原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

メール考

2007年09月11日 | その他オピニオン
 私はこの世代(更年期真っ只中であるが。)にしては、メールを始めるのは早い方だったと思う。ただし、パソコンメールの話であるが。携帯メールに関しては、未だに苦手である。どうも、あの左手親指入力がまどろっこしく苛立ってしまうためだ。携帯メールの方が外出時にも対応できる等の利用価値が大きい場面もあることは承知している。が、普段はパソコンメールに頼る毎日である。
 私がパソコンメールを始めた頃は、単純な一対一の文書交換手段しかなかったが、その即時性が斬新であったし、手紙とも電話とも趣の異なるメール独自の機能性が興味深く感じられたものだ。確かに当初より、世間で言われる軽薄感を私も感じないではなかったが。
 間もなくこのメールはどんどん進化し始め、私にとってメールが煩わしい存在となる機能と出くわすこととなる。
 メールが多機能化された中でも、とりわけ一名の発信者から多数の受信者へ同一内容のメールを同時に送信できる機能、及び、グループ内の誰か一名からグループ全員に同一メールを送信できる機能(両者共同じ機能なのであろうが、送信者が受信者の知人であるか否かにおいてまったく異なる性質を持つと私は認識している。)が開発されたことが、私にとっては一番の煩わしさとなった。この機能も使途によっては利用価値のあることは認めるが、この機能が誕生したがためにメールの風格が著しく低下してしまい、無機質な、あるいは迷惑な通信手段と成り下がってしまったように私は感じている。
 営利目的の業者がこれを利用し商業活動を行う分には、受信者側は不必要であれば即時削除すれば済むため特段問題はないとも言える。ただし、無選別にむやみやたらと送信してくるのは迷惑千万だし、個人情報保護には是非とも留意いただきたいものである。
 だが、さらに困惑するのは後者の方で、自分の知人よりそのグループ全員宛に、一斉にひとりよがりのメールが届けられるような場合である。(例えば、子どものPTA関係の保護者や、たまたま出席した同窓会の一同窓生から、その方の仕事関係等のメールが入る場合だ。)当方にとっては特別親しい間柄でもなく関心も無く重要性も乏しい内容なのだけれど、相手がなまじっか知人であるため始末が悪い。律儀な私としては即時削除ともいかず頭を悩ませることとなる。この類のメールが多発し始めそれが苦痛となり、一時メールを中断せざるを得ないはめとなってしまった。
 何年かメールから距離をおいた後、一昨年からまたメールを再開した。再開してみると、このブランクが功を奏したのか、実は皆さん同じ思いだったのか、あるいは私がひとりだけ変わり者で仲間はずれなのか(十分あり得るし、そうでありたいという願望も実は少しある。この辺の私の思いについてはまた後日語ることとしよう。)、はたまた世の中全体のメールの使い方が進化し洗練してきたのか、上記のようなひとりよがり系のメールがめっきり減少しているようだ。とは言えども、日々届くメールのうち当方にとって有用なメールはほんの一握りに過ぎない。大切なメールを削除してしまわないよう神経を配りつつ不用メールの削除作業をする事から、毎日私のパソコン作業は始まる。
 そんな中、何気ない日常にほのかなエッセンスを与えてくれるメールに出くわすと、ほんの少し幸せをいただけたようでうれしいものだ。メールの発信者側としても、そんなメールを届けられたらいいなと思いつつ、送信ボタンをクリックする日々である。

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徒歩生活のススメ(Part2)

2007年09月11日 | その他オピニオン
  (Part1 からの続きです。)

 自転車は走行上のマナー面での問題も大きい。自転車に乗っている人たちにとって、歩行者は邪魔な“もの”でしかないのであろう。法的には自転車は車道を通行することに決められているそうであるが、都会の場合、現状の道路事情では自転車の車道走行は危険性が高いということは理解できる。そこで、ほとんどの自転車が狭い歩道を通行しているわけであるが、歩行者にチャリチャリ鈴を鳴らさずとて、対等な人間同士なのだから「すみません。」「通ります。」等、一言声を掛ければよいではないか。スピードが速い方が偉いとでも無意識に思ってしまうのであろうが、そんなに歩行者をないがしろにせずとも、そこを人間として何とか理性でカバーできないものなのか。
 それにしても、この自転車の多さはどうしたことか。いつの時代から人はこんなに自転車を愛好し始めたのだろうか。特に都会の場合、この道路事情を考慮すると安全に自転車走行ができる環境には程遠い。自転車台数に相当する駐輪場も確保されていない現状である。現在、自転車による交通事故が急増しているため、自転車をめぐる法的整備が進められているようではあるし、自転車専用道を増やすことも検討されているようでもある。だが、それよりも優先して取り組むべき事は、まずは自転車走行者の意識改革、ひいては自転車台数を減らすことではなかろうか。
 我が家のメンバーは上記(Part1参照)のごとく、その理由はともかく結果として交通弱者である歩行者であることを選択している。この徒歩生活なかなか乙なものである。歩く事は適度な運動となり健康維持や老化防止に役立つ。そしてとにかく身軽であり、自由度が高い。自分の身ひとつでいつでもどこへでも自由に出かけていける。この身軽さに慣れてしまうと、車や自転車はかえって不便でわずらわしい気がする。
 車や自転車の愛好者の皆さんも、「徒歩」という人間にとっての原点である移動手段の長所を是非見直した上で、必要に応じた移動手段の使い分けを再考されてはいかがか。



  「徒歩生活のススメ(Part1)(Part2)」  the end
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徒歩生活のススメ(Part1)

2007年09月11日 | その他オピニオン
 昨年、マイカーを廃車した。廃車を決断した直接のきっかけは、ほとんど車に乗らないのに駐車場代や車検費用、保険料、税金はじめ諸維持費が無駄な出費となっていたためだ。
 なぜ車に乗らないのかというと、環境保護に配慮して、…なんて言うと優等生のようで嫌みったらしいが、確かにそれも理由のひとつである。加えて、交通弱者である歩行者への配慮の観点からも車の利用は控えたい、と常々考えていた。だが、車に乗らない実際上の理由は至って単純で、運転が嫌いなためである。都会で車を運転するのは大変な業だ。神経質な私は神経が磨り減ってしまう。そうでなくとも神経をすり減らすべき事は他に盛りだくさんなのに、たかが移動手段で疲れていてもらちが明かない。また、どうしたことか我が家の亭主も私に輪をかけて運転嫌いなのである。たまに車で遠出した暁には必ず翌日は寝込んでいる。近年は二人で運転のなすり合いをしていたため、子どもの中学進学に合わせて廃車したのだが、心底肩の荷が下りた。その後特段何も不自由していない。今時、マイカーの無い家庭など珍しい存在であろうから、子どもが肩身の狭い思いをしないかという点だけが若干心配ではあるが…。
 私は自転車にも乗らない。こちらの方はポリシーがあってのことである。自転車に乗るためには服装や履物が限定されてしまう(世間ではミニスカートで平気で乗っている人も見かけるが、私にはそこまで身を挺する勇気はない。)が、若かりし頃から、ファッションを自転車に合わせるというような、そういう“縛り”が受け入れ難いためである。
 加えて、日頃より放置自転車には辟易としている。駐車違反の車の取り締まりは元々厳しいのに最近さらにその厳格さが増した一方で、なぜ、放置自転車の取り締まりは未だにこうも中途半端なのであろうか常々疑問である。歩行者の立場から発言させていただくと放置自転車は通行上障害となっており危険であるし、街の景観上も大きな汚点である。我が家の近くには桜並木が美しい区民の散歩道があるのだが、特に駅の近くのこの散歩道は放置自転車置き場と化しており、道幅の半分は放置自転車に占領されている。しかも、その狭い道の半分を放置自転車を避けながら何とか歩いていると、自転車が我が物顔で「そこどけ!」とばかりにチャリチャリ鈴を鳴らして通り過ぎるため、歩行者はおちおち歩けたものではない。これが、毎日のことで、ほとほと嫌気がさしている。実際にこの道で自転車と歩行者の接触事故を目撃した事もある。さらに、せっかくの桜の名所を何故にこんなに落ちぶれた姿にするのかと、自転車を放置する人たちの美的感覚にも落胆する日々である。


 (「徒歩生活のススメ(Part2)」へ続く)
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