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「続 よみがえる沖縄 琉球から日本へ」(朝日新聞)を見て思う

2022-04-30 01:02:49 | 沖縄

 最近、朝日新聞では「続 よみがえる沖縄 琉球から日本へ」と題して神聖天皇主権大日本帝国政府下の沖縄県の写真を掲載している。その中には、裏に「祝典余興の琉球大角力」と書かれているという、1936年頃の角力大会の写真があり、那覇市の波上宮波上宮祭で開かれる角力大会と似ている、と説明されている。また、別の写真についての説明文の中には、1923年に首里城跡に「沖縄神社」創建が許可され、琉球王国の史跡が次々と国家神道に結びつけられていった、と述べられていた。

 沖縄県は本来国家神道とは無縁の地域であった。では、沖縄県ではどのようにして国家神道=天皇教の組織が作られていったのだろう。それは沖縄古来から存在した民間の信仰支配者の信仰を変質させ国家神道の神社組織に組み込んでゆく事であった。

 まず、1890年1月には、大日本帝国政府は沖縄県民に、天皇に対する信仰心を起こさせる事を目論んで、「琉球八社」の中心であった那覇の「波之上宮」を国家神道における5段階の神社社格(官国弊社、府県社、郷社、村社、無各社)の中の「官幣小社」に列した。そして、1902年には、県当局が同宮に対して「国家安全、忠君愛国の士気を養う印」として天照皇大神宮(伊勢神宮)大麻を県民に頒布する許可を与えた。そして、これと並行して、古来の「御嶽」や「拝所」は「村社」として整理統合し、「拝殿」や「鳥居」などを建てたのである。このような沖縄の歴史を知る事も今日の沖縄に起きている様々な問題を理解し解決してゆくうえで大切な事であろう。

(2021年4月26日投稿)

 

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「日曜に想うー○○弁」批判、「方言札」は琉球の民族性抹殺政策の所産

2022-04-29 13:02:12 | 沖縄

 2015年10月25日の某新聞の日曜に想う」に方言を取り上げた記事が載っていたが、ひじょうに気になる表現があった。それは「……実のところ日本の言語環境もそうほめられたものではない。沖縄県では地元の言葉を口にした生徒に方言札をぶらさげるなど過去に行きすぎた指導があった。アイヌ語や八丈島方言などは現に消滅の危機にある……」というものだ。

 「方言札」について、「行きすぎた指導」とするのは、どのような意図なのか。これだけでは読者に何を伝えたいのか分からない。「指導」とは何を指すのか。そしてどのように「指導が行きすぎた」のか。筆者はどのような立ち位置でどのような事を伝えるために取り上げたのか、判然としない。誤解を生む文言である。端に「方言の復権」を訴えたいのであれば他のアプローチ(憲法)もあるはずである。「方言札」を取り上げるならばその歴史的意味を説明し筆者の考えを載せるできである。読者は密度の濃い情報を求めている。紙面の穴埋めをするかのような密度の薄い中途半端な形で情報を載せるべきでないと思う。読者にとって毒にも薬にもならないのではなく、むしろ読者にとって歴史的意味を誤解させる毒の効果を生む。密度の濃い情報を提供される事により読者は判断力を培う事ができるのである。

 「方言札」の問題は「指導」や「行きすぎた」という言葉で済ませられる出来事ではない。「方言札」は神聖天皇主権大日本帝国政府(国家神道・天皇教)の皇民化政策の下で、琉球民族の多くの意思に反して実施されたものである。皇民化政策(教育)は、神聖天皇主権大日本帝国政府(国家神道)への同化政策(教育)であり、民族性抹殺政策(教育)であった。政府は、琉球の伝統的な風俗習慣は、「純正な日本人」にはふさわしくない異風・異俗だとして蔑視や偏見の対象としただけでなく、無価値だからすべての「琉球的なもの」を抹消せよ、そうでなければ一級の日本人として本土他府県人の仲間入りはできない、と露骨に指示した。 

 沖縄県の官民指導者(鹿児島出身者)も同じ発想であった。沖縄教育会の機関誌『琉球教育には、沖縄の教育者の最も重要な任務は、「それこの民をして軍国の民たらしめること」であり、「本県上流の青年をして忠勇なる軍人たらしめ以て軍事精神、国家思想を頑迷無知なる一般人民に起こさせること」だと繰り返し強調した。日露戦争では、地元新聞が社説で「今やわが沖縄県民は今上陛下忠良の臣子なり。愛国熱情の国民の一部なり」、戦争で死者の数が増大すれば、それだけ「県民の面目をほどこす」事になると称賛。

 沖縄の皇民化政策(教育)は、1880年に開始され、中学校や師範学校に御真影」(天皇神像)が下賜された。宗教では、古来の民間信仰を国家神道(天皇教)に組み込んでいった。1890年1月、政府は県民に天皇に対する崇敬心を起こさせる事を目的に琉球8社の中心であった波上宮官幣小社に列し、1902年には県は同宮に対し「国家安全、忠君愛国の士気を養う印」として天照大神宮(伊勢神宮)の大麻頒布を県民に許可。古来の御獄や拝所村社として整理統合し、拝殿や鳥居を建立した。

 1880年、首里那覇会話伝習所設置。県学務課が優秀な学生に標準語」教育開始。卒業後、学生たちは小学校教員となり、標準語による教育を率先して行い、地域の指導者として近代化の促進を期待した。学生の多くは琉球語・文化に目をつぶり、本土への忠誠心を示した。「標準語」を学ぶ事は琉球人が日本人として生き抜くために不可欠であるのみならず、ひいては地域の近代化の推進力となるという固い信念に基づいていた。

 1883年には方言取締令制定。この後、学校で教師が「方言札」を使用して生徒に「標準語」の指導をしていくようになるのである。「方言札」とは「学校で琉球語を使用した生徒が罰則として首に掛けさせられた木札」の事。

 1916年には口語法が制定され、「国語調査委員会」は当時東京において高い教育を受けた人々が話す言語を「標準語」として規定。

※1903年に「学術人類館事件」起こる。大阪天王寺で開催された「第5回内国勧業博覧会」で「学術人類館」なる小屋がつくられ、沖縄アイヌ、台湾、朝鮮、マレー、ジャワ、インドの人たちを民族服姿で見世物にした。沖縄の人たちが抗議行動を起こし中止された。

 1930年には琉球語(沖縄方言)廃止改姓など「生活改善運動」(琉球文化・民族性の抹殺政策=日本本土への同化政策を展開した。

※1890年代末から沖縄から関西方面への「出稼ぎ」が本格化したが、1920年の第1次大戦後の恐慌のため黒糖価格が暴落し、「ソテツ地獄とよばれる農村疲弊を招いたため、出稼ぎが増加(1925年がピークで大阪<大正区>が第1位、2位は神奈川横浜<鶴見区>)し定住(移住)も進んだ。1925年には海外移民全国1位で22.9%、県民の4.3%。しかし、出稼ぎ先では就職、賃金、結婚、教育など生活上すべての面で差別に直面し苦しんだ。その差別からのがれるためには改姓」や「姓の読み替えをし、出身を隠さざるを得なかった。また集住して生活し安住の地沖縄人街をつくらざるを得なかった。 沖縄では「読み替えるべき姓」として84の姓が発表された。

※沖縄の疲弊の原因には他に沖縄の国税納付額が本土の面積・人口の類似県よりも高額であった。1924年では、鳥取県199万円、宮崎県226万円であるが沖縄県は485万円であった。

海外移民の社会では、ハワイでは本土からの日系移民による差別が特に激しかった。

 上記のように沖縄県民は、沖縄県内、日本本土、出稼ぎ先、移民先などあらゆるところで被差別的立場に置かれていたため、沖縄の言語・文化を否定し自らをも否定し、「本土日本人」に「同化」しなければ生きていけなかったのである。

 1940年(皇紀2600年)には沖縄県民に対して方言撲滅運動が始まるのである。これに対して、柳宗悦らが沖縄県当局に対して批判したのである。大田昌秀著『沖縄』よると、

 1940年1月、柳宗悦日本民芸家協会の一団が沖縄訪問した際、県当局が皇民化の大義名分を掲げて県民に沖縄の言語風習を忘れさせようとしている事を批判した。県学務課は地元の3新聞に「標準語励行について」という声明を出し、「民芸家協会員の意見は沖縄文化に対するエキゾチシズムでしかなく、そのような趣味人の玩弄的態度は、県民を惑わし日本国民の育成に役立つものではないと断言。評論家の杉山平助氏は、淵上房太郎知事の、「国民的一致のためには沖縄の地方的特色は、一切抹殺されねばならぬ」とする見解を支持し、「標準語を徹底的に普及せしめるために、従来の方言に圧迫を加えようとさえする県当局の方針は全く正しい。琉球はあらゆる方法をもって、その過去から脱却しなければならない」と主張した。は、「沖縄で一人の児童が誤って沖縄語を口にすれば、ただちに方言札を渡され、次の方言者を発見するまでは、前の方言者はその責任を逃れ得ないという如き、まさに郷土文化を蔑視するような方法が果たして許されていいのか。なぜ沖縄だけでそのような方法をとるのか。それは沖縄県民を特殊扱いしている感じを与えるし、県民の心に屈辱感を与え、野蛮視しているきらいがないであろうか」と反論。県知事は「方言を廃止し、標準語に改めぬかぎり、沖縄のような疲弊県の振興はありえない、徴兵検査の折りなど、まだ正しく言葉を言えぬ者がいて、笑い話になる位だから、他県と同一に見ては困る」と公言した。      以上

最後に、比嘉春潮の『沖縄の歴史』の言葉を紹介しよう。

「沖縄に対するこうした差別的な扱い、固有の伝統文化に対する蔑視や抑圧は、言語に限らず、日常生活のあらゆる風習にわたって政策として行われたのだった生活改善運動と称して、県の学務部が学校や青年会を指導し、琉球的風俗の絶滅を期したのである。それは(植民地であった)朝鮮や台湾における皇民化運動とまったく同じであった。」

 琉球民族の生活や文化や歴史を変質させ崩壊させる結果を生じさせた問題を「指導の行きすぎ」という言葉だけで済ませてよいものであろうか。

 メディアでは、近年はドラマや音楽、料理などで「沖縄ブーム」がつくられているが、今も沖縄やアイヌの「内国植民地」の歴史は正しく取り上げられない。安倍自公政府は「辺野古新米軍基地建設問題」をめぐる異議申し立てについても否認・抑圧を続けたままである。この根底には、国民の無理解がしぶとく横たわっているのである。「犠牲」のうえに成り立ってきた国、「いじめ」の構造で成り立ってきた国、日本。現代日本は、大人の社会に「いじめ」意識が強く根付いているのである。つまり、民主主義、人権尊重の精神はいまだに国民の多数派にはなっていないのである。

(2015年11月1日投稿)

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ゲルニカ・ピカソ・バスク人・スペイン

2022-04-24 15:26:54 | 文学・歴史

 1929年10月24日、米国ニューヨークの株式市場(ウォール街)の株価が暴落し世界恐慌が始まった。 

 スペイン王国では1931年4月に共和派が、スペイン革命を起こしブルボン朝を倒してスペイン第2共和国を成立させた。新共和国政府はヴァイマル憲法にならった新憲法を制定したが、土地解放を実施せず、地主・教会・軍部・資本家などは必死で巻き返しを図り、政情は安定しなかった。しかし、1936年2月の総選挙で勝利したアサーニャ人民戦線内閣土地改革や教会の特権剥奪などに着手した。それに対し危機感をもった僧侶・軍人・大資本家・地主に支持されたフランコ将軍が、1936年7月にスペイン領モロッコで反乱(スペイン内乱の始まり。~1939年3月)を起こし軍事政権を成立させた。この時、これを支援したヒトラーのナチス・ドイツ軍(コンドル軍団)が残虐な無差別爆撃を行ったのがゲルニカという町であった。ドイツとイタリアはフランコ側に武器・弾薬・軍隊を送った。またドイツはこの内乱を兵器と戦術のテスト場として多くの残虐行為を行った。スペイン生まれのピカソはその残虐さを絵画『ゲルニカ』に描き抗議した事は有名である。

ゲルニカ・バスク人ゲルニカを含む、フランスとスペインの国境沿いにはバスク人が住み、バスク地方と呼ぶ。現在バスク人は国を持たず、ピレネー山脈西端麓、ビスケー湾に面したスペイン側(ゲルニカを含む)の4県とフランス側の3地方に住んでいる。バスク人はクロマニヨン人の進化した民族といわれ、現在の欧州に住む各民族の中でも最も古くからイベリア半島に住んでいた。独自の習慣や、ほかの欧州言語とはまったく類似性のないバスク語を話す。かつてはローマに侵略されても自治を保ち、5世紀の西ゴート族、8世紀のイスラム侵入にも全面降伏を許さなかった。ムーア人の侵入は、「バスク人は全員貴族だ」という理由で奴隷化を免れ、支配者が現れると、逆に自分たちの「法律」を見せて、「これを守ってくれるなら領主や王として認める」と言ったという誇り高いエピソードを持つ。12世紀頃から、カスティリア王国の支配下に入った後も、何とか自治権を維持しようと試み、それが適っていた時代もあった。しかし、その後のフランス革命、スペイン内乱などでは、自立はうやむやになってしまい今日に至っている。伝統的に続く独立運動は20世紀に入っても衰えていないが、その象徴がゲルニカの町にある「樫の木」である。かつてこの木下でバスク人たちは、領主や国王に自分たち独自の「」を護る誓いを建てさせたのである。元々ゲルニカは、人間の「自由と尊厳」の象徴の町としての歴史がある。

 1937年4月28日付の「タイムズ」紙の記事では、「バスク人の最古の都市であり、その文化的中枢であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍の空爆によって破壊された。戦線からはるか離れたこの非武装都市の爆撃はきっかり3時間15分にわたって行われ、その間3機のドイツ型編隊機は1000㍀を下らぬ爆弾を町に投下し続けた。戦闘機は町の中央から野外に避難している民間人に対し、機関銃を打ち込んだ」と書いている。

 首都マドリードは抵抗を続けた。「優勢なフランコ軍の包囲は、マドリードの陥落を最早時間の問題であると思わせていた。「奇跡」が起こらなければマドリードは間もなく陥落するであろう、といわれた。しかし、その「奇跡」が起きた。マドリードは以後2年半持ちこたえる事になったのである。20歳から45歳までの男子は、首都防衛のために総動員される事になった。市民はを掘り、石工を指導者としてバリケードを作った。女性も使い慣れない銃をとって戦列に加わった。市内では次第に燃料がなくなり、湯茶さえも沸かせなくなった。ちょうどこの時、反ファシズムの情熱に燃えた45ヵ国の知識人や労働者が、共和国の防衛に感激と同情を寄せてスペインに集まった。世界的に頭をもたげた巨獣のようなファシズムと戦うスペインは、各国の労働者や青年を惹きつけた。彼らにとってスペイン人民戦線は、正義・革命・民主主義そして英雄的献身のシンボルであった。彼らは国際旅団を作って、スペイン市民とともに戦った。」(斉藤孝著『スペイン戦争』中公新書)

国際旅団については、別稿(カテゴリー:日本人)「スペイン戦争で人民戦線政府の国際義勇兵として戦った日本人がいた」を参照してください。

 しかし、1939年3月、マドリードは孤立無援状態でフランコ軍に陥落した。

 スペイン人民戦線側は、外国に武器援助を求めた。それに応えたのはメキシコ政府とソ連政府だけで、人民戦線政府への援助の声明を出した。それに対し、英・仏両政府はともに不干渉政策をとった。そのため、独・伊両政府によるフランコ反乱軍への武器援助は、欧州資本主義諸国政府の「容認と寛容」の下で公然と行われた。また、米国政府は、フランコ側にガソリン・自動車などの物資を援助した。

 英国・仏国・米国それぞれの政府は、マドリード陥落後すぐにフランコ政権を承認した。そして、ナチス・ドイツは欧州戦争の準備に精力を集中した。フランコ政権によるスペイン人民戦線の敗北は、スペイン以外の国々において、帝国主義戦争へと突き進む自国政府の政策を止める事ができなくなり、第2次世界大戦の序幕となったのである。

(2022年4月24日投稿)

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済南事件は田中義一内閣による、中国の統一と革命に対する妨害政策と権益死守

2022-04-20 07:34:07 | 文学・歴史

 中国(中華民国)は、1925年3月に孫文が死去した後、7月に広州国民政府を樹立し、1926年7月には蒋介石国民革命軍総司令官となり、反封建・反帝国主義を掲げ、軍閥の打倒と中国統一をめざし、「北伐」=北洋軍閥打倒戦争(1926年7月~1928年6月)を開始した。蒋介石が1927年4月に上海で反共クーデタを起こし(南京国民政府樹立)中断したが、1928年4月再び開始(第2次北伐)し、6月には北伐を完了させた。(また、12月29日には東北三省を支配する張学良が国民政府の統治下に入る「易幟」を行い、中国統一は一応完成した。)

 当時、神聖天皇主権大日本帝国では、田中義一内閣(1927年4月~29年7月)で、中国に対しては反革命的侵略的な姿勢を強めていた。そして、「北伐」に対して、大日本帝国政府の権益を守り拡大していくため、「妨害」政策を画策実施していった。それは軍事力により「北伐」に対抗し、目的を達成するものであり、3回にわたる山東出兵の実施であった。

 第1次山東出兵(1927年5月28日~8月)は北伐軍(国民革命軍)が徐州に迫った時点で在留日本人の保護を口実(本音は国民革命軍が大日本帝国政府の支配地区である満州、山東に及ぶ事を阻止するため)に、北伐軍が山東省へ入るのを阻止するため、旅順から2千人の兵を青島に出動した。そして、6~7月にかけて対中国政策を樹立するため「東方会議」を開催し、7月7日田中義一首相が「対支政策綱領」として示した。そこには神聖天皇主権大日本帝国政府の中国に対する姿勢が明確に示されていた。要約すると、

「共産党などの『不逞分子』の跳梁によって中国における権利、利益が侵害される恐れがある時は、必要に応じ断乎として自衛(出兵・戦闘行為の正当化)の措置に出る。満蒙全域における大日本帝国政府の特殊の地位権益を明確に主張し、中国本土と満蒙とを分離し、満蒙は国防上、経済上重大な利害関係をもつ特殊地域であるから、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れ、侵害が起きる恐れがある場合、その方面を問わず、これを防護し、内外人の安住発展の地として保持されるよう機を逸せず適当の措置に出る覚悟を必要とする」

との内容である。1928年4月に蒋介石が北伐(第2次)再開徐州を占領すると、神聖天皇主権大日本帝国田中政権は19日、国内の反対を押し切って再び山東出兵(第2次)を決定し天津と熊本から5千人の兵を済南へ送った。大日本帝国政府軍は、英米の姿勢とは異なり、第1次出兵時点と変わらず民族解放運動を鎮圧するのである。この事が「済南事件」を導くのである。

※国内の出兵反対の動き……参謀本部、陸軍省、外務省、大新聞、民政党、在日中国人、日本共産党・社会民衆党・労農党など無産政党は中国国民党駐日総支部の呼びかけに応え「対支非干渉同盟準備会」を組織し、「対支非干渉同盟」を結成し、「出兵反対宣伝週間」「出兵反対民衆大会」「支那視察団派遣運動」を起こして闘争した。

 5月1日国民革命軍は済南に入ったが、待ち受けた大日本帝国政府軍と市街戦となった。そのため、6日には北伐軍は大部分が北伐継続のため、蒋介石の命令で済南を出た。一方、大日本帝国政府軍は、国民政府の多くの特派交渉員を殺害し、大日本帝国政府軍の死者を10名、在留日本人の死者を12人出した。そこで、大日本帝国政府軍は5日、この12人の死を「邦人虐殺数280人、言語に絶する暴戻」と誇大に本国へ伝え、国民の敵愾心を煽った。さらに、国民革命軍に対し、北伐軍膺懲と威信発揚のため、12時間の期限付きの最後通牒を突きつけた。その内容は5項目で、事件関係の国民革命軍将校の厳罰、日本人に危害を加えた軍隊全部に対する日本軍の面前での武装解除、済南及び膠済鉄道沿線両側20華里以内の軍隊駐在禁止などで、国民革命軍が容認しないと承知の上のもので、再び戦端を開くための「謀略」であった。7日、田中政権は第3次出兵を決定し、1万5千人を青島へ送り、8日から10日まで済南の住民に対し空爆を含む容赦しない総攻撃を行い、死者3600人と負傷者1400人を出し、済南を壊滅させた。それは駐中公使芳沢謙吉が「第3師団が敵より先に手を出したる事はたとえ軍事上必要あるにせよ支那側(ママ)を首肯せしむるに足らず。加えるに支那(ママ)側の死傷者日本より多数なるをもって師団の要求せる5か条の如きは自然本件をもって帳消しとなるべし」と参謀本部へ報告するほどのものであった。済南事件は大日本帝国政府軍による一方的で無意味な殺戮と破壊でしかなかったのである。この事件で大日本帝国政府の暴虐ぶりは世界に知れわたり、中国の排日抗日運動は強まった。また、英米両国政府は1928年末には蒋介石の南京国民政府を承認し、関税自主権も承認したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は中国の不平等条約撤廃の最大の敵対者である事が露わとなった。

(2022年4月18日投稿)

 

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立皇嗣の礼:安倍・菅自公政権・メディアによる国民主権を否定した憲法違反

2022-04-19 09:05:08 | 皇室

 2020年11月8日、菅自公政府は、秋篠宮が皇位継承順位第1位の皇嗣とした事を広く国内外に示すという事を名目に「立皇嗣の礼」を実施した。

 「立皇嗣の礼」は「立皇嗣宣明の儀」と「朝見の儀」からなる。そして、その実施の報告を伊勢神宮(皇室がその祖先とする天照大神を祀る)、神武天皇(皇室は記紀神話に基づき初代天皇としている)山稜、昭和天皇山稜に行うため、同月5日には「勅使」を派遣する「勅使発遣の儀」も実施している。

 ところで「立皇嗣の礼」のこれらの一連の儀式は国民主権を定めた憲法に照らした場合、「憲法違反」である事は明らかである。

 「勅使発遣の儀」の「」とは、「天皇の命令(を伝える文書で詔や勅など)」で、「勅使」とは、「勅や詔を伝達するために派遣する使い」という意味で、天皇が「勅使を派遣する儀式」という意味である。そして、天皇が御直衣という古式装束を身につけ、「勅使」に「御祭文」を授けたとの事。

 しかし、日本国憲法では、この「詔・勅」について、以下のように定めている。「前文」では「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と。

また、第98条では「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び……は、その効力を有しない」として「詔勅」を全面的に廃止している。国民主権下においては使用してはならないのである。ちなみに、国会の召集・解散に際して詔書の形式を使用しているだけである。

 儀式の内容も憲法違反そのものである。それは、儀式全体が皇室神道神聖天皇主権大日本帝国政府が国教とした天皇教(国家神道)教義の核となり、天皇教組織の頂点にあった)に基づくものであり、その事は現行憲法の定める政教分離原則に違反しているという事である。「立皇嗣宣明の儀」では、天皇が秋篠宮が皇嗣と位置づけた事を「宣言」し、それに応えて秋篠宮が皇嗣となった「決意を天皇に述べた」のであるが、現行憲法に沿えば「皇嗣」の決定は天皇ではなく「主権者国民」が行うものであり、皇嗣になった「決意」は「主権者国民」に対しすべきものなのである。しかし、そのような形式で行われていない。また、「朝見の儀」でも、秋篠宮が天皇に対し「謝恩の辞」を述べ、それに応えて天皇が「祝辞」を述べた。この2人がやり取りしている形式は主権者国民を無視したものであり憲法を無視した行為である。

しかし、このような宗教儀式を皇室が行おうとする事を受け入れ、それを安倍自公政権と菅自公政権は国家的儀式として位置付け、主権者国民の税金を大量に費やして実施し、政権維持に利用しているのである。加えて、メディアもそれに迎合し疑問を呈さず糾すことなく主権者国民に伝達しているのである。政府とメディアはつるんで憲法違反を行い主権者国民を洗脳しているのであるが、「皇室大好き国民」はそれを見抜けずしっかりにはまってされていると言う事である。

 2020年10月28日に上皇・上皇后、天皇・皇后、秋篠宮夫妻が「鎮座百年祭」という理由で明治神宮を参拝(11月6日には秋篠宮の長女眞子さんと次女佳子さんも参拝)した行為も、憲法の政教分離原則に照らして憲法違反」である事に変わりはない。しかし、メディアは問題提起しないし批判もしない。この背景には、神聖天皇主権大日本帝国政府が天皇を死後「神」として祀った神社を崇めている多くの主権者国民が、科学的(論理的、実証的)な思考を身につけ、自身の「奇異」な思考停止ともいうべき思考様式に気づき改めようとしない事にあるだろう。そしてその思考様式はまた、進歩を妨げ続けているのである。

(2020年11月8日投稿) 

     

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