つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

ナチス・ドイツによる性暴力

2025-01-13 10:03:21 | 慰安婦問題

 ナチス・ドイツにおいても、レイプ、性的虐待、裸体の強要、性労働の強制などの戦時性暴力は盛んに行われていた。ニュルンベルク裁判では、ドイツ軍兵士の性暴力犯罪が告発され、実際に犯行が明確化された事例も存在したが、それは例外的なケースで、実際には犯罪者の特定が難しく、また被害者自身の証言が得られなかったため、具体的な状況は解明されなかった。裁判での性暴力についての証言も、性暴力以外の案件について審理していた際に副次的に出てきたもので、裁判で性暴力を取り上げようとする姿勢はなかった。

 性暴力は、ナチス・ドイツの迫害のなかでも、最も顕現化の遅れた犯罪であり、1990年代になってからである。現在、その全体像が、それを可能とした権力関係を含めてようやく明らかになってきた。その性暴力としては、ドイツ軍兵士による自然発生的なものと、政府・軍部の監理下で行われたものとの、2種類があった。

 前者は、ドイツ軍が占領地域で行った性暴力で、10カ所の強制収容所内、戦地、さらには外国人強制労働者用の売春施設である。ナチス・ドイツでは売春取り締まりは厳しく、売春婦はしばしば逮捕され、強制収容所に送られる場合もあったが、これは売春を禁止するものではなく、売春は人目につかない形で、しかも当局の監視下で行われなければならなかったのである。性病予防、ドイツ人の血と名誉の保護、労働効率や戦闘意欲の増加のために売春は必要とみなされ、政府や軍の命令で売春施設が設けられた。

 強制収容所内では、最高責任者ヒムラーの命令により売春施設の設置が進められ、主に女性用囚人施設であったラーヴェンスブリュックの、反社会的、あるいは政治的な理由で収容された囚人の中から性労働者が選ばれた。親衛隊は当初、囚人たちに売春施設での労働に応募するよう呼びかけ、半年後には収容所生活から解放するなどのウソの甘言を弄して性労働者を集めようとしたが、応募者は少なかった。そのため、親衛隊が対象となる女性たちから強制的に選び出した。また裸で親衛隊の将校の前に引き出され、侮蔑されたあげく、彼らの好みに応じて強制的に売春施設に送られた女性も多かった。性労働者の数は、名前が判明しているだけで174名、不明者を合わせて210名余りといわれる。

 国防軍兵士用や強制労働者用の売春宿では、ユダヤ人、シンティ・ロマ、黒人を除くポーランド人やソ連、バルカン、フランスなどの現地女性たちが集められた。性労働者は以前から売春業に従事していた女性をはじめ、募集により集められている。他方、強制されていたという裁判記録や証言が残されており、強制を記した日記や証言を記録した映画も存在する。性労働者の集め方については不明な点が多い。

 現在、博物館になっている収容所跡地でも、売春施設の存在が明示されず、説明もないところがあり、タブー視されてきた。ナチス・ドイツの性暴力の被害者はシンティ・ロマのような支援団体をもたず、個々バラバラな状況に置かれてきた。そして、提訴も現在なされていない。補償については、1988年以降、ナチス・ドイツの迫害犠牲者のための困窮者基金を通じて経済援助がなされるようになったが、強制売春の被害者としてではなく、あくまで一般的な迫害に対する受給である。

 1993年に設置された「戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央慰霊館」では、ホロコーストの犠牲者、両世界大戦の戦没者、さらに追放民となった元東部居住のドイツ人、1945年以降の全体主義の犠牲者も追悼されている。ホロコーストの犠牲者としては、ユダヤ人、シンティ・ロマ、同性愛者、その病や弱さゆえに、宗教や政治的信念のために、暴力支配への抵抗ゆえに殺されていった人たちの集団が挙げられているが、性暴力の被害者には言及されていない。性暴力の存在は浮かび上がってこない。

 最近になってこの状況が少し変化し始めた。ノイエンガメ強制収容所記念館のパンフレットには、売春施設の存在が明記されている。2007年には、ラーヴェンスブリュック収容所で初めて強制的性労働についての展示会が開催された。目的は、収容所における強制的性労働の存在を明らかにし、当事者たちの尊厳を回復する事である。2009年にも同じラーヴェンスブリュック収容所で、以前の展示を拡充した展覧会が開催され、当事者2人と収容所内売春施設の客となった当時の囚人のインタビューが初めて公開されている。これらの展示会は、ドイツの収容所各地を巡回しており、そのニュースは様々な新聞雑誌で大きく取り上げられ、市民の間にも、収容所内でも強制的性労働の存在が浸透する事になった。しかし、ナチス・ドイツの性暴力についての取り組みはまだ民間レベルの限定的な取り組みに止まっており、国家レベルの公式な取り組みは今後の課題である。(東京大学大学院人文社会系研究科教授 姫岡とし子『ドイツにおけるホロコーストの記憶文化と性』より)

(2016年1月2日投稿)

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沖縄季評に書かれた教科書が載せない、敗戦直後のパンパンと明治維新の新島原遊郭

2024-10-08 10:50:23 | 慰安婦問題

 2021年11月5日の朝日新聞「沖縄季評」が「パンパン」の事に触れていた。「パンパン」とは、「アジア太平洋戦争で降伏した日本を占領した、連合軍兵士の相手をする日本人売春婦を指す言葉」であるとしている。

 さて、GHQによる占領下の日本政府は、占領軍兵士に対する性的慰安施設を設置した事を紹介しよう。日本政府は1945年8月18日、占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう官僚に指示している。「日本の娘を守る」という名目であった。当時の大蔵官僚であった池田勇人が「1億円で純潔が守れるのなら安いものだ」と活躍した。しかし、プロの売春婦たちはこの事業に参加する事を拒んだ。彼女たちは「アメリカ人は大男なので性器も巨大だろうから怪我をする」と考えたようだ。そこで設立者たちは一般女性を募る事にして、東京銀座巨大看板を出した。それには『新日本女性に告ぐ、戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍(占領軍)慰安の大事業に参加する、新日本女性の率先協力を求む』と書いた。愛国的、自己犠牲的に参加した女性もおおかったようで、8月22日までに1360人もの女性が「特殊慰安婦施設協会」(RAA)に登録した。そして、皇居前広場RAAの発足式と『……戦後社会秩序の根本に見えざる地下の柱たらんとす……国体護持に挺身せんとするに、他ならん事を、重ねて直言し以て声明となす』との宣誓を行った。

 RAA発足の日には数百人の米兵たちが大森のRAA施設に向かった。少数の娘たちが集められていたが、大半は処女であった。ベッドも布団も衝立もなく、阿鼻叫喚、官僚が罠にはめた娘たちは米兵に集団強姦された。当時の警察署長はすすり泣いたという。RAAの女性が相手にした米兵は1日15人から60人であった。自殺者も精神的な問題を抱えた女性も多かった。RAAは数カ月で廃止された。RAAの女性の90%が性病に感染し、米兵の70%が梅毒、50%が淋病に感染している事が判明したからである。

 RAAの廃止後、内務省官僚は『女性には売春する権利がある』と赤線地域を設定した。警察が市街地図に赤線を引き、その範囲内での売春を許可した。5万5千人から7万人の売春婦がいたという。

 ところで、明治維新においても新政府が同様の政策を実施していた事も紹介しよう。『戊辰物語』(東京日日新聞社会部編)によると、「吉原の廓築地へ移して外国人お取持ちのため「新島原」というのが出来る話が始まって、吉原の連中が「どうぞ移りませんように」と神様参りを始めたりした。ホテル館が出来る、居留地が出来る、遊郭が出来るで、攘夷家は築地近辺を通らなかった。新島原は確か2年に竣工したと思うが、仲の町があり、花魁道中があり、引手茶屋などすべて本式で、今のうなぎの竹葉の通りが仲の町、鉄砲洲に大門があった。遊女はどのくらいあったか知らんが、島原八カ町といった。この遊郭は2年ばかりで廃絶したが、一時は大したもので、遊女屋のおやじは「天下のための商売だ」とひどく威張った」とある。

ちなみに、新島原遊郭は、1868(明治元)年11月東京築地に開かれ、居留地の外人めあてに千名近い娼妓が存在した。後、各方面からの反対で、1871(明治4)年全部取り払われた。

赤線地域……政府公認の売春地域。日本政府はGHQの公娼廃止指令に基づき、1958年売春防止法を制定し、公娼制度を廃止し、赤線地域(売春許可地域)もなくした。

(2021年11月6日投稿)

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松井一實広島市長がヘイトクライムに加担:「新しい歴史教科書をつくる会」広島支部主催「慰安婦の真実パネル展」に市民交流プラザ使用を許可

2024-03-12 11:09:01 | 慰安婦問題

 2014年12月、在特会(在日特権を許さない市民の会)は、「ヘイトスピーチ(ヘイトクライム)」を行い、「侮辱罪」「威力業務妨害罪」「器物損壊罪」などで有罪が確定している。慰安婦の真実パネル展」の内容も同様の人権侵害行為に当たると見なしてよい。そして、展示場所を提供した広島市長・松井一實氏はその「ヘイトクライム」に加担したと見なすべきで、犯罪行為である人権侵害行為を許さない広島市民はもちろん日本国民は、市長の責任を糾し、その責任を負わせるべきである。新聞・テレビはこの事件をまったく報道していない。メディアの責任も追及すべきである。メディアによる世論操作の手法の一つは、「報道しない(黙過する)」事である。

 2019年4月16日~24日、広島市まちづくり市民交流プラザ1階ロビーにおいて、「新しい歴史教科書をつくる会」広島支部が、「これが『慰安婦』の真実だ!日本政府は謂れなき謝罪と賠償を取り消せ!」というテーマの「慰安婦の真実パネル展」を開催した。これに対し、一市民が市に苦情を訴えたところ、市民局市民活動推進課「生涯学習や市民活動に取り組んでいる団体の『表現の場』として提供」、「市民の皆様には様々な考え方がある事から、展示内容を直接の理由に使用を制限する事は困難であると考えております」と回答した。

 そして、「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」も、抗議を行い二度と繰り返さないように5月27日付で要請をした。それに対する市長の6月11日付の回答が以下の内容であった。

まちづくり市民交流プラザ南棟1階ロビーは、生涯学習や市民活動に取り組んでいる団体の『表現の場』として提供しております。本市から指定を受けた公益財団法人広島市文化財団は、市民が中心となって活動している団体の主催で、営利活動や特定の宗教・政党を支持・支援する内容ではない事を確認し、使用の承認を行っています。また、団体や展示内容によって犯罪行為や違法行為が行われるおそれが客観的に認められるものでない限りは、どの団体に対しても平等に承認しています。本市としては、展示内容の正確性等は主催者の責任の範囲であると考えており、展示を承認した事が、市として主催者の考え・主張などを皇帝した事を意味するものではありません。以上となります。この度は貴重な御意見をいただきありがとうございました。

お問合せ先

広島市役所市民局市民活動推進課

電話082-504-2113 FAX082-504-2066 

E-mail katsudo@city.hiroshima 」というものであった。

上記のような回答内容でしかなかったため、「ネットワーク」は10月18日付で広島市長・松井一實氏に対し、詳細な説明とともに「再度の要請書」を提出した。

(2019年11月9日投稿)

 

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「文喜相案」の即時破棄を要求する世界市民が宣言文発表、日本メディアは被害者の立場に立って報道すべきだ

2023-02-21 11:24:52 | 慰安婦問題

 2019年12月4日、韓国で、日本軍性奴隷制問題解決のための市民団体「正義記憶連帯」をはじめ、12カ国(韓国、日本、米国、カナダ、ドイツ、イギリス、アイルランド、スイス、オーストリア、ニュージーランド、オーストラリア、インドネシア)、44団体によって、「文喜相案」の破棄、と被害者中心主義原則に合致した日本政府の公式謝罪と賠償を含む法的責任履行、を求める世界市民の宣言文が発表された。以下に一部を抜粋する。

「『文喜相案』は強制動員及び日本軍性奴隷制問題のような反人道的な戦争犯罪を、政治的・外交的な立場にのみ基づいて問題解決をするという美名の下に、日韓政府の財源、日韓の企業と国民の募金で財団を作り、見舞金のみを支給しようとするものである。さらに懸念されるのは、文在寅政府が2018年1月に、「手続き上も、内容的にも、被害者中心主義の原則に背く重大な欠陥がある」と明らかにした2015年日韓政府合意が有効である事を確認するという内容が包含されている点だ。国連人権機関は、日本軍性奴隷制のような反人道的な犯罪の解決は被害者中心主義の原則に基づく国際人権原則に則って被害者の人権救済のため、加害者の犯罪事実の認定、被害者の全過程への参加と意見の反映を経た公式謝罪と金銭賠償を含む賠償の履行、再発防止の対策づくり等の法的責任の履行によってのみ解決することができると明確に述べており、このような原則に基づいて日本軍性奴隷制問題も解決されなければならない。……今、大韓民国の国会と政府がなすべき事は、見舞金の支給による対日過去史問題の一括妥結という低級な方式の妥協案ではなく、被害者中心主義の原則に則った犯罪の認定、公式謝罪と法的賠償の履行による問題解決のために2018年7月、性平等基金の予算で策定した日本政府の見舞金10億円に相当する103億㌆を返還措置し、日本軍『慰安婦』被害者たちの人権と名誉回復のために『日本政府に犯罪の認定と責任の履行を求める事』である。」以上

(2019年12月6日投稿)

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東ティモールの元日本軍性奴隷死去

2021-06-19 14:14:46 | 慰安婦問題

 東ティモール人権協会(HAK)によると、元日本軍慰安婦とされたフランシスカ・マシェドさんが、2021年6月13日午後3時半頃、亡くなられた。彼女は、東ティモール南部、コバリマ県スアイに住んでいた。90歳。彼女はコバリマ県の山の方、フォホレン郡ダトトル村の集落長に命令され、スアイの町のベマタンに作られた慰安所に入れられた。集落長から、いう事を聞かないと親が殺されると脅された。1人1部屋をあてがわれ、彼女は「トミコ」と呼ばれ、その名前を入れ墨に彫られた。3年「慰安所」にいた。彼女以外にも「ダスコ」、「ホシコ」といった日本人の名前を付けられた女性や、「ワイレオ」「ファロジョ」「ワイマリ」という名前の女性がいた。

 大勢の兵士の相手をしなければならなかったので、兵士の名前はあまり覚えていなかったが、それでも「アリムガタ」とか「ワインタセオ」(「オガタ」や「部隊長」との意?)とかいう言葉を耳にしている。戦後、結婚したが、夫に大戦中の経験を話したことはなかった。

(2021年6月18日投稿)

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