(冒頭写真は、郷里医学部故恩師「小論文集」に掲載されている恩師のご生家でもある 観音寺 のお写真を転載させて頂いたもの。 来る1月26日にここを訪れる予定だ。)
当該故恩師「小論文集」に関して記載した本エッセイ集2017.11.18公開のバックナンバー「郷里医学部故恩師より贈り届けられた小論文集」の一部を、以下に引用させていただこう。
(当該書籍を)随分と分厚く重いと感じつつ、一体恩師が如何なる書物を私にお贈り下さったのだろうとの興味深い思いで開封した。
恩師ご本人は、2016年秋にお亡くなりになっている。 その記憶が未だ浅い中、当該書物をご送付下さったのは恩師の奥様と二人の息子さんの連名となっていた。
前夜届いたばかりで、恩師著「道を求めて」との小論文集に未だほんの少ししか目を通していない段階だ。
そのため、本日のエッセイでは我が卒業研究論文を通して、恩師中村先生との学生時代の思い出を振り返ることとする。
恩師ご本人は、2016年秋にお亡くなりになっている。 その記憶が未だ浅い中、当該書物をご送付下さったのは恩師の奥様と二人の息子さんの連名となっていた。
前夜届いたばかりで、恩師著「道を求めて」との小論文集に未だほんの少ししか目を通していない段階だ。
そのため、本日のエッセイでは我が卒業研究論文を通して、恩師中村先生との学生時代の思い出を振り返ることとする。
上記「Hayem液を使用しない視算法による赤血球算定法の検討」と題する卒業研究論文こそ、私の「科学者の端くれ」人生の出発点であり、一番最初に公に発表した医学論文(と言えるほどの代物ではないが)だ。
これを医学雑誌に投稿してくれた張本人が中村先生だ。
たかが学生の卒論など、大抵未発表のまま埋もれ去り消えゆくのが通常だろう。
ところが、中村先生は違った。 優秀と判断する学生論文を積極的に世に発表していく主義の先生だった。 中には、卒業に先立って学生の身分で名立たる(「臨床病理学会」だっただろうか?)医学学会全国総会の場で発表した仲間もいた。
それに比し、我が卒論の内容など医学的トピックス性の欠片も無い内容だ。
ただただ丹念にサンプリング実験を繰り返し、結論を導いた単純な実験医学論文の部類に過ぎない。 ただ、そんな地道な実験作業を熱心に繰り返す我が姿を、中村先生は必ずや見てくれていた。
ある時、私が中村先生に訴えた。 学生の卒論など、学生同士でサンプルを採取し(例えばそれが血液の場合、学生同士で採血し合ってサンプルをゲットするのが通常だったが)検体対象としたのが事実だ。 ただそれを繰り返していても、臨床現場に於いて様々な病状を抱える患者氏達の赤血球サンプリングが不能だと考えた私は。
それを打破するため、大学付属病院にて検査済みの実際の患者氏達の血液を入手できないか、と中村先生に訴え出たのだ。 そうしたところすぐさま中村先生は、大学病院から私が欲する患者検査後の廃棄する運命にある血液の残りを何度も持ち帰って下さったのだ。
この中村先生のお力添えが無ければ、我が卒論はまるで意味をなさなかっただろう。
健常人の赤血球では得られない、例えば溶血性(赤血球が体内で溶ける症状)のある患者等々の血液をサンプリング対象と出来た事により我が卒論に幅が出て、ある程度有意の結論が導けたのだ。
今一度断っておくが、我が卒論は決して当時の医学トピックスを追う類のものではなかった。
それでも毎夜遅くまで実験室で幾度もサンプリングを繰り返したり、あるいは、先生に患者の検査後の血液を要求した事実から、中村先生には熱心な学生と捉えられたことであろう。
その後私が就職活動をするに当たり、当時の時代背景としては大変珍しく、臨床現場である地元の病院ではなく私は上京して民間医学企業への就職を決定した。
それを快く応援して下さったのは、中村先生一人だった。 その他の先生方は「何もそんな冒険せずとも」「地元大病院で活躍できるのに」等々不快感を提示された。
更にその後、何と中村先生は、我が東京の医学民間企業に学生を引き連れて見学に訪れたいと私に直接願い出て来られたのだ。 私が当該企業に就職後、わずか2,3年の頃だ。
それに私の所属企業も応えてくれ、学生30名程を引き連れてやって来た中村先生と久しぶりのご対面だった。
いやはや、中村先生の“先見の明”にも驚かされる。 我が所属医学関連企業は(私の大いなる働きもあり??)その後“破竹の勢い”で成長を遂げることと相成って、今や押しも押されもしない東証一部上場大企業に成長している。
現在に至っては、中村先生の働きかけが大きいと想像するが、我が大学の後輩たちは臨床現場のみならず基礎医学分野や民間企業への進出が劇的に増大している様子だ。
中村先生とはご生前長年に渡り、ずっと年賀状のやり取りをさせて頂いただろうか。
その後私が当該医学民間企業を退職して新たに別分野にて大学・大学院進学するに際しても、大いなるエールを送って下さったものだ。
更なる後に娘を産んだ暁に国立研究開発法人理化学研究所にて研究助手を始めた折にも、「頑張り続けているね!」旨の返信を頂いたことを記憶している。
(以上、本エッセイ集2017年11月バックナンバーより一部を引用したもの。)
本日このエッセイをしたためようと考えたのには、理由がある。
来る1月26日よりまたもや娘を引き連れて、今度は我が郷里へ3年ぶりに旅に出る予定だ。
今回の旅の第一目的が、冒頭写真の 観音寺 を訪れることにある。
中村先生の奥様より、既に我が観音寺訪問のご快諾を頂戴している。
ご生前に伺えば良かったものを… この種の発想とは、お亡くなりになって後に出るものかもしれない…
それに先立ち後2週間程で、故中村先生の分厚い「小論文集」を熟読させて頂く予定だ。
今回はその前書きをしたためたまでである。
参考だが、中村先生の略歴を記させていただこう。
大阪大学医学部医学科ご卒業後「医師免許」を取得されると同時に、医学研究科を修了され「医学博士」の学位を取得。 インフルエンザワクチンの開発研究にて業績を挙げられた後に、我が出身郷里の大学医学部にて内科に所属されると同時に、医学部教授として学生指導に於いても活躍されている。
加えて。
観音寺のご住職としてもご活躍されるとの、超人的才能の持ち主でもあられる。😱
この中村先生、そのファーストネームをもじって学生間では「パーフェクト先生」との異名で呼ばれていたが、まさに何をされても“超天才的”ご人物であられた。