原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

宝の持ち腐れ

2007年09月19日 | 自己実現
 近年、晩婚、高齢出産を選択する人々が怒涛の勢いで増え、何も特別な事ではなくなっている。 40歳を過ぎてからの出産も今や少しも珍しい事ではないようだ。


 かく言う私も、晩婚、高齢出産の道のりを歩んできている。

 私が適齢期(この言葉も今や死語と化しているが。)を過ぎた頃(今から30年近く前の話になる。)は、まだ、ハイミス、オールドミス、売れ残り、行き遅れ、という類の言葉が生命を持っていた時代であった。
 今思うと、とんでもない差別用語であるし、そもそも私的な事柄であり“大きなお世話”以外の何ものでもないのだが。 
 当時は20歳代後半にさしかかった女性がまだ独身でいると、早くもこれらの言葉に該当するらしく、職場などの組織の中でもそろそろ浮いた存在となり始めるのだ。 それにともない、友人関係や異性関係が希薄化し、人間関係において一抹の寂しさが漂い始める。 自分の意思とは関係なく、周囲からもはや用の無い人間として扱われるような境地に置かれる。
 
 私は、その頃の心境を親しい友人に「何だか最近、自分が“宝の持ち腐れ”のようでもったいない気がする。」と表現したことがある。 それを聞いた友人は「よくまあ、ぬけぬけと言うわ。」くらいに感じたようだ。 が、まだまだ利用価値が十分あるのに、世間は私たちにハイミスだ何だと勝手にレッテルを貼って蚊帳の外に置くなんて、もったいないことをするものだ、と本気で考えていた。 
 私の口から“宝の持ち腐れ”という言葉が出る所以は、当時の世間の常識とは裏腹に、自分自身に(若気の至りゆえの)自信があったからに他ならない。 そんな固定観念に縛られた見識の狭い世間をせせら笑いつつ、私はマイペースで十分に“行き遅れ”をエンジョイし、長い長~い“ハイミス”時代を謳歌した。


 時は流れ、40歳近くで結婚、出産間近で退職し、プレ更年期真っ只中育児に追われているうち、早くも50歳を過ぎ本格的な更年期を迎えている。
 体調は不良気味、頭は老化の一途を辿り、薄毛は進行し、顔はしわとしみだらけになるばかり…。  子どもは未だ中学生で手がかかる。

 再び就業を試みても自分自身が納得のいく仕事はまず年齢制限で門前払い、何とか妥協線の仕事を見つけ、試験、面談にこぎつけても結局は理由不明で不採用となる。(と言うより、雇う側の気持ちもわかる。私が採用者であっても、この就職難で若い人材がいくらでもより取り見取りの時代に、何も好き好んで高齢者を雇うような冒険はしないであろう。仕事の能力が同等ならば、若い人の方が扱いやすいし、体力もあるし、支払う給料も少なくて済むし、いいに決まっている。)
 それでは、趣味にでも励もうかと思いそうはしているのであるが、何事であれ若い頃のように単純には感情移入しにくく達成感が得られにくい。
 人間関係もまた然りである。独身時代の友人とは必然的に一人ひとり疎遠になっていく。周りを見渡せば、同じ子育て中のお母様方はひとまわりも年齢が下だ。 異世代コミュニケーションもたまにはいいのだが、“自”を出した本音でのお付き合いは困難だ。 
 一方で、“適齢期”で結婚し既に子育てが終了した同年代の主婦たちが、楽しそうに第二の人生をエンジョイしている。たまに、お誘いを受けてはみても、どうしてもこの主婦達のノリには同調しづらく自分を抑えたお付き合いとなってしまい、かえってストレスがたまる。


 そしてまた、“宝の持ち腐れ”感に陥らざるを得ない訳である。(と、ぬけぬけと言ってないで、日々、些細な「成功」を積み重ねる努力をしよう。)
 
<「成功の尺度」参照>