私は涙もろい。新聞を読んでは目頭を熱くし、テレビのドラマを見るときにはティッシュ箱を抱えることなく見られない。外を歩けばこの間まで赤ちゃんだったような小学生が自分と同じくらいの大きさのランドセルを背負っている姿がいたいけで涙を誘われ、電車の中では思い出し泣きで目を充血させる。劇場や映画館や、はたまた子どもの卒業式ではいつも先陣を切って泣き始め、周囲のもらい泣きを誘っている。
ところで、この涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。恐らく、ホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう。とは重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず、醜態をさらすこととなる。
数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。研究成果の発表、ディスカッションという科学的な会合でのスピーチで、涙などとはまったく無縁の場であり、とんだ場違いで穴があったら入りたい心境であった。私の涙で会場全体がワークショップらしからぬ異様な雰囲気になってしまい、スピーチの最後を締めくくる学会長も話す言葉に困惑しておられた。私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあり、それがスピーチ時に涙となって漏出してしまったと分析しているのではあるが、今多い出しても何ともみっともない限りである。
さてここで、この“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。通常、涙もろい人は感受性が強く、感性が豊かであることには間違いはなく、異論もないことと思われる。ところが、私の場合、プレ更年期以降は、例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックしたりして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。例えば、先日映画を観に行った時にもボロボロ泣いたのではあるが、泣いている自分とは別にさめた自分がいて、「ストーリーもありきたりだし、傑作とはいえないな。」などと落ち着いて冷ややかに批評しているのである。子どもの卒業式にしてもそうだ。ボロボロ泣きながら、「演出がしつこ過ぎるなあ。今時もっとあっさり流そうよ。」などど白けつつ頭の中で批判しているのである。どうも、涙もろさも過去の経験に支配されている部分もありそうで、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ることもあるのではなかろうか。別の観点から考えると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で、冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。高齢者の場合、このような年の功が、若い頃のようにいろいろな事に単純には感情移入できない原因となっているのであろうと考える。
皆さん、年寄りの涙は純粋とは言い難いので、くれぐれも騙されないようにお気をつけて?!
ところで、この涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。恐らく、ホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう。とは重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず、醜態をさらすこととなる。
数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。研究成果の発表、ディスカッションという科学的な会合でのスピーチで、涙などとはまったく無縁の場であり、とんだ場違いで穴があったら入りたい心境であった。私の涙で会場全体がワークショップらしからぬ異様な雰囲気になってしまい、スピーチの最後を締めくくる学会長も話す言葉に困惑しておられた。私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあり、それがスピーチ時に涙となって漏出してしまったと分析しているのではあるが、今多い出しても何ともみっともない限りである。
さてここで、この“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。通常、涙もろい人は感受性が強く、感性が豊かであることには間違いはなく、異論もないことと思われる。ところが、私の場合、プレ更年期以降は、例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックしたりして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。例えば、先日映画を観に行った時にもボロボロ泣いたのではあるが、泣いている自分とは別にさめた自分がいて、「ストーリーもありきたりだし、傑作とはいえないな。」などと落ち着いて冷ややかに批評しているのである。子どもの卒業式にしてもそうだ。ボロボロ泣きながら、「演出がしつこ過ぎるなあ。今時もっとあっさり流そうよ。」などど白けつつ頭の中で批判しているのである。どうも、涙もろさも過去の経験に支配されている部分もありそうで、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ることもあるのではなかろうか。別の観点から考えると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で、冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。高齢者の場合、このような年の功が、若い頃のようにいろいろな事に単純には感情移入できない原因となっているのであろうと考える。
皆さん、年寄りの涙は純粋とは言い難いので、くれぐれも騙されないようにお気をつけて?!