本ブログのテーマは“自己のオピニオンの公開”である。 ブログの概要にも「教育問題等の社会問題まで幅広く…」と掲げた割には、まだ正面切った教育問題に関する記事を記載していないため、物足りなく思っていらっしゃる愛読者の方(?)も多いのではないかと推測する。
私は日頃、公的機関はじめ各種機関への意見書提出や新聞雑誌等への投書投稿をライフワークとしている。 中でも「教育問題」に関する自己のオピニオンを相当数書き溜めており、それらを公開しようと考えたのもこのブログ開設の大きなきっかけであった。
そこで、いよいよこのブログでも「教育問題」を取り上げることとする。
さて本題に入るが、昨日の新聞によると、「道徳」は教科とはせず、現行の枠組みを維持する方向となったそうだ。この記事を読み、私は胸を撫で下ろした。 なぜならば、安部教育改革の目玉の一つとして、「道徳」の教科化が取り上げられていたためである。 私はこの時代錯誤の教育改革を懸念し心を痛めていたが、安部首相の辞任により今後「安部色」が薄まることは必須である。(安倍さん、よくぞ辞任してくれたものだ。)
話は1960年代に遡るが、私が子どもの頃に受けた「道徳」の授業というと、通り一遍の社会通念の押し付けでしかなかった。 例えば、“人には親切にしましょう。”“お友達とは仲良くしましょう。”“親や先生の言うことは聞きましょう。”等々…。子ども心にもつまらなくて白けているのに“いい子”を演じさせられる薄っぺらな時間でしかなかったような記憶しかない。 しかも、それを語っている先生に力量がなく不完全な存在であることを小さな子どもでさえ見抜いているのに、教える側の先生もさぞ身の置き場がなかったことであろう。 その頃、「小さな親切、大きな迷惑」という流行語があったが、この言葉、まさに我が意を得たりの思いであった。
時代が流れ、学校教育自体が大きく変容する中で、必然的に道徳教育も様変わりしてきている様子ではある。
子どもの学校参観で何度か現在の学校の「道徳」の授業を垣間見たが、さすがに1960年代のような“子供だまし”の授業はやっていないようだ。 子どもの年齢に応じた身近なテーマ(例、家でのお手伝い、難民問題、等)が設定され、子ども一人ひとりの意見を取り上げ、高学年ではディスカッションの時間が設定されたりしながら授業が進められていた。 私が参観した限りでは決して教員の主観は入れず、結論は出さない方針の「道徳」であった。ずい分と「道徳」も進化している様子に私も一安心したのではあるが、テーマによっては子どもが感情移入しにくいという欠点もあるし、また、正直なところ大人の私が見ても“かったるさ”は否定できない感があった。 おそらくその授業を受け持っている教員の力量による部分が大きい。 場面によっては、子どもの反応を見つつ自己のポリシーをある程度盛り込んでも良いのではないかとも感じる。教員ご本人に皆の立場の違いを察する思いやりがあるならば、本音で語っても相手が誰であれ通じるものはあると思う。
「道徳」という科目の存在自体が熱く議論された時代もあったが、今やそのような議論さえないまま、当たり前のように「道徳」は存在し続け、この度の教育改革では「道徳」の教科化が持ち上がっていたわけである。
教科化とはすなわち、数値での成績評価、教科書検定が伴うのである。 これらは誰が考えても「道徳教育」にそぐわないのは明白である。 今回の教科化見送りで、とりあえずはとんでもない時代錯誤、勘違い教育に陥らずに済んだ訳である。
道徳心、すなわち倫理観を子どもに身につけさせるのは、本来、家庭の役割である。 親の生き様を見て、親の信念に触れて(つまり、親の背中を見て)子どもは自然に自分なりの倫理観を培っていくのであろうと私は思う。(当ブログ「聖母マリアにはなれない(Part3)」参照)
学校等の集団社会においては、友人や教員等、家庭とはまた異なる様々な価値観に触れていく過程の中で、さらに思考の幅を広げつつ子どもは成長していくのであろう。
そして、社会には多様な価値観があり、道徳すなわち人の倫理観には結論がないことを自然に学習し、故に世の中には様々な対立が存在し、それでも人々は接点を求め平和を求め、幸せを追求して生きていくことを少しずつ理解していく。 それが、本来の「道徳」であろうと、私は考える。
とりあえず、「道徳」の教科化が見送られたことは何よりの吉報である。
私は日頃、公的機関はじめ各種機関への意見書提出や新聞雑誌等への投書投稿をライフワークとしている。 中でも「教育問題」に関する自己のオピニオンを相当数書き溜めており、それらを公開しようと考えたのもこのブログ開設の大きなきっかけであった。
そこで、いよいよこのブログでも「教育問題」を取り上げることとする。
さて本題に入るが、昨日の新聞によると、「道徳」は教科とはせず、現行の枠組みを維持する方向となったそうだ。この記事を読み、私は胸を撫で下ろした。 なぜならば、安部教育改革の目玉の一つとして、「道徳」の教科化が取り上げられていたためである。 私はこの時代錯誤の教育改革を懸念し心を痛めていたが、安部首相の辞任により今後「安部色」が薄まることは必須である。(安倍さん、よくぞ辞任してくれたものだ。)
話は1960年代に遡るが、私が子どもの頃に受けた「道徳」の授業というと、通り一遍の社会通念の押し付けでしかなかった。 例えば、“人には親切にしましょう。”“お友達とは仲良くしましょう。”“親や先生の言うことは聞きましょう。”等々…。子ども心にもつまらなくて白けているのに“いい子”を演じさせられる薄っぺらな時間でしかなかったような記憶しかない。 しかも、それを語っている先生に力量がなく不完全な存在であることを小さな子どもでさえ見抜いているのに、教える側の先生もさぞ身の置き場がなかったことであろう。 その頃、「小さな親切、大きな迷惑」という流行語があったが、この言葉、まさに我が意を得たりの思いであった。
時代が流れ、学校教育自体が大きく変容する中で、必然的に道徳教育も様変わりしてきている様子ではある。
子どもの学校参観で何度か現在の学校の「道徳」の授業を垣間見たが、さすがに1960年代のような“子供だまし”の授業はやっていないようだ。 子どもの年齢に応じた身近なテーマ(例、家でのお手伝い、難民問題、等)が設定され、子ども一人ひとりの意見を取り上げ、高学年ではディスカッションの時間が設定されたりしながら授業が進められていた。 私が参観した限りでは決して教員の主観は入れず、結論は出さない方針の「道徳」であった。ずい分と「道徳」も進化している様子に私も一安心したのではあるが、テーマによっては子どもが感情移入しにくいという欠点もあるし、また、正直なところ大人の私が見ても“かったるさ”は否定できない感があった。 おそらくその授業を受け持っている教員の力量による部分が大きい。 場面によっては、子どもの反応を見つつ自己のポリシーをある程度盛り込んでも良いのではないかとも感じる。教員ご本人に皆の立場の違いを察する思いやりがあるならば、本音で語っても相手が誰であれ通じるものはあると思う。
「道徳」という科目の存在自体が熱く議論された時代もあったが、今やそのような議論さえないまま、当たり前のように「道徳」は存在し続け、この度の教育改革では「道徳」の教科化が持ち上がっていたわけである。
教科化とはすなわち、数値での成績評価、教科書検定が伴うのである。 これらは誰が考えても「道徳教育」にそぐわないのは明白である。 今回の教科化見送りで、とりあえずはとんでもない時代錯誤、勘違い教育に陥らずに済んだ訳である。
道徳心、すなわち倫理観を子どもに身につけさせるのは、本来、家庭の役割である。 親の生き様を見て、親の信念に触れて(つまり、親の背中を見て)子どもは自然に自分なりの倫理観を培っていくのであろうと私は思う。(当ブログ「聖母マリアにはなれない(Part3)」参照)
学校等の集団社会においては、友人や教員等、家庭とはまた異なる様々な価値観に触れていく過程の中で、さらに思考の幅を広げつつ子どもは成長していくのであろう。
そして、社会には多様な価値観があり、道徳すなわち人の倫理観には結論がないことを自然に学習し、故に世の中には様々な対立が存在し、それでも人々は接点を求め平和を求め、幸せを追求して生きていくことを少しずつ理解していく。 それが、本来の「道徳」であろうと、私は考える。
とりあえず、「道徳」の教科化が見送られたことは何よりの吉報である。