関東大震災後の1923年9月16日夜、甘粕正彦憲兵大尉による大杉栄夫妻と甥虐殺事件が起きた。甘粕は淀橋署の特高刑事から大杉の行動予定を聞き出し、16日夕方、任意同行に成功した。
甘粕とその部下たちは、大杉と同伴の妻・伊藤野枝、甥・橘宗一(6歳)の3人を東京麹町の東京憲兵隊本部に連行し、ろくに尋問もしないで次々に絞殺し、死体は構内の古井戸に投げ込み犯行の隠蔽を図ったという。
淀橋署は大杉の所在は教えた事により、大杉たちが行方不明となったので、警視庁に「憲兵が検束した。その後不明。あるいは殺されたか」と報告した。警視庁は戒厳司令部に照会したが、憲兵司令官・小泉六一は「検束」をも否定した。
9月18日夜、『報知新聞』夕刊が「大杉夫妻行方不明、憲兵が連行」との記事を載せたため、警視総監・湯浅倉平は山本権兵衛首相に改めて報告した。陸相・田中義一に糾した。田中は「激怒」して、同月20日で小泉、小山介蔵・東京憲兵隊長(甘粕の直属上司)を停職処分とした。福田戒厳司令官も更迭した。
陸軍当局は、隠蔽や正当化は困難である考え、24日に甘粕の殺人行為を明らかにし、軍法会議にかける事を発表した。発表文は「(甘粕の)犯行動機は、平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる折柄……大杉栄等の震災後未だ(治安の)整わざるに乗じ、如何なる不逞行為に出づるやも計り難きを憂い、自ら国家の蠧毒を芟除せんとしたるに在るが如し」というものであった。
軍法会議は10月8日が初公判であった。新聞はこの裁判を異例の大きさで記事にし、「社会主義者の奸計を未然に防いだ国士」として祭り上げた。報道界も国民も、甘粕は上からの命令に従ったものと受け止め、個人的な憎悪の対象とはならなかったようだ。
また、軍首脳は、甘粕は信念に基づいて社会主義者は殺しても、子殺しをするような殺人鬼ではないというキャンペーンをはり成功した。
甘粕本人は、「子どもを殺す必要はないと思っていた。子どもまで殺す気はなかったが、部下がやってしまった。しかし、すべて自分の責任である」と露骨に部下の罪をかばう上官を演じた。
判決は12月8日。甘粕は懲役10年(求刑15年)と軽かった。しかしそれさえ、甘粕は刑期の3分の1を務めただけで、1927年2月に釈放され、陸軍の金で妻同伴で渡仏した。1930年には満州に姿を見せ、陸軍の特務機関と深い関係を持ち、満州国政府の要職を歴任し、晩年は満映理事長として暗躍した。そして、1945年8月20日、ソ連軍の満州侵入に際して青酸カリ自殺した。甘粕正彦憲兵大尉らによる大杉栄夫妻らの虐殺は「陸軍による犯罪」だったというべきである。
(2020年5月8日投稿)