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ワイマール民主主義の弱点と今日日本の野党の状況

2023-06-27 21:32:58 | ワイマール共和国

 今日、岸田自公政権に対して、野党が結集できない状況を解消するためには、時代は異なるが、かつてのワイマール共和国が崩壊しヒトラー政権の独裁を招く政治状況から、なにがしかの学ぶべき教訓を見つける事ができるのではないだろうか? 以下に、ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』の一部を紹介しよう。

「1933年1月31日、アドルフ・ヒトラー首相に就任した。その際、社会民主党幹部会のメンバーたちは、反ナチ統一行動に共産党を加えるべきか否かをめぐって思案に暮れていた。前日、ドイツ共産党の幹部ワルター・ウルブリヒト(共産党国会議員。ヒトラー政権後モスクワに亡命。戦後帰国して東独国家評議会議長)が社会民主党に対して、共産主義と社会主義の全勢力が結集して共同でゼネストを決行するよう申し入れてきていたし、リューベックではすでに両者による統一ストライキが決行されていた。だが、社会民主党指導部はウルブリヒト提案を拒否した。理由は、共産党側が両党和解のための「不可侵協定」を受け入れようとしないためという、従来の主張に沿ったものであった。(両党和解の予備交渉は前年、駐ベルリン・ソ連大使館で社会民主党側から党機関紙編集長のシュタンプファーが出席して行われたが、協定調印に至らなかった)。社会民主党は、この不可侵協定という踏み絵を突きつける事によって、これまで敵対関係にあった共産党との統一行動に踏み切るかどうかを決めようとしていたのである。協定によると、共産党は「社会主義ファッショ」などという社会民主党に対する憎悪に満ちた宣伝を中止する事が義務づけられていた。

 こうした共産主義者と社会民主主義者の兄弟げんかこそ、ワイマール共和国の民主主義の大きな弱点の一つであった。両者とも互いに相手をナチス以上に悪質な敵だと罵り合っていた。片や共産党が中身のない革命熱に浮かされて、社会民主党を反動勢力とファシズム勢力の先駆け役を果たしているとして敵視すれば、一方の社会民主党指導部は党内左派勢力を共産党に浸食されまいとして、声高に反共主義を叫んで敵対する、といった具合である。両党の敵対関係を物語る典型的な実例にこんなものがある。1928年から30年にかけての社会民主党首班内閣の際、国内の過激派の動向についての内相報告では、いつも監視対象は共産党であって、ナチ党を対象にした事は1回もなかった。そんな状況だから、社会民主党指導部はウルブリヒト提案に同意する気になれなかったわけである。」

(2022年10月4日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート4

2023-05-09 18:48:37 | ワイマール共和国

 ヒトラーはナチ党が、1933年3月5日の総選挙において「国民投票」のような形で圧倒的大勝利を収めたため、それに法的な裏付けを施して不動のものにしようとした。

 3月23日、ベルリンのクロール・オペラ劇場(1933年2月27日に国会議事堂が炎上したため、臨時の議事堂にあてられた)で「国民と国家の苦難を除去するための法律」案を審議成立させるために国会を開いた。この法案は、ヒトラー政府が必要と見做せば、政府は国会に諮る事なく独断で法律を4カ年にわたって制定できる内容(全権委任法)であった。この「全権委任法」が成立すれば、これまでは国会本来の権能であった立法権は政府(行政権)に引き渡され、大統領の手中にあった法律の承認権は首相に委ねられる事になるのであった。

 それは、憲法の機能を停止する事、つまりワイマール共和国の終焉を意味し、かつヒンデンブルク大統領の権限を部分的に無効にし、ヒトラー首相は今後、大統領に「大統領緊急令」への署名を懇願しなくてもよくなる事を意味した。

 ところで、独裁的権限を獲得するために、わざわざ改めて「全権委任法」を成立させる必要はなかった。なぜなら、ヒトラー首相は、「国会放火炎上共産党陰謀論」を基にした「クーデター」により発令させた「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」(国会炎上緊急令。)により、すでにそうした権限を先取りしていたからであった。

 にもかかわらずヒトラーが成立にこだわったのは、これまでワイマール共和国とその憲法に敵対し破壊・無効化する闘争をしてきたからであった。そして、法案成立のために手段を選ばず各政党に賛成するよう強要した。劇場周辺はSS隊員たちが交通を遮断し、国会(劇場)内部ではSA隊員たちが廊下に縦隊で立ち並び、ナチ党が何を意図しているかを誇示し、登院してきた国会議員を威圧した。国会規則などは無視した。SA隊員たちは、国会内で禁止されているシュプレヒコール(全権委任法を通過させろ。否決すれば一発お見舞いするぞ)を議員に浴びせた。議長席の後ろには、これも禁止されている「カギ十字旗(ハーケンクロイツ)」を掲げ、ナチ党員は褐色のナチ党制服を着ていた。ヒトラーも、国会では初めて褐色の制服を着て国会演説を行った。

 採決の結果は、賛成441票に対して反対94票で「全権委任法」は成立した。反対票は社会民主党議員たちであった。この他100人以上の共産党社会民主党の国会議員は、逮捕されたり、国外へ脱出したため、この審議に加わる事ができなかった。

(2022年11月1日投稿)

 

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート3

2023-05-09 18:42:57 | ワイマール共和国

 1933年2月27日、国会議事堂炎上事件が起こった。ヒトラーゲーリンクはこの事件を即座に、当時いかなる蜂起計画も早くから断念し、非合法活動に転換しようと準備を始めていた共産党の陰謀説に仕立て上げ、この際に、共産党に大打撃を与えようと決めた。

 プロイセン内務省の会議をゲーリンクとヒトラーが同席して開き、共産党の国会議員および各州議会議員、市議会議員、さらに党役員の全員逮捕と、共産党系の新聞の発行停止を決定した。同夜には早くもプロイセン警察の逮捕班が各地へ向かったが、警察側のブラックリストには何年か前から手回し良く調べ上げられていた4千人の名前が列記されていた。

 そして、国会議事堂炎上事件の翌日28日には「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」を布告した。緊急令の規定には「国家の安全を脅かす共産主義者の暴力行為を防止する」場合にのみ適用するとなっていたが、事実上はワイマール共和国全土に戒厳令を布告したのも同然であった。緊急令第1条は、憲法の基本的人権にかかわる条項の効力を停止した。つまり、各個人の身体の自由を制限したのをはじめ、自由に意見を表明する権利、報道・結社・集会の自由及び信書・郵便・通信の自由、財産や住居の不可侵のいずれもを制限した。緊急令第2条は、各州が公共の安全と秩序の回復に必要な措置をとれない場合は、中央政府が各州の権限に干渉できると規定した。このため、各州の広範な自治権を排除してをナチ党による画一支配を可能とし、法治国家の解体を進める契機となった。緊急令はワイマール共和国の本質を構成していた「法による保証」、例えば内閣の行政行為に対する司法による不服審判制や、異議申し立ての権利、犯罪容疑を推定するための確定要件といった近代国家の法理を無視したものであった。その結果、国家権力による「恣意」に広い門を開きワイマール憲法を空洞化させたのであった。

 しかし、国民の大多数は、自分たちの自由が重大な危機にさらされている事に気づかなかった。国民の関心事は、不況による生活の困窮と、赤色革命が起こりはしないかという恐怖であった。教科書風に言えば、資本家層(資本家・地主)にとっては社会主義革命に対する恐怖を感じ、中産階級にとっては伝統的社会秩序崩壊の不安を感じ、労働者階級にとっては社会主義政党の指導力不足に失望を感じていた状態にあった。だから、ほとんどの国民は、ナチス・ヒトラー政権共産主義者たちへの対応を見ても、不快には思わなかった。それを見たゲーリンクは1万人の共産党員を逮捕し、全国の党支部をすべて閉鎖したうえ、共産党本部リープクネヒト館を占拠した。党首をはじめ多数の党幹部を逮捕連行したほか、左翼知識人まで拘禁した。

 また、ゲシュタポ(国家秘密警察)を新設した。警察はこれまでは任務遂行に当たり職務法第14条で「法の範囲内で行動する」、つまり、基本的人権の擁護という枠をはめていたが、ゲシュタポには適用しなくなった。3月3日には、警察による強制措置の対象は「一義的には共産主義者であるが、同時に共産主義者に協力したり、あるいはその犯罪目的を間接的にせよ支持したり、助長したりする者を含む」とした。このため、大量逮捕となり、逮捕者は仮設バラック、多くは野外の臨時施設(強制収容所)に集中収容した。

 この段階になっても国民の大多数は共和国がヒトラー政権により警察国家への道に踏み込んだ事に気づかなかった。共産主義者に対する迫害も気に留めなかったし、ナチ党がテロを加えても国民の人気を得たし、ナチ党と激しく対立している政党の系列新聞でさえ共産党員狩りに拍手喝采を送った。

 このような社会情勢から、1933年3月5日の総選挙はヒトラーの国民投票の様相となった。これまでナチ党に投票した事がなかった人々までがナチ党に1票を投じたため、投票率はこれまで80%前後であったが、空前の99.0%となった。ナチ党の得票数は1728万票(得票率43.9%)であったが、このうち約300万票はこれまで棄権していた有権者であった。全議席数647のうち288議席(45%)がナチ党員となり、今回も第1党(1932年7月31日第6回以降継続)であった。共産党は得票率12.3%(81議席)であったがヒトラーは無効とした。社会民主党は得票率18.3%(120議席)であった。

(2022年10月31日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート2

2023-05-09 18:35:03 | ワイマール共和国

 SA(ナチ党突撃隊)によるテロ行為は、中央党選挙集会で、同党支持者を襲撃し、流血の衝突から発砲騒ぎにまで発展した。また、中央党デモ行進に参加していた元閣僚を襲撃したり、中央党機関紙編集局も破壊した。さらに社会民主党デモ隊にも爆発物を投げ込んだ。社会民主党共産党の政治家は何人も街頭テロで殺害されたが、沈静化しなかった。

 SAによる街頭テロの後には、ゲーリンクは弾圧と強制捜査という行政テロを行った。1933年2月4日発布の「大統領緊急令」を都合よく拡大解釈して利用し尽くした。共産党本部であるカール・リープクネヒト館を、「反国家的文書」の捜索と称して、2度にわたり強制捜査をしたのをはじめ、社会民主党機関紙『前進』およびその他の社会民主党系新聞を2、3日間の発行停止処分にしたり、中央党選挙ポスターと宣伝出版物を押収したほか、中道系および左翼政党の選挙集会を強制的に解散させたりした。

 ナチ党の宣伝手口は、「共和国の破局が迫っているとか、国家転覆の危機にさらされているとか、ボルシェビズム化の脅威の中にあるとか」を、絶え間なくわめきちらした。そして、国家社会主義(ナチズム)を、恐怖と絶望の現状から希望の持てる将来への転換役として、救済役として印象づけようとした。

 ナチ党は、全国向けあるいは管区向けの遊説隊を個別に編成したり、特別選挙集会を開催したり、SAのパレードで人目を引いたりした。文書類も写真入りポスター、活字のみのポスター、パンフレット類、機関紙号外など多種類を使用してアピールした。また、何百万枚というビラを飛行機で全土にばら撒いたり、スピーカー付きの宣伝カーを国内隈なく走り回らせたりした。さらに、権力を利用してラジオ放送会社に選挙演説を強制的に中継放送させた。

 この宣伝は、大衆のリーダー待望論とヒトラーの名前を結び付けた。大衆にとってヒトラーは、大衆の要求を実現できない空洞化した社会制度に対する不毛の論議と絶望感から脱出する道を指し示しているように見えたのである。そして、ヒトラーはナチス独裁体制樹立への陰謀と策略を着々と推し進めるのである。

(2022年10月31日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口

2023-05-09 18:26:57 | ワイマール共和国

 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命した。ついで、2月1日、大統領は国会解散に署名し、閣議は総選挙の投票日を3月5日と決定した。

 ヒトラーは選挙戦に突入するにあたって、首相就任以来、気になっていたゼネストの恐怖を解決するため2月3日、閣議を開き、「ゼネストを萌芽状態のうちに摘み取るべきである」と閣僚たちに「大統領緊急令法案」を提案し承認を迫った。2月4日には、ヒンデンブルク大統領が「ドイツ国民の保護に関する大統領緊急令」に署名した。

 これにより、国家機関は、公共の安寧が直接的に脅威にさらされるような場合、国家の死活にかかわるような重要な事業所でのストライキおよび政治集会デモを禁止し、かつ社会の安全と秩序を損なうような内容の印刷物を押収、または一定期間の配布を禁止する権限をもつ事になった。この緊急令は、解釈自在のつかみどころのない規定であったため、最初は標的とされた陣営に対してであったが、やがては国内の言論の自由を破壊し尽くし、政府に対する反対者や批判者は根こそぎ排除される事となったのである。

 また、ヒトラー内閣支持を明確にした産業界からの献金により、ナチ党の選挙マシーンは、これまでナチ党員が経験した事のない活気を見せた。例えば、ゲーリンクのプロイセン州における手口は、プロパガンダテロ、つまり反対党を徹底的に攻撃するとともに国家機関を反対党弾圧の手段とするという巧みな混合戦術であった。それにより反対党を封圧する一方で、有権者を威嚇して従来からの支持政党へ1票を投じるのを断念させようというわけである。ゲーリンクが発する布告訓令で、プロイセン州内の県知事郡長たちは「国粋主義的」な政党のみを支持しなければならない事をほのめかされた。

 2月17日付のプロイセン州警察官に対するゲーリンクの布告では、「国家に敵対する組織を駆逐するためには、最も峻厳な手段で当たる事」とし、必要であれば銃器の使用も認めた。またゲーリンクは、「任務遂行のため銃器を使用した警察官は、その結果について顧慮する必要のない事を保証する。他方、結果を慮って銃器使用を拒む者は、服務規律違反で処罰される事を覚悟せねばならない」と指令した。さらに、2人の「特命委員」を任命し、警察官が指令通りに民主主義政党のささいな選挙違反も厳しく取り締まっているかどうかを監視させた。

 2月22日にはゲーリンクは、SAをはじめSS、鉄兜団の隊員たちを「補助警官」として採用する命令を出し、テロ行為を開始させた。彼らに対し、共産主義に対する闘争は警察的手段だけでは不十分であり、自らの手で自らを防衛しなければならない、と呼びかけ、民主主義政党の選挙運動に路上で襲撃させ、選挙集会に殴り込みをかけさせたのである。

(2022年10月30日投稿)

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