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「ムッソリーニ・ファシスタ党」へ向かったワイマール共和国の若者たちの「指導者崇拝熱」が齎した国

2025-01-08 13:46:10 | ワイマール共和国

 第1次世界大戦後、イタリアでは激しいインフレが起こり、大量の失業者を生み出し、国民生活が疲弊した。1919年11月の総選挙で、「組織されたプロレタリアート(労働者階級)の権力を労働者評議会(ソビエト)に」というスローガンを掲げていた「社会党」が最大得票を得た。それと同時期「ムソリーニ」率いる「ファシスタ党」の運動は生まれた。

ムッソリーニ(1883~1945)……職人の子。体制打破を叫び「社会党」入党。言論で知られて機関紙「アヴァンティ(前進)」編集長となる。第1次世界大戦では「参戦」を主張し、党を除名され、「反社会主義運動」へ走る。19年に「ファシスタ党」を結成して党首となり、22年に政権を奪取し「統領」となり、ファシズム政治を強行した。

※※ファシズム(全体主義)政治……資本主義経済の危機状況に出現した反社会主義・反民主主義・反革命暴力的独裁政治形態とその運動。史上最初にイタリアで政権を獲得。個人の自由を否定し、国家・社会・集団など全体性を原理とする。近代民主主義に対抗して、第1次世界大戦後に出現。独裁体制で、民族や国家を非合理的に美化し、対外的に侵略的で、国内的には権力によりいっさいの社会活動を暴力的に統制した。

 「ファシスタ党」は革命的状況を打ち砕く。彼らは公然と国王警察軍隊の支持を受けて、武装した「黒シャツ隊」を組織した。労働運動に対し、暴力的な攻撃を繰り返し、おしつぶした。各地方で社会主義者の手にあった地方自治体の行政権も相次いで奪取し、「ファシスタ党政権」を成立させた。

 1921年及び22年にはクーデタを起こし、ファシズム反対者からいっさいの組織に結合する権利を剥奪。反ファシズムの官吏を解任。立法の一方的なファシストへの剥奪。言論の自由の剥奪。ファシストによる組合以外の団体交渉権の剥奪

 1922年10月28日には武装した各地方の「黒シャツ隊」のクーデタ「ローマ進軍」を行い、エマヌエーレ3世国王の支持を得てムッソリーニは首相(統領)となり「ファシスタ党」政権を成立させた。

 1926年11月には、「ファシスタ党」以外の他の政党をすべて解散する法案を可決し、「一党独裁制」を成立させた。非合法で活動を続けた野党は「共産党」と「社会党の一部」だけであった。

 1928年9月には、「ファシスタ党」の最高機関である「ファシスタ(ファシズム)評議会」を国家の中心最高機関とし、政府と「ファシスタ党」との一体化を完成し、「ファシスタ党」の「一党独裁制」を確立させた。

 ファシズムの政治的性格とは何か?「ファシスタ党」のスローガンは「信ぜよ、従え、戦え」であった。国民の多数決原理を否定し、少数の指導者による独裁に政治意志の決定を委ねる。民主主義・議会政治・政党政治の全面的否定。自由より秩序・服従を重視。国民の基本的人権を否定暴力でファシズムに対する批判を沈黙させ、他方で巧みな宣伝工作により大衆の世論を操作する。情報を独占し思想を統制する。

(2025年1月8日投稿)

 

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ワイマール共和国の若者たちの指導者崇拝熱はどこへ向かったのか?

2025-01-05 21:55:05 | ワイマール共和国

 ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』を基にして上記について紹介しよう。今日、自公政権、特に安倍氏以降の自公政権の下で、日本の若者たちの政治的動向を観察するために参考となるかもしれない。

 ワイマール共和国の大勢の民主主義者は、指導者崇拝熱に惹きつけられていたが、イタリアファシスト党統領であったムッソリーニのエネルギーは、模範的なものに映った。ムッソリーニのような素質があるか否かが、ワイマール共和国の政治家の適性を占う物差しとなった。ドイツのムッソリーニになる事は政治家にとって、やり甲斐のある目標となった。ヒトラーはすでに1922年から自らを「ドイツのムソリーニ」として宣伝していた。

 指導者崇拝熱は、それまで民主主義派の各政党や政治家たちの古くさい政治スタイルにそっぽを向いていた若者たちも虜にした。「指導者原理」こそ、若い世代が何年間も待ち焦がれていたキーワードだったのである。若者たちは、経験豊かな指導者と、仲間意識で固く結ばれた共同体を、どの社会階層よりも切実に待望していたのだが、ワイマールの制度、組織はそのいずれも満足させてくれなかった。若い世代の圧倒的多数はワイマール体制をすでに見限っており、「老人と中年たちの共和国」には何らの帰属意識も持っていなかった。

 では、若者たちは民主主義諸政党を見限ってどこへ向かったのだろう。上記の状況が、1920年代初めの混乱期の置き土産である各党の準軍事的自衛組織に新しい生命を吹き込む事になる。例えば国粋主義の鉄兜団、あるいは国家社会主義の突撃隊(SA)、共産党の赤旗戦闘団、民主主義擁護を叫んで黒・赤・金三色のワイマール国旗を掲げる社会民主党系の国旗団といった組織である。これらの団体は、最も有効な政治参加の道を求めている若者たちの心を惹きつけようとして、それぞれのやり口で、民主主義に挑戦的な非知性主義と幼稚な軍国主義を、政治の場におおっぴらに持ち込んだ。彼らは、準軍事団体につきものの暴力に慣れ親しみ、国内対立を益々険悪なものにするのに力を貸した。

(2022年10月8日投稿)

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ワイマール民主主義の弱点と今日日本の野党の状況

2024-12-30 12:59:11 | ワイマール共和国

 今日、岸田自公政権に対して、野党が結集できない状況を解消するためには、時代は異なるが、かつてのワイマール共和国が崩壊しヒトラー政権の独裁を招く政治状況から、なにがしかの学ぶべき教訓を見つける事ができるのではないだろうか? 以下に、ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』の一部を紹介しよう。

「1933年1月31日、アドルフ・ヒトラー首相に就任した。その際、社会民主党幹部会のメンバーたちは、反ナチ統一行動に共産党を加えるべきか否かをめぐって思案に暮れていた。前日、ドイツ共産党の幹部ワルター・ウルブリヒト(共産党国会議員。ヒトラー政権後モスクワに亡命。戦後帰国して東独国家評議会議長)が社会民主党に対して、共産主義と社会主義の全勢力が結集して共同でゼネストを決行するよう申し入れてきていたし、リューベックではすでに両者による統一ストライキが決行されていた。だが、社会民主党指導部はウルブリヒト提案を拒否した。理由は、共産党側が両党和解のための「不可侵協定」を受け入れようとしないためという、従来の主張に沿ったものであった。(両党和解の予備交渉は前年、駐ベルリン・ソ連大使館で社会民主党側から党機関紙編集長のシュタンプファーが出席して行われたが、協定調印に至らなかった)。社会民主党は、この不可侵協定という踏み絵を突きつける事によって、これまで敵対関係にあった共産党との統一行動に踏み切るかどうかを決めようとしていたのである。協定によると、共産党は「社会主義ファッショ」などという社会民主党に対する憎悪に満ちた宣伝を中止する事が義務づけられていた。

 こうした共産主義者と社会民主主義者の兄弟げんかこそ、ワイマール共和国の民主主義の大きな弱点の一つであった。両者とも互いに相手をナチス以上に悪質な敵だと罵り合っていた。片や共産党が中身のない革命熱に浮かされて、社会民主党を反動勢力とファシズム勢力の先駆け役を果たしているとして敵視すれば、一方の社会民主党指導部は党内左派勢力を共産党に浸食されまいとして、声高に反共主義を叫んで敵対する、といった具合である。両党の敵対関係を物語る典型的な実例にこんなものがある。1928年から30年にかけての社会民主党首班内閣の際、国内の過激派の動向についての内相報告では、いつも監視対象は共産党であって、ナチ党を対象にした事は1回もなかった。そんな状況だから、社会民主党指導部はウルブリヒト提案に同意する気になれなかったわけである。」

(2022年10月4日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート4

2023-05-09 18:48:37 | ワイマール共和国

 ヒトラーはナチ党が、1933年3月5日の総選挙において「国民投票」のような形で圧倒的大勝利を収めたため、それに法的な裏付けを施して不動のものにしようとした。

 3月23日、ベルリンのクロール・オペラ劇場(1933年2月27日に国会議事堂が炎上したため、臨時の議事堂にあてられた)で「国民と国家の苦難を除去するための法律」案を審議成立させるために国会を開いた。この法案は、ヒトラー政府が必要と見做せば、政府は国会に諮る事なく独断で法律を4カ年にわたって制定できる内容(全権委任法)であった。この「全権委任法」が成立すれば、これまでは国会本来の権能であった立法権は政府(行政権)に引き渡され、大統領の手中にあった法律の承認権は首相に委ねられる事になるのであった。

 それは、憲法の機能を停止する事、つまりワイマール共和国の終焉を意味し、かつヒンデンブルク大統領の権限を部分的に無効にし、ヒトラー首相は今後、大統領に「大統領緊急令」への署名を懇願しなくてもよくなる事を意味した。

 ところで、独裁的権限を獲得するために、わざわざ改めて「全権委任法」を成立させる必要はなかった。なぜなら、ヒトラー首相は、「国会放火炎上共産党陰謀論」を基にした「クーデター」により発令させた「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」(国会炎上緊急令。)により、すでにそうした権限を先取りしていたからであった。

 にもかかわらずヒトラーが成立にこだわったのは、これまでワイマール共和国とその憲法に敵対し破壊・無効化する闘争をしてきたからであった。そして、法案成立のために手段を選ばず各政党に賛成するよう強要した。劇場周辺はSS隊員たちが交通を遮断し、国会(劇場)内部ではSA隊員たちが廊下に縦隊で立ち並び、ナチ党が何を意図しているかを誇示し、登院してきた国会議員を威圧した。国会規則などは無視した。SA隊員たちは、国会内で禁止されているシュプレヒコール(全権委任法を通過させろ。否決すれば一発お見舞いするぞ)を議員に浴びせた。議長席の後ろには、これも禁止されている「カギ十字旗(ハーケンクロイツ)」を掲げ、ナチ党員は褐色のナチ党制服を着ていた。ヒトラーも、国会では初めて褐色の制服を着て国会演説を行った。

 採決の結果は、賛成441票に対して反対94票で「全権委任法」は成立した。反対票は社会民主党議員たちであった。この他100人以上の共産党社会民主党の国会議員は、逮捕されたり、国外へ脱出したため、この審議に加わる事ができなかった。

(2022年11月1日投稿)

 

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート3

2023-05-09 18:42:57 | ワイマール共和国

 1933年2月27日、国会議事堂炎上事件が起こった。ヒトラーゲーリンクはこの事件を即座に、当時いかなる蜂起計画も早くから断念し、非合法活動に転換しようと準備を始めていた共産党の陰謀説に仕立て上げ、この際に、共産党に大打撃を与えようと決めた。

 プロイセン内務省の会議をゲーリンクとヒトラーが同席して開き、共産党の国会議員および各州議会議員、市議会議員、さらに党役員の全員逮捕と、共産党系の新聞の発行停止を決定した。同夜には早くもプロイセン警察の逮捕班が各地へ向かったが、警察側のブラックリストには何年か前から手回し良く調べ上げられていた4千人の名前が列記されていた。

 そして、国会議事堂炎上事件の翌日28日には「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」を布告した。緊急令の規定には「国家の安全を脅かす共産主義者の暴力行為を防止する」場合にのみ適用するとなっていたが、事実上はワイマール共和国全土に戒厳令を布告したのも同然であった。緊急令第1条は、憲法の基本的人権にかかわる条項の効力を停止した。つまり、各個人の身体の自由を制限したのをはじめ、自由に意見を表明する権利、報道・結社・集会の自由及び信書・郵便・通信の自由、財産や住居の不可侵のいずれもを制限した。緊急令第2条は、各州が公共の安全と秩序の回復に必要な措置をとれない場合は、中央政府が各州の権限に干渉できると規定した。このため、各州の広範な自治権を排除してをナチ党による画一支配を可能とし、法治国家の解体を進める契機となった。緊急令はワイマール共和国の本質を構成していた「法による保証」、例えば内閣の行政行為に対する司法による不服審判制や、異議申し立ての権利、犯罪容疑を推定するための確定要件といった近代国家の法理を無視したものであった。その結果、国家権力による「恣意」に広い門を開きワイマール憲法を空洞化させたのであった。

 しかし、国民の大多数は、自分たちの自由が重大な危機にさらされている事に気づかなかった。国民の関心事は、不況による生活の困窮と、赤色革命が起こりはしないかという恐怖であった。教科書風に言えば、資本家層(資本家・地主)にとっては社会主義革命に対する恐怖を感じ、中産階級にとっては伝統的社会秩序崩壊の不安を感じ、労働者階級にとっては社会主義政党の指導力不足に失望を感じていた状態にあった。だから、ほとんどの国民は、ナチス・ヒトラー政権共産主義者たちへの対応を見ても、不快には思わなかった。それを見たゲーリンクは1万人の共産党員を逮捕し、全国の党支部をすべて閉鎖したうえ、共産党本部リープクネヒト館を占拠した。党首をはじめ多数の党幹部を逮捕連行したほか、左翼知識人まで拘禁した。

 また、ゲシュタポ(国家秘密警察)を新設した。警察はこれまでは任務遂行に当たり職務法第14条で「法の範囲内で行動する」、つまり、基本的人権の擁護という枠をはめていたが、ゲシュタポには適用しなくなった。3月3日には、警察による強制措置の対象は「一義的には共産主義者であるが、同時に共産主義者に協力したり、あるいはその犯罪目的を間接的にせよ支持したり、助長したりする者を含む」とした。このため、大量逮捕となり、逮捕者は仮設バラック、多くは野外の臨時施設(強制収容所)に集中収容した。

 この段階になっても国民の大多数は共和国がヒトラー政権により警察国家への道に踏み込んだ事に気づかなかった。共産主義者に対する迫害も気に留めなかったし、ナチ党がテロを加えても国民の人気を得たし、ナチ党と激しく対立している政党の系列新聞でさえ共産党員狩りに拍手喝采を送った。

 このような社会情勢から、1933年3月5日の総選挙はヒトラーの国民投票の様相となった。これまでナチ党に投票した事がなかった人々までがナチ党に1票を投じたため、投票率はこれまで80%前後であったが、空前の99.0%となった。ナチ党の得票数は1728万票(得票率43.9%)であったが、このうち約300万票はこれまで棄権していた有権者であった。全議席数647のうち288議席(45%)がナチ党員となり、今回も第1党(1932年7月31日第6回以降継続)であった。共産党は得票率12.3%(81議席)であったがヒトラーは無効とした。社会民主党は得票率18.3%(120議席)であった。

(2022年10月31日投稿)

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