて、「政府や役所主導ではなく、学校の父母や篤志家ら、草の根で広まっていった」と説明しているが、これは事実とは異なるのではないだろうか。

 「金次郎像」の設置が全国的に広まる背景には、先ず、二宮尊徳の思想を実践し農村の救済再建を目指して組織された「報徳社」という結社が、明治の初めには全国に1000社ほど成立していた事にある。そして、日露戦争後の農村の疲弊と騒擾多発状況に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府は、西欧帝国主義列強に伍していくためには新しい国民(農民)をつくり、その一致団結のもとに新しい帝国日本を作り出す必要があると考え、第2次桂内閣時の1908年10月に「戊辰詔書」を発布した。内容は「……宜く上下心を一にし 忠実業に服し勤倹産を治め 惟れ信惟れ義 醇厚俗を成し 華を去り実に就き 荒怠相誡め 自彊息まざるべし……」とあり、全国民が共同一致して、勤労に励む事により国富を増強する事を強調していた。その農村への広まりを狙って実施したのが、09年から活発化する「地方改良運動」であった。運動の力点は、第1、町村運営を能率的にするため有能な町村吏員を要請し、それを下から支える町村内部の有志集団(中小地主、自作上農)を作り上げる事であり、帝国政府はこの有志集団の典型として「報徳社」を高く評価したのである。第2、国家財政の重圧に耐え抜く町村をつくるため、部落有林の統一と農事改良・産業組合の設立による生産力の増強を図った。第3、新しい国家体制づくりのために小学校教育青年会運動を奨励したのである。

 「報徳社」は1924年には大合同して「大日本報徳社」を設立した。

 国定教科書では「二宮金次郎」は「孝行」「勤労」「学問」などの徳目で、1904(明治37)年の第1期国定教科書「尋常小学修身書」から登場し、第5期国民学校教科書まで一貫して載せている。

 記事にある「1928年に兵庫県議も務めた中村直吉が妻の倹約した金で(金次郎の銅像を)つくり、(報徳二宮神社に)寄贈した。各地の小学校にも同じく贈ったその数千体。15歳前後の『少年金次郎モデル』が全国に散らばった。機を逃さず富山県高岡市の鋳物業者や愛知県岡崎市の石工業者がセールスをかける」という動きは、上記のような政治社会背景が存在したから起きたものであると考えるべきであり、そのように説明する方が実態を反映しているであろう。

ついでながら、尋常小学唱歌「二宮金次郎」(1911年)は以下の通り。

1、芝刈り縄ない 草鞋をつくり

  親の手を助け 弟を世話し

  兄弟仲良く 孝行つくす

  手本は二宮金次郎

2、骨身を惜まず 仕事にはげみ

  夜なべ済まして 手習読書

  せわしい中にも たゆまず学ぶ

  手本は二宮金次郎

3、家業大事に 費をはぶき

  少しの物をも 粗末にせずに

  遂に身を立て 人をもすくう

  手本は二宮金次郎

(2021年2月15日投稿)

 

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