原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「踊り子」考

2009年12月23日 | 音楽
 この年末は、私の趣味の一つである「バレエ観賞」を2本、立て続けに楽しめることとなった。

 そのうちの1本は、我が娘が幼少の頃よりの我が家における年末恒例行事である「くるみ割人形」観賞なのだが、今年はレニングラード国立バレエ「ミハイロフスキー劇場」版を選んで、東京国際フォーラム公演の座席を予約した。(20日に既に観賞済)
 そして、もう1本は地元の小バレエ団による「コッペリア」である。 「コッペリア」はバレエを習っていた我が娘の古典全幕ものの舞台デビュー作品であるのだが、近くの劇場で公演があるのを発見したため、今週末に娘と共に出かけることにしている。


 ここで突然話を歌謡曲に移すが、私の知る限り「踊り子」と題する歌謡曲が2曲存在する。
 その一曲はフォーリーブスが踊って歌った「踊り子」であり、もう一曲は今は亡きシンガーソングライターの村下孝蔵氏による「踊り子」である。
 両者共に、なかなかの秀作と私は評している。

 それら「踊り子」の歌詞の一部をかいつまんで、以下に紹介してみよう。
 
 まずは、フォーリーブスが歌って踊った阿久悠作詞の「踊り子」から。
  ♪私は踊り子よ ふるまいのお酒にも気軽く酔うような 浮き草の踊り子
   愛してくれるのはうれしいと思うけど あなたはうぶなのよ 何一つ知らない
   このまま別れていきましょう 短い恋と割り切って
   港の酒場ではらんちきの大騒ぎ あなたもあの中で酔いどれておいでよ
   私は踊り子よ うらぶれた灯の下で踊っていることが大好きな踊り子
   ほんとは少しだけまごころに打たれたわ けれどもあなたとは暮らしてはゆけない…

 続いて、村下孝蔵作詞の「踊り子」。
  ♪答を出さずにいつまでも暮らせない
   つま先で立ったまま 君を愛してきた
   踊り出すくるくると 軽いめまいの後 写真をバラまいたように心が乱れる
   拍子のとれている愛だから 隠し合い ボロボロの台詞だけ語り合う君が続き
   坂道をかける子ども達のようだった 倒れそうなまま二人走っていたね
   つま先で立ったまま 僕を愛してきた
   狭い舞台の上で ふらつく踊り子
   愛してる 愛せない 言葉を変えながら
   かけひきだけの愛は 見えなくなってゆく…
   つま先で立ったまま 二人愛してきた
   狭い舞台の上で ふらつく踊り子
   若過ぎた それだけがすべての答だと
   涙をこらえたまま つま先立ちの恋…


 同じ題名の「踊り子」でも、前者は旅芸人の「踊り子」との恋を描いたものである。 川端康成の「伊豆の踊り子」における出逢いを彷彿とさせ、また一方で酒場の“舞妓、芸奴”や“ストリッパー”等にも思いが及びそうな、はかなき“浮き草”の恋物語である。

 片や、後者はクラシックバレエのトーシューズで踊る女性ダンサーの「踊り子」をイメージしつつ悲恋を語った歌であろう。 トーシューズを履いて踊るバレエの「踊り子」と若かりし恋との“不安定感”を交錯させつつ、切ない恋物語が崩れそうに綴られている。 


 「踊り子」にはその踊りのジャンルを問わず、共通項が存在するように私は捉える。
 あらゆる芸術の中でも、自らの「身体」を表現手段としてその芸なり技なり美を訴える芸術は「踊り」しかないのではあるまいか。 (「声楽」もその一種であろうが。)
 
 私事になるが、我が家の娘は幼少時よりクラシックバレエを習ってきている。 小学校高学年にさしかかった頃に、初めて“トーシューズ”を履かせてもらえた時には、一家でお祝いをして喜んだものである。 (「つま先立ち」などという不自然な体型を強要することが、我が子の身体的成長に悪影響を及ぼさないのか??) などという親ならではの懸念も頭の片隅に無きにしもあらずだったのだが、それよりも (これで我が子も子どもから娘として成長できる) がごとくの一種の通過儀式のような感覚が、親の私にも初めて手にしたトーシューズに感じ取れたものだ。

 一方で、私が今現在スポーツジムで楽しんでいるヒップホップやエアロビクスというのは、クラシックバレエとはまったく異なるジャンルの「踊り」である。 “コンテンポラリーバレエ”と名の付く、クラシックバレエから発展したそれに近いバレエが存在するが、その後庶民の間で発生したと思われる上記のヒップホップ等までも含めて、それらの共通点は“トーシューズ”を履かないことにあろう。

 特に私が今現在勤しんでいる「ヒップホップ」など、例えば“猫背”状態で踊ったり、“つま先”よりも“かかと”が中心の踊りと言えそうだ。 (それ以前の問題として、バックの音楽が踊りのジャンルによってすべて異なるのは皆さんもご承知の通りであろうが)
 これはこれで十分に整合性があると捉えて、現在「ヒップホップ」を大いに楽しむ私である。 生活に密着している、と表現すればよいのだろうか? むしろ、歳を重ねた人間にとっては、“猫背”のままで踊っていいと言ってもらえた方が開放感があって自然体で踊れそうなのである。
 要するに“現代舞踊”とは、観賞する「踊り」から自分が楽しむ「踊り」へと変遷の道程を歩んでいるようにも捉えられる。 皆が自分自身で「踊り子」を演じてこその快感享受の時代なのであろう。

 話を戻して「クラシックバレエ」観賞の魅力とは、やはり女性の「踊り子」が“つま先立ち”のトーシューズで踊る研ぎ澄まされた“繊細さ”が醍醐味であるように私は思う。 あの“つま先立ち”の緊張感こそが何百年に及ぶバレエの伝統であり、クラシック音楽とマッチして後世に伝えられるべく正統な芸術なのではなかろうか。


 それにしても「恋」とは、いつの世も、老若を問わず、繊細で不安定ではかなくて“つま先立ち”の存在であるように思えるよね……
                 
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7 Comments

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トーシューズ・・・ (ドカドン)
2009-12-23 16:38:50
トーシューズは、踊りは踊りでも芸術の域に達しています。
トーシューズを脱いだとたん、一般大衆に降りてくるのかなって思います。

踊り子は、京都の舞子にも通じるのでしょうか?

いずれにしても、「踊りたいの」≒「Hしたいの」だと思っているのは私だけ?
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ドカドンさん、そこまで言っていただけたらならば… (原左都子)
2009-12-23 17:02:32
話は簡単です!
実は、私も「踊り」に人間の性(さが)を感じるのです。
究極の表現とは、やはり身体を駆使して汗を流して筋肉や骨の神髄を総動員して行ってこそ芸術域に達するのかな、な~~んて思ったりもする私です。

そういう意味でも、いつまでも健気で可憐で繊細でかつたくましい「踊り子」でありたいものですね!
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三浦光一さんもいました。 (issei)
2009-12-23 18:53:19
 私たちの年代で「踊り子」と言えば、決まっています。どちらかと言えば、前者に分類されると思います。伊東、石和温泉など、温泉地には必ず「ストリップ小屋」がありました。座敷での「踊り子」とクラシックの「バレリーナ」にはとんとご縁がありませんでした。
 昭和40年代以降でしょうか、ダンスのジャンルも多様化しました。しかしチョット待ってください。変わらぬものがあります。民舞と言うジャンルです。民謡の唄に合わせて踊る舞踊のことです。結構人気があります。
 踊り子に戻します。ストリップ小屋では和洋折衷でした。着物もあれば、ドレスもあったように記憶しています。「踊り子さんには手を触れないで下さい」との注意が耳に焼き付いています。笑い。
 私の中での「踊り子」のイメージは原さんと年代的に異なります。川場達さん荷近いイメージです。それは三浦光一さんという20年代後半に活躍された方の「踊り子」しか知らないからです。清純なこれぞ「踊り子」と思わせる唄です。一度聞いてみてください。URLは
http://www.youtube.com/watch?v=O7ubgv41Ihg
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isseiさん、大御所ですね! (原左都子)
2009-12-24 07:51:33
すっかり忘れていました。 三浦洸一氏が歌った“元祖”「踊り子」は確かに清純派です。

そうでしたか、isseiさん、そんなに「ストリップ小屋」に通われましたか…  一度見てみたいのですが、さすがに縁がないですね。 
でも、今時は裸同然で踊るコンテンポラリーダンスが一般劇場で大っぴらに公演されている時代でもあります。 そもそもダンスとは身体が資本ですので、クラシックバレエにしても身体にフィットした衣裳で体のラインをアピールしていますしね。

民謡と言えば、今時の盆踊りなどコンテンポラリーダンスと融合しつつありますね。 例えば「よさこいソーラン」など、誰でも参加できるように音楽のビートもロック化して衣裳も現代風にアレンジして踊っています。 本人達が楽しむ分にはそれでいいのでしょうが、それを見せられる側としては、音楽、衣裳、踊りのすべてが中途半端でお粗末なものを公開するのはちょっと勘弁して欲しい思いの私です。
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つま先の芸術 (空 乏層)
2009-12-24 13:19:36
40を過ぎる頃だったでしょうか、男のバレー・ダンサーを正面から見れる様になれました。そのきっかけが、映画「ホワイト・ナイツ」に主演した屈強なる男の躍動感溢れるダンスでした。ストーリーがそうさせたのかもしれませんが、以来、新体操、体操競技、シンクロナズド・スイミングなどを見るときには、つま先が随分気になる様になったのを覚えています。そうそう、ワールド・カップ日韓大会でのジャパンがベスト16進出を決めた対トルコ戦のあの”One foot”シュートも芸術的シュートでしたね。日本の古武道などはみな裸足ですが、つま先には相当の神経を使います。あれも、もはや芸術の域なのでしょう。お能の足運びに通じる日本古来の地に付いた躍動美かもしれません。
さてさて、バレエの話しですが、ロンドン駐在時代に、ただの一回だけロイヤル・バレエ団を観劇(?)できるチャンスがありました。バレエそのものには疎い私、組曲、「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」くらいしか知らないのですが、それでもロンドン交響楽団のチャイコフスキーの哀愁に満ちた演奏には大変感激しました。特に、「情景」と日本語での表題が付けられた曲が演奏されたときには、思わず涙が溢れてしまい、プリマドンナのダンスが歪んで見え、ブースのバイオリンやビオラの弓が湖の葦がたなびく様にさえ見えるほどでした。バレエはとんちんかんでも、「白鳥の湖」というロシア抒情詩は十分堪能できた様な気がします。
最近、日本人ダンサーがロイヤルバレエ団のプリマドンナを務めることがあるそうですが、もうそれを観賞する機会もないでしょう、ロンドンは遠くなってしまいましたから、・・・。
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空 乏層さんは、英国本場でロイヤル・バレエ団公演を観賞なさったのですね! (原左都子)
2009-12-24 16:20:17
それは、重々羨ましい限りです。

この私も、英国ロイヤルバレエとパリオペラ座バレエ、そしてウィーン学友会館に於けるウィーンフィルニューイヤーコンサートを一度でいいので現地の劇場で観賞して、「ブラボー!!」と叫ぶのが夢なのです。
娘が育った暁には娘を現地に同行して、是非夢を叶えたいものです。

空さんはサッカーもお好きなのですね?(実は私はサッカーにはほとほと疎い人間なのですが)空さんがおっしゃる通り、確かにサッカーもつま先でボールを蹴り込みますよね。あれってもしかしたら、バレエでつま先で立つよりも一瞬ずっと巨大な負荷がつま先にかかりそうです。 靴(やトーシューズ)の性能が急激に向上しているからこそ、どのような分野においても研ぎ澄まされた技や芸が可能となっているようにも推測できます。

空さんがおっしゃる通り、バレエ公演の魅力はオーケストラの生演奏を堪能できるところにあることに私も同感です。 
私は中学生時代にブラスバンド、高校生時代にオーケストラ部を経験しているのですが、バレエ公演の開幕直前にオーケストラが“音合わせ”をしているところから既に涙が出そうなほど音楽には思い入れがありまして、私にとりましてはあの音合わせを聴くのもバレエ観賞の楽しみの一つです。
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訂正とお詫び (原左都子)
2009-12-24 16:41:50
上記(↑)空乏層さんへの返答コメント内の「ウィーン学友会館」との記載は、正確には「ウィーン楽友協会大ホール」です。
訂正してお詫び申し上げます。
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