2015年10月25日の某新聞の「日曜に想う」に方言を取り上げた記事が載っていたが、ひじょうに気になる表現があった。それは「……実のところ日本の言語環境もそうほめられたものではない。沖縄県では地元の言葉を口にした生徒に「方言札」をぶらさげるなど過去に行きすぎた指導があった。アイヌ語や八丈島方言などは現に消滅の危機にある……」というものだ。
「方言札」について、「行きすぎた指導」とするのは、どのような意図なのか。これだけでは読者に何を伝えたいのか分からない。「指導」とは何を指すのか。そしてどのように「指導が行きすぎた」のか。筆者はどのような立ち位置でどのような事を伝えるために取り上げたのか、判然としない。誤解を生む文言である。端に「方言の復権」を訴えたいのであれば他のアプローチ(憲法)もあるはずである。「方言札」を取り上げるならばその歴史的意味を説明し筆者の考えを載せるできである。読者は密度の濃い情報を求めている。紙面の穴埋めをするかのような密度の薄い中途半端な形で情報を載せるべきでないと思う。読者にとって毒にも薬にもならないのではなく、むしろ読者にとって歴史的意味を誤解させる毒の効果を生む。密度の濃い情報を提供される事により読者は判断力を培う事ができるのである。
「方言札」の問題は「指導」や「行きすぎた」という言葉で済ませられる出来事ではない。「方言札」は神聖天皇主権大日本帝国政府(国家神道・天皇教)の皇民化政策の下で、琉球民族の多くの意思に反して実施されたものである。皇民化政策(教育)は、神聖天皇主権大日本帝国政府(国家神道)への同化政策(教育)であり、民族性抹殺政策(教育)であった。政府は、琉球の伝統的な風俗習慣は、「純正な日本人」にはふさわしくない異風・異俗だとして蔑視や偏見の対象としただけでなく、無価値だからすべての「琉球的なもの」を抹消せよ、そうでなければ一級の日本人として本土他府県人の仲間入りはできない、と露骨に指示した。
沖縄県の官民指導者(鹿児島出身者)も同じ発想であった。沖縄教育会の機関誌『琉球教育』には、沖縄の教育者の最も重要な任務は、「それこの民をして軍国の民たらしめること」であり、「本県上流の青年をして忠勇なる軍人たらしめ以て軍事精神、国家思想を頑迷無知なる一般人民に起こさせること」だと繰り返し強調した。日露戦争では、地元新聞が社説で「今やわが沖縄県民は今上陛下忠良の臣子なり。愛国熱情の国民の一部なり」、戦争で死者の数が増大すれば、それだけ「県民の面目をほどこす」事になると称賛。
沖縄の皇民化政策(教育)は、1880年に開始され、中学校や師範学校に「御真影」(天皇神像)が下賜された。宗教では、古来の民間信仰を国家神道(天皇教)に組み込んでいった。1890年1月、政府は県民に天皇に対する崇敬心を起こさせる事を目的に琉球8社の中心であった波上宮を官幣小社に列し、1902年には県は同宮に対し「国家安全、忠君愛国の士気を養う印」として天照大神宮(伊勢神宮)の大麻頒布を県民に許可。古来の御獄や拝所は村社として整理統合し、拝殿や鳥居を建立した。
1880年、首里那覇に「会話伝習所」設置。県学務課が優秀な学生に「標準語」教育開始。卒業後、学生たちは小学校教員となり、標準語による教育を率先して行い、地域の指導者として近代化の促進を期待した。学生の多くは琉球語・文化に目をつぶり、本土への忠誠心を示した。「標準語」を学ぶ事は琉球人が日本人として生き抜くために不可欠であるのみならず、ひいては地域の近代化の推進力となるという固い信念に基づいていた。
1883年には「方言取締令」制定。この後、学校で教師が「方言札」を使用して生徒に「標準語」の指導をしていくようになるのである。「方言札」とは「学校で琉球語を使用した生徒が罰則として首に掛けさせられた木札」の事。
1916年には「口語法」が制定され、「国語調査委員会」は当時東京において高い教育を受けた人々が話す言語を「標準語」として規定。
※1903年に「学術人類館事件」起こる。大阪天王寺で開催された「第5回内国勧業博覧会」で「学術人類館」なる小屋がつくられ、沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮、マレー、ジャワ、インドの人たちを民族服姿で見世物にした。沖縄の人たちが抗議行動を起こし中止された。
1930年には琉球語(沖縄方言)廃止や改姓など「生活改善運動」(琉球文化・民族性の抹殺政策=日本本土への同化政策)を展開した。
※1890年代末から沖縄から関西方面への「出稼ぎ」が本格化したが、1920年の第1次大戦後の恐慌のため黒糖価格が暴落し、「ソテツ地獄」とよばれる農村疲弊を招いたため、出稼ぎが増加(1925年がピークで大阪<大正区>が第1位、2位は神奈川横浜<鶴見区>)し定住(移住)も進んだ。1925年には海外移民も全国1位で22.9%、県民の4.3%。しかし、出稼ぎ先では就職、賃金、結婚、教育など生活上すべての面で差別に直面し苦しんだ。その差別からのがれるためには「改姓」や「姓の読み替え」をし、出身を隠さざるを得なかった。また集住して生活し安住の地(沖縄人街)をつくらざるを得なかった。 沖縄では「読み替えるべき姓」として84の姓が発表された。
※沖縄の疲弊の原因には他に沖縄の国税納付額が本土の面積・人口の類似県よりも高額であった。1924年では、鳥取県199万円、宮崎県226万円であるが沖縄県は485万円であった。
※海外移民の社会では、ハワイでは本土からの日系移民による差別が特に激しかった。
上記のように沖縄県民は、沖縄県内、日本本土、出稼ぎ先、移民先などあらゆるところで被差別的立場に置かれていたため、沖縄の言語・文化を否定し自らをも否定し、「本土日本人」に「同化」しなければ生きていけなかったのである。
1940年(皇紀2600年)には沖縄県民に対して「方言撲滅運動」が始まるのである。これに対して、柳宗悦らが沖縄県当局に対して批判したのである。大田昌秀著『沖縄』よると、
1940年1月、柳宗悦ら日本民芸家協会の一団が沖縄訪問した際、県当局が皇民化の大義名分を掲げて県民に沖縄の言語風習を忘れさせようとしている事を批判した。県学務課は地元の3新聞に「標準語励行について」という声明を出し、「民芸家協会員の意見は沖縄文化に対するエキゾチシズムでしかなく、そのような趣味人の玩弄的態度は、県民を惑わし日本国民の育成に役立つものではない」と断言。評論家の杉山平助氏は、淵上房太郎知事の、「国民的一致のためには沖縄の地方的特色は、一切抹殺されねばならぬ」とする見解を支持し、「標準語を徹底的に普及せしめるために、従来の方言に圧迫を加えようとさえする県当局の方針は全く正しい。琉球はあらゆる方法をもって、その過去から脱却しなければならない」と主張した。柳氏は、「沖縄で一人の児童が誤って沖縄語を口にすれば、ただちに方言札を渡され、次の方言者を発見するまでは、前の方言者はその責任を逃れ得ないという如き、まさに郷土文化を蔑視するような方法が果たして許されていいのか。なぜ沖縄だけでそのような方法をとるのか。それは沖縄県民を特殊扱いしている感じを与えるし、県民の心に屈辱感を与え、野蛮視しているきらいがないであろうか」と反論。県知事は「方言を廃止し、標準語に改めぬかぎり、沖縄のような疲弊県の振興はありえない、徴兵検査の折りなど、まだ正しく言葉を言えぬ者がいて、笑い話になる位だから、他県と同一に見ては困る」と公言した。 以上
最後に、比嘉春潮の『沖縄の歴史』の言葉を紹介しよう。
「沖縄に対するこうした差別的な扱い、固有の伝統文化に対する蔑視や抑圧は、言語に限らず、日常生活のあらゆる風習にわたって政策として行われたのだった。生活改善運動と称して、県の学務部が学校や青年会を指導し、琉球的風俗の絶滅を期したのである。それは(植民地であった)朝鮮や台湾における皇民化運動とまったく同じであった。」
琉球民族の生活や文化や歴史を変質させ崩壊させる結果を生じさせた問題を「指導の行きすぎ」という言葉だけで済ませてよいものであろうか。
メディアでは、近年はドラマや音楽、料理などで「沖縄ブーム」がつくられているが、今も沖縄やアイヌの「内国植民地」の歴史は正しく取り上げられない。安倍自公政府は「辺野古新米軍基地建設問題」をめぐる異議申し立てについても否認・抑圧を続けたままである。この根底には、国民の無理解がしぶとく横たわっているのである。「犠牲」のうえに成り立ってきた国、「いじめ」の構造で成り立ってきた国、日本。現代日本は、大人の社会に「いじめ」意識が強く根付いているのである。つまり、民主主義、人権尊重の精神はいまだに国民の多数派にはなっていないのである。
(2015年11月1日投稿)