私自身は幼稚園から大学院まで、ずっと共学の学校へ通った身だ。
積極的にそれを選択した訳でも何でもなく、単に私が生まれ育った過疎地では、その選択肢しか存在しなかったに等しいからに他ならない。
年月が流れ、高齢出産で産んだ我が娘をどちらへ行かせようか、との選択を迫られる身となり。
小学校に関しては、当然のごとく「共学」だろうと判断していた。
時は娘の中学進学時期に移り行き。
この時は、やはり親こそがその決断をするべきと考えた。
と言うもの、我が娘の場合は「発達障害」との特殊事情を抱えていた。 そんな娘が日々安心して過ごせる環境を模索し、提供してやるのは親の責任と判断した。
我が家の近くに公立中学校があるのだが、家の南面の道がその中学の通学路となっていて、日々男子生徒がその通学路で大騒ぎをしでかす。 10名ぐらいで徒党を組んで通行車両妨害をしたり、大声で叫びながら歩いてみたり…
(これ、私でも鬱陶しいのに、か弱き娘にそんな環境下で過ごして欲しくない)、と自然と思えた。
そして娘に、中学は女子中にしようか? と提案すると、(サリバン母には特別従順な娘であった故だろうが😖 )すんなりと私立女子中学進学が決定したとのいきさつだ。
その後は私立女子中高を経て、大学も女子大を選択する道のりを歩んだ。
ついでに言えば、現在娘が通う職場は当然ながら男女職員が入り乱れているが(男性の方が多数のようだが)、娘に取っては何らの不都合もない様子で、日々真面目に職場へ通ってくれている。
さて、本日2021.06.29付朝日新聞「耕論」のテーマは、「再考・共学と別学」だった。
その中から、「『男女平等のため』は単純」と題する教育史研究者・友野清文氏の論評の一部を、以下に要約して紹介しよう。
「別学か共学化」は、社会で何度となく繰り返されている議論だ。「女子だけの方がリーダーシップ力が身につく」「共学で多様な異性観を学ぶべき」など、別学、共学それぞれを推進する立場から、両者のメリットとデメリットが提示される。
でも、これまでの議論には欠けている視点があるように見える。 本当に重要なのは別学・共学という「入れ物」ではないはずだ。 (中略)
70年代になると、過去の「女性特性論」すなわち女は「産む性」との前提の教育は影を潜め、代わって出てきたのが「共学でも平等になっていないのではないか」という視点だ。
さらに90年代からは、ジェンダー視点からみた「別学か共学か」の議論が現れて。
私(友野氏)は、「男女平等のためには共学」というのは単純過ぎると思う。 別学であろうと共学であろうと、本当に問うべきはジェンダーの公平さだ。 (中略)
別学において、特に男子校出身者は性別役割意識が強い傾向が現れるとの調査もある。
私(友野氏)は、誰でも受け入れるべき公立学校は共学が望ましいと考えている。 一方で、別学の方が学びやすい生徒がいるのも事実。 そうした選択肢は私学がきちんと残すべき。
別学か共学かは一つの要素に過ぎず、誰にとっても「いい教育」は存在しない。 あるのは個々の生徒にとってのいい教育だ。 その選択肢として、別学も共学も選べる必要はある。 「別学か、共学か、との議論を繰り返しても」前には進めない。
(以上、本日付朝日新聞「耕論」よりごく一部を要約したもの。)
最後に、我が娘に話題を戻そう。
以前より小出しにしているが、我が娘にはどうやら“恋愛感情”が欠落している様子だ。
これが先天的なものなのか、私が中学校から女子校ルートを歩ませてしまったせいなのか?? と時々自身の娘に対する過去の指導を責める思いに陥ったりもする。
ただおそらく前者が正解なのであろう。
と言うのも、女子校へ通おうが恋愛三昧の女子は世に数多いことであろう。
加えて新卒入社以降既に6年目に突入している職場に於いて、未だ男性を意識すること場面が無い様子だ。 (いえ、A氏がイケメンだとか、B氏は優しい、だとかの話題はサリバン母に時折語ってくれる可愛い娘ではあるものの…)
結論を述べるならば、我が家の場合は娘に女子校ルートを歩ませた事実が間違いだったのではなく。
まさに上記友野先生がおっしゃる通り、別学か共学かは一つの要素に過ぎず、誰にとっても「いい教育」は存在しない。 あるのは、個々の生徒にとってのいい教育。
その意味では、我が家の娘は娘なりに“よき教育”を受けることができたとサリバン母としては結論付けたいように思う…