バブル経済崩壊後の長引く不況の中、若者のフリーターやニート、そして引きこもりが増加の一途を辿っている。これら若者の組織や社会からの逸脱の諸現象は、現在の学校の「横並び教育」の所産であるように私は思えてならない。
近世において欧米等諸国が“民主主義”を市民が流血の末に勝ち取ったのと比較して、我が国の場合それを敗戦により米国から与えられたという経緯があるためか、どうもこの国は今もって「人権」に対する意識がすこぶる低く、かつ「自由」や「平等」の解釈を履き違えているのではないかとの感が否めない。
私は“もはや戦後ではない”と言われた時代にこの世に生を受けた。そんな私の小学生時代(1960年代)の学校教育については当ブログの「道徳教育私論」でも一部述べさせていただいているので、そちらもご参照下さればうれしく思う。 当時の小学校においては、時代背景的に決して「横並び教育」ではなかった。私の印象では“学業成績第一主義”であったように記憶している。これも大いに歪んだ教育ではあるのだが、子どもにとってある意味での“わかりやすさ”はあったように思う。例えば学級委員等クラスを統率する生徒や、学芸会や音楽会等での中心人物は担任教員の一任で成績順に決められていた。高学年になってからは立候補制も取り入れられていたが、結局は成績上位者が立候補し、すぐさま皆の支持も得られすんなりと代表に決まっていたようであった。
現在の公立小学校を保護者の立場から垣間見ると、何事にも当番制、輪番制が取り入れられ生徒全員に“一見”「平等」な機会を与えているような錯覚に陥る。加えて、学級委員や学芸会、音楽会等の出演者決定には“立候補”制が取り入れられていて、あたかも「平等」に加えて自主性をも演出しているつもりであるのは理解できる。しかし、実はこの“立候補”制にも大きな落とし穴があり、その実態は単なる「横並び」でしかないのだ。というのも、立候補者の後のフォロー(少なくとも立候補には責任が伴うことを指導し、立候補した子ども達にその責務を全うするべく努力させるべきである。)がまったくなされておらず、何年経ってもいつもいつも同じ子ども達が立候補し、毎年同じパフォーマンスが繰り返されるのだ。何も誰も、たかが小学校の行事に技や芸、また作品の完成度の高さを求めている訳ではないのだが、立候補制を採り入れさえすれば保護者からのクレームがないであろうとの学校側の短絡的な発想が見え見えで、保護者としては辟易とするしかないのである。これはまさに違った形での“横並び”でしかない。
「横並び」が平等だと勘違いしている公教育で育った子ども達は気の毒だ。その子ども達が学校を卒業(中退でもいいが。)し、一旦社会に進出すると(大変失礼な言い方ではあるが公務員になる以外は?)そこには厳しい競争社会の現実が待ち構えているのだ。今までの「横並び」の学校教育とはまったく異質の別世界が広がっているのである。その現実社会へスムーズに移行しきれずあえぐ若者が多いのではなかろうか。
決して「横並び」イコール平等ではない。個人の能力や個性に応じた平等こそが真の平等であると私は考える。 今の学校では「横並び」を平等と勘違いし(あるいは、指導が容易なためあえて「横並び」を選択し)、現実社会の厳しさから逃避しているのだ。そして、この「横並び教育」は、他者の能力や個性を認めるという人間にとって大切な心の働きをも奪い去っている。このような学校教育の勘違いや現実逃避が子どもの人格形成に悪影響を与え、ひいては社会の退廃を招いているのではないかと私は常々推し量っている。
偏差値や歪んだ受験競争等、人為的な序列化や競争は当然ながら否定されるべきである。が、健全な社会には必然的に競争は存在し、自然に序列化がなされ淘汰されていくものと私は考える。
「横並び」を平等と勘違いした現状の学校教育の下では、自然発生的な競争にさえ耐えられない人材ばかりを育成してしまうのではないかと、私は懸念するのである。
(「原左都子エッセイ集」のバックナンバーも是非お読み下さい。コメントもお待ち申し上げております!)
近世において欧米等諸国が“民主主義”を市民が流血の末に勝ち取ったのと比較して、我が国の場合それを敗戦により米国から与えられたという経緯があるためか、どうもこの国は今もって「人権」に対する意識がすこぶる低く、かつ「自由」や「平等」の解釈を履き違えているのではないかとの感が否めない。
私は“もはや戦後ではない”と言われた時代にこの世に生を受けた。そんな私の小学生時代(1960年代)の学校教育については当ブログの「道徳教育私論」でも一部述べさせていただいているので、そちらもご参照下さればうれしく思う。 当時の小学校においては、時代背景的に決して「横並び教育」ではなかった。私の印象では“学業成績第一主義”であったように記憶している。これも大いに歪んだ教育ではあるのだが、子どもにとってある意味での“わかりやすさ”はあったように思う。例えば学級委員等クラスを統率する生徒や、学芸会や音楽会等での中心人物は担任教員の一任で成績順に決められていた。高学年になってからは立候補制も取り入れられていたが、結局は成績上位者が立候補し、すぐさま皆の支持も得られすんなりと代表に決まっていたようであった。
現在の公立小学校を保護者の立場から垣間見ると、何事にも当番制、輪番制が取り入れられ生徒全員に“一見”「平等」な機会を与えているような錯覚に陥る。加えて、学級委員や学芸会、音楽会等の出演者決定には“立候補”制が取り入れられていて、あたかも「平等」に加えて自主性をも演出しているつもりであるのは理解できる。しかし、実はこの“立候補”制にも大きな落とし穴があり、その実態は単なる「横並び」でしかないのだ。というのも、立候補者の後のフォロー(少なくとも立候補には責任が伴うことを指導し、立候補した子ども達にその責務を全うするべく努力させるべきである。)がまったくなされておらず、何年経ってもいつもいつも同じ子ども達が立候補し、毎年同じパフォーマンスが繰り返されるのだ。何も誰も、たかが小学校の行事に技や芸、また作品の完成度の高さを求めている訳ではないのだが、立候補制を採り入れさえすれば保護者からのクレームがないであろうとの学校側の短絡的な発想が見え見えで、保護者としては辟易とするしかないのである。これはまさに違った形での“横並び”でしかない。
「横並び」が平等だと勘違いしている公教育で育った子ども達は気の毒だ。その子ども達が学校を卒業(中退でもいいが。)し、一旦社会に進出すると(大変失礼な言い方ではあるが公務員になる以外は?)そこには厳しい競争社会の現実が待ち構えているのだ。今までの「横並び」の学校教育とはまったく異質の別世界が広がっているのである。その現実社会へスムーズに移行しきれずあえぐ若者が多いのではなかろうか。
決して「横並び」イコール平等ではない。個人の能力や個性に応じた平等こそが真の平等であると私は考える。 今の学校では「横並び」を平等と勘違いし(あるいは、指導が容易なためあえて「横並び」を選択し)、現実社会の厳しさから逃避しているのだ。そして、この「横並び教育」は、他者の能力や個性を認めるという人間にとって大切な心の働きをも奪い去っている。このような学校教育の勘違いや現実逃避が子どもの人格形成に悪影響を与え、ひいては社会の退廃を招いているのではないかと私は常々推し量っている。
偏差値や歪んだ受験競争等、人為的な序列化や競争は当然ながら否定されるべきである。が、健全な社会には必然的に競争は存在し、自然に序列化がなされ淘汰されていくものと私は考える。
「横並び」を平等と勘違いした現状の学校教育の下では、自然発生的な競争にさえ耐えられない人材ばかりを育成してしまうのではないかと、私は懸念するのである。
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