(Part1 からの続きです。)
座席を譲った方の経験は多いが、その中で一番よく憶えているのは、上京して間もない若かりし頃のことである。お年寄りが電車に乗ってきたため、私は直ぐに立って「どうぞ」と座席を譲ると、その男性は快く座ってくれた。すると、その方はやわら買い物袋からおそらくご自身のために買ったと思われる“コーンの缶詰”を取り出して、私に「これ、持って帰りなさい。」と持たせてくれるので、若干躊躇はしたがご好意に甘えていただいて帰ったことがある。
近年は、譲られる方が譲られて迷惑したごとくの話もよく耳にする。譲られる側にも様々な事情があるようだ。例えば、自分はまだまだ若いのに年寄り扱いされて自尊心を傷つけられた、と言う人もいれば、自分は人様の世話にはならぬと恩を売られる事をかたくなに拒む人もいる。また、健康のために立っている人もいる。深刻なのは、体が不自由で立ったり座ったりの動作が難儀なため立っているのに席を譲られて困惑した人もいるようだ。
上記(Part1)のように、私も座席を譲られた経験があるため譲られる側の気持ちが少し理解できるのであるが、行きずりの人から席を譲られるという行為自体に、まずは戸惑ってしまう人も多いのではなかろうか。昔は、見知らぬ人が席のお礼に“コーンの缶詰”を差し出すような(上記参照)、人と人とのかかわりが円滑な時代もあった。時代が流れ人間関係が希薄化し、人の好意を逆手に取るような犯罪も激増している現在、特に見知らぬ人同士のコミュニケーションが老いも若きもぎこちなくなってしまっている。人の好意を素直に受け取って良いものやら悪いものやら、はたまた最初から疑ってかかるのが無難なのやら、その逆の立場すなわち好意を提供する側もまた同様に、判断がつきにくい世知辛い世の中となってしまっていることは残念ながら事実である。ましてや、席を譲られるのはとっさの出来事で、相手の好意に即時にそつなく応じるという、スマートな行為をやってのけられる人が激減しているのではないかと感じる。
そこで提案であるが、席を譲られたら、身体的ハンディ(席に座れない等の)が無い限りは自分のプライドや頑固さは一旦胸のポケットにしまって、その好意に甘える振りをしてはどうか。席を譲る側は譲られる側よりも大抵は年齢が下の世代であろう。その人生の後輩のモラルを育てる意味合いでも、譲られる側はたとえ演技であれその好意を無にしないで欲しいと私は思う。そして、譲る側も、例えばさりげなく降りる振りをして席を立つ等、譲られる側の心理的負担とならないような譲り方を工夫してはいかがか。
世の中、自分の知人なんてほんのひと握り、その他は皆知らない人たちばかりなのだ。その知らない人たちとのちょっとしたコミュニケーションがうまっくいってこそ、自分の世界が広がり、ひいては社会全体が円滑に機能していくのであろう。そのためには、場を把握する力、自分を客観視できる力を育て、他者に配慮するゆとりを持たねばならない。たかが乗り物という小さな社会であるが、一期一会を大切にして、人々のささやかなコミュニケーションが息づいていくことに期待したい。
「優先席物語(Part1)(Part2)」 the end
座席を譲った方の経験は多いが、その中で一番よく憶えているのは、上京して間もない若かりし頃のことである。お年寄りが電車に乗ってきたため、私は直ぐに立って「どうぞ」と座席を譲ると、その男性は快く座ってくれた。すると、その方はやわら買い物袋からおそらくご自身のために買ったと思われる“コーンの缶詰”を取り出して、私に「これ、持って帰りなさい。」と持たせてくれるので、若干躊躇はしたがご好意に甘えていただいて帰ったことがある。
近年は、譲られる方が譲られて迷惑したごとくの話もよく耳にする。譲られる側にも様々な事情があるようだ。例えば、自分はまだまだ若いのに年寄り扱いされて自尊心を傷つけられた、と言う人もいれば、自分は人様の世話にはならぬと恩を売られる事をかたくなに拒む人もいる。また、健康のために立っている人もいる。深刻なのは、体が不自由で立ったり座ったりの動作が難儀なため立っているのに席を譲られて困惑した人もいるようだ。
上記(Part1)のように、私も座席を譲られた経験があるため譲られる側の気持ちが少し理解できるのであるが、行きずりの人から席を譲られるという行為自体に、まずは戸惑ってしまう人も多いのではなかろうか。昔は、見知らぬ人が席のお礼に“コーンの缶詰”を差し出すような(上記参照)、人と人とのかかわりが円滑な時代もあった。時代が流れ人間関係が希薄化し、人の好意を逆手に取るような犯罪も激増している現在、特に見知らぬ人同士のコミュニケーションが老いも若きもぎこちなくなってしまっている。人の好意を素直に受け取って良いものやら悪いものやら、はたまた最初から疑ってかかるのが無難なのやら、その逆の立場すなわち好意を提供する側もまた同様に、判断がつきにくい世知辛い世の中となってしまっていることは残念ながら事実である。ましてや、席を譲られるのはとっさの出来事で、相手の好意に即時にそつなく応じるという、スマートな行為をやってのけられる人が激減しているのではないかと感じる。
そこで提案であるが、席を譲られたら、身体的ハンディ(席に座れない等の)が無い限りは自分のプライドや頑固さは一旦胸のポケットにしまって、その好意に甘える振りをしてはどうか。席を譲る側は譲られる側よりも大抵は年齢が下の世代であろう。その人生の後輩のモラルを育てる意味合いでも、譲られる側はたとえ演技であれその好意を無にしないで欲しいと私は思う。そして、譲る側も、例えばさりげなく降りる振りをして席を立つ等、譲られる側の心理的負担とならないような譲り方を工夫してはいかがか。
世の中、自分の知人なんてほんのひと握り、その他は皆知らない人たちばかりなのだ。その知らない人たちとのちょっとしたコミュニケーションがうまっくいってこそ、自分の世界が広がり、ひいては社会全体が円滑に機能していくのであろう。そのためには、場を把握する力、自分を客観視できる力を育て、他者に配慮するゆとりを持たねばならない。たかが乗り物という小さな社会であるが、一期一会を大切にして、人々のささやかなコミュニケーションが息づいていくことに期待したい。
「優先席物語(Part1)(Part2)」 the end