(写真は、寿司店で注文した寿司の一部。)
我が家には、「母の日」の習慣などない。
何故ならば、サリバン母の私にとっては娘の成長が第一義であれども、娘からのフィードバックなど一切期待できるはずも無かった故だ。
もちろん、私から実母や義母に母の日に何某かのプレゼントをするとの儀式は毎年実行している。 ただ、その行動 =(イコール)娘からのプレゼント、につながるなど絶対にあり得ないであろう事を私はずっと以前より認識・覚悟してきた。
だからこそ、私はテレビCMや新聞広告等で「母の日」がどうしたこうしたと報道されようと、本気で何とも思わない人種だ。
何と言えばよいのだろうか。 そういう事で感激する母親達とは、それで十分に済まされるのだろう。
我が家にはもっとずっとずっと大きな課題があったからこそ、「母の日」など超越した母子の関係が蓄積されているぞ‼ との感覚と自信を、いつも母の日に抱く私だ。
我が亭主がそんな母として歩んだ私の心情を知ってか知らずか、母の日前日の昨夜、寿司店で次々と酒のお替りを勧めてくれる。
随分とお酒のお替りをしつつ「母の日」前夜を心地よく過ごせた私こそが、世界で一番「母の日」を家族に祝ってもらえた気もする。
我が家には、「母の日」の習慣などない。
何故ならば、サリバン母の私にとっては娘の成長が第一義であれども、娘からのフィードバックなど一切期待できるはずも無かった故だ。
もちろん、私から実母や義母に母の日に何某かのプレゼントをするとの儀式は毎年実行している。 ただ、その行動 =(イコール)娘からのプレゼント、につながるなど絶対にあり得ないであろう事を私はずっと以前より認識・覚悟してきた。
だからこそ、私はテレビCMや新聞広告等で「母の日」がどうしたこうしたと報道されようと、本気で何とも思わない人種だ。
何と言えばよいのだろうか。 そういう事で感激する母親達とは、それで十分に済まされるのだろう。
我が家にはもっとずっとずっと大きな課題があったからこそ、「母の日」など超越した母子の関係が蓄積されているぞ‼ との感覚と自信を、いつも母の日に抱く私だ。
我が亭主がそんな母として歩んだ私の心情を知ってか知らずか、母の日前日の昨夜、寿司店で次々と酒のお替りを勧めてくれる。
随分とお酒のお替りをしつつ「母の日」前夜を心地よく過ごせた私こそが、世界で一番「母の日」を家族に祝ってもらえた気もする。