私はこの世代(更年期真っ只中であるが。)にしては、メールを始めるのは早い方だったと思う。ただし、パソコンメールの話であるが。携帯メールに関しては、未だに苦手である。どうも、あの左手親指入力がまどろっこしく苛立ってしまうためだ。携帯メールの方が外出時にも対応できる等の利用価値が大きい場面もあることは承知している。が、普段はパソコンメールに頼る毎日である。
私がパソコンメールを始めた頃は、単純な一対一の文書交換手段しかなかったが、その即時性が斬新であったし、手紙とも電話とも趣の異なるメール独自の機能性が興味深く感じられたものだ。確かに当初より、世間で言われる軽薄感を私も感じないではなかったが。
間もなくこのメールはどんどん進化し始め、私にとってメールが煩わしい存在となる機能と出くわすこととなる。
メールが多機能化された中でも、とりわけ一名の発信者から多数の受信者へ同一内容のメールを同時に送信できる機能、及び、グループ内の誰か一名からグループ全員に同一メールを送信できる機能(両者共同じ機能なのであろうが、送信者が受信者の知人であるか否かにおいてまったく異なる性質を持つと私は認識している。)が開発されたことが、私にとっては一番の煩わしさとなった。この機能も使途によっては利用価値のあることは認めるが、この機能が誕生したがためにメールの風格が著しく低下してしまい、無機質な、あるいは迷惑な通信手段と成り下がってしまったように私は感じている。
営利目的の業者がこれを利用し商業活動を行う分には、受信者側は不必要であれば即時削除すれば済むため特段問題はないとも言える。ただし、無選別にむやみやたらと送信してくるのは迷惑千万だし、個人情報保護には是非とも留意いただきたいものである。
だが、さらに困惑するのは後者の方で、自分の知人よりそのグループ全員宛に、一斉にひとりよがりのメールが届けられるような場合である。(例えば、子どものPTA関係の保護者や、たまたま出席した同窓会の一同窓生から、その方の仕事関係等のメールが入る場合だ。)当方にとっては特別親しい間柄でもなく関心も無く重要性も乏しい内容なのだけれど、相手がなまじっか知人であるため始末が悪い。律儀な私としては即時削除ともいかず頭を悩ませることとなる。この類のメールが多発し始めそれが苦痛となり、一時メールを中断せざるを得ないはめとなってしまった。
何年かメールから距離をおいた後、一昨年からまたメールを再開した。再開してみると、このブランクが功を奏したのか、実は皆さん同じ思いだったのか、あるいは私がひとりだけ変わり者で仲間はずれなのか(十分あり得るし、そうでありたいという願望も実は少しある。この辺の私の思いについてはまた後日語ることとしよう。)、はたまた世の中全体のメールの使い方が進化し洗練してきたのか、上記のようなひとりよがり系のメールがめっきり減少しているようだ。とは言えども、日々届くメールのうち当方にとって有用なメールはほんの一握りに過ぎない。大切なメールを削除してしまわないよう神経を配りつつ不用メールの削除作業をする事から、毎日私のパソコン作業は始まる。
そんな中、何気ない日常にほのかなエッセンスを与えてくれるメールに出くわすと、ほんの少し幸せをいただけたようでうれしいものだ。メールの発信者側としても、そんなメールを届けられたらいいなと思いつつ、送信ボタンをクリックする日々である。
私がパソコンメールを始めた頃は、単純な一対一の文書交換手段しかなかったが、その即時性が斬新であったし、手紙とも電話とも趣の異なるメール独自の機能性が興味深く感じられたものだ。確かに当初より、世間で言われる軽薄感を私も感じないではなかったが。
間もなくこのメールはどんどん進化し始め、私にとってメールが煩わしい存在となる機能と出くわすこととなる。
メールが多機能化された中でも、とりわけ一名の発信者から多数の受信者へ同一内容のメールを同時に送信できる機能、及び、グループ内の誰か一名からグループ全員に同一メールを送信できる機能(両者共同じ機能なのであろうが、送信者が受信者の知人であるか否かにおいてまったく異なる性質を持つと私は認識している。)が開発されたことが、私にとっては一番の煩わしさとなった。この機能も使途によっては利用価値のあることは認めるが、この機能が誕生したがためにメールの風格が著しく低下してしまい、無機質な、あるいは迷惑な通信手段と成り下がってしまったように私は感じている。
営利目的の業者がこれを利用し商業活動を行う分には、受信者側は不必要であれば即時削除すれば済むため特段問題はないとも言える。ただし、無選別にむやみやたらと送信してくるのは迷惑千万だし、個人情報保護には是非とも留意いただきたいものである。
だが、さらに困惑するのは後者の方で、自分の知人よりそのグループ全員宛に、一斉にひとりよがりのメールが届けられるような場合である。(例えば、子どものPTA関係の保護者や、たまたま出席した同窓会の一同窓生から、その方の仕事関係等のメールが入る場合だ。)当方にとっては特別親しい間柄でもなく関心も無く重要性も乏しい内容なのだけれど、相手がなまじっか知人であるため始末が悪い。律儀な私としては即時削除ともいかず頭を悩ませることとなる。この類のメールが多発し始めそれが苦痛となり、一時メールを中断せざるを得ないはめとなってしまった。
何年かメールから距離をおいた後、一昨年からまたメールを再開した。再開してみると、このブランクが功を奏したのか、実は皆さん同じ思いだったのか、あるいは私がひとりだけ変わり者で仲間はずれなのか(十分あり得るし、そうでありたいという願望も実は少しある。この辺の私の思いについてはまた後日語ることとしよう。)、はたまた世の中全体のメールの使い方が進化し洗練してきたのか、上記のようなひとりよがり系のメールがめっきり減少しているようだ。とは言えども、日々届くメールのうち当方にとって有用なメールはほんの一握りに過ぎない。大切なメールを削除してしまわないよう神経を配りつつ不用メールの削除作業をする事から、毎日私のパソコン作業は始まる。
そんな中、何気ない日常にほのかなエッセンスを与えてくれるメールに出くわすと、ほんの少し幸せをいただけたようでうれしいものだ。メールの発信者側としても、そんなメールを届けられたらいいなと思いつつ、送信ボタンをクリックする日々である。