原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

成功の尺度

2007年09月16日 | 自己実現
 本ブログ「原左都子エッセイ集」を開設したお陰で、ここのところその記事の作成に暇が無い。こんな私ではあるが、普段は晩ご飯のおかずに頭を悩ませるさえない一主婦(主婦という言葉は好きではないし、その自覚もないため普段使わないのだが、理解を得やすくするためあえて使用する。)である。だが、さえない主婦だとは言ってもそれに甘んじて手をこまねいて毎日を過ごしている訳でもない。何をしたら、どう過ごしたら達成感が得られるのだろうかと、考えてはトライする試行錯誤の連続である。このブログも、私にとってはその試行錯誤の一環である。
 何かに成功すると達成感が得られることには間違いない。
 そこでこの章では、“達成感”をはじめ「成功」を測る尺度について考察することにより「成功」とは何かを考え、私なりの明日の「成功」につなげることとしよう。
 “達成感”は「成功」を測る一番の尺度であろう。一方、名声を得ること、すなわち“他者の評価”もまたひとつの「成功」を測る尺度となろう。
 ところが、後者の“他者の評価”は「成功」を測る尺度としてはどうもうさん臭いし、これに頼りすぎると落とし穴にはまる。“他者の評価”と一口に言えども、その実態は様々ではあるが。例えば、信頼できる人物による客観的かつ信憑性の高い評価は「成功」を測る尺度となり得るであろう。一方、風評や人の噂というものは、そもそもその実体が存在するのかどうか怪しい評価であると同時に、それ故持続性もない。“他者の評価”のみに頼って自分の成功を確信してしまうと、いずれは空虚感が漂い始め、その後は落ちぶれるしかない。それにもかかわらず、世の中を見渡すと、この“他者の評価”を自分の生きる糧としているがごとくの人々によく出くわす。
 例えば、「ミスコンテスト」入賞などという類のものが、これに相当するのではなかろうか。入賞の審査基準はまさに“他者の評価”でしかない。世界的に著名なミスコンでは、フレンドシップ力やリーダーシップ力、そして自己アピール力も審査の基準となるそうで、先だって世界一の栄冠を手中にした日本女性もそれらの能力が高く評価されたとマスメディアでは伝えられている。今やコンテストに出場するまでに、プロの指導の下、入賞のために上記の能力等を磨くべく様々な努力を重ねるそうであるが、その努力が報われたという意味では達成感はあるのかもしれない。ミスコン入賞という結果のみに甘んじることなく、それをその後の人生にどうしたたかに利用し活かしていくかが、真の「成功」を手に入れる踏み台とはなろう。満田久子(個人的に昔からファンです。)や藤原紀香がそうであるように。
 また、大物ほど自身の「成功」の尺度を“他者の評価”に頼っていないようにも見受けられる。例えば大リーグのイチロー選手は「成功」の上にも「成功」を重ね続けている人物である。天性の並外れた才能により既に大きな名声を手中にしているにもかかわらず、それでもなお努力を怠らず、さらなる「成功」を勝ち取ろうとしている。プロ野球選手というのは人気商売であるため“他者の評価”ももちろん意識はしているのであろうが、イチローの場合、決して自分の大リーガーとしての「成功」の尺度をそれに頼っている訳ではなく、内面にソフィスティケイトされた強い意志が存在するように私は感じる。(私は特にイチローのファンというわけではなく、元よりプロ野球のファンでもないのだが、素人目にもそのように映る。)
 以上の考察により、「成功」を測る尺度としてはやはり自分自身の“達成感”が絶対的、普遍的な存在であり、“他者の評価”は「成功」を測る尺度としては参考程度のものであると結論付けたい。すなわち、「成功」とは自分の心が決めるものなのである。それがビッグな事であれ些細な事であれ、自分にとって達成感が得られ納得できたならば、それが「成功」なのである。
 そうとは分析できているものの、残念ながら加齢と共にどのような分野、物事であれ達成感が得にくくなる。人生経験を積み世慣れして海千山千になるほど、よく言えば物事を多面的に把握し冷静沈着に判断する習慣が身につき、悪く言えばそれ故にいろいろな物事に対して新鮮味を感じなくなってしまうためだ。しかももっと不運な事には、加齢と共に仕事であれ人間関係であれ「成功」のチャンスである活動の場自体も狭められていく。さて、このハンディをどうしたものか。
 それでも私は試行錯誤を続けていくであろう。まだまだ道半ば、人生はこれからも続く。年月が流れ、例えば子どもの成長等と共に自分の生活形態もまだまだ変容していくのであろう。今は自分では「成功」だとは気付かない些細な事でも、それを蓄積していくことが後々大きな力となるのかもしれない。今後共、日々の小さな達成感を大切にして些細な「成功」を積み重ねていくことにしよう。
 
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「LIFE(ライフ)」寸評

2007年09月16日 | 教育・学校
 昨日、8チャンネルのテレビドラマ「LIFE」(えっ?「ライフ」が正しいって?おばさん、よくわからなくてごめん。)が終わった。
 おばさんも途中から見ていたのさ。
 昨日のエンディングは良かった。“いじめ”とは連鎖していくものだ。それがうまく描かれていた。
 最後の愛海もよかった。いじめたりいじめられたりしたけれど、それでも学校に来る強さがあることにおばさんは救われた。
 瀬戸朝香(役名不明)は腰砕けだ。教員たるものがコロッと手のひら返してそんなに単純なのかよ、せめてこれから精神を患っている男の子(役名不明)の心のケアはしてやれよな、と言いたい。
 歩は強過ぎる。あんな強い子は実際存在し得ない。50年以上生きているおばさんだってあんなに強くはなれない。逃げるときには逃げよう。友達にも恵まれ過ぎだ。現実はそんな甘い訳はない。
 最後に、学校ってあんなものだと思う。いや、現実の学校はもっともっと残酷な世界なのではなかろうか。そんな世界で日々生きている生徒達は本当にけなげで皆えらいと、おばさんは思うよ。
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ブログ私観

2007年09月15日 | 自己実現
 ブログ「原左都子エッセイ集」を開設してちょうど一週間が経過した。「たかがブログ、されどブログ…」の書き出しで始めたこのブログであるが、わずか一週間で、開設前に抱いていた私のブログに対するイメージが大きく変化している。そこで今回は、現在の私のブログに対する私観を述べることとしよう。
 ブログとは「日記型個人ホームページ」である。すなわち、個人が日記(その他諸情報)をホームページに自由に綴り、見たい人が自由に閲覧できるというシステムである。「日記」とは本来プライベートなものである。にもかかわらずそれを積極的に公開したいという心理の持ち主がブロガーとなるのであろう。実際に公開されているブログを覗くとその内容は純粋な「日記」は現在ではごく少数である。私のブログの趣旨が自己のオピニオンの公開であるように、ブロガーそれぞれがご自身の何らかのポリシーを公開されようとしているのであろう。今やブロガーは怒涛の勢いで増えているようだが、gooだけでも80万人を超えているということは、私の概算ではブロガー総数はおそらく国民の1割を超えているのではないか(?)と推測される。
 さて、私は今回このブログを開設するまで、ネットでブログを検索することはほとんどなかった。開設後は、自分の記事と同じキーワードで検索できるブログやアクセスランキング上位のブログ等を、時々参考のために訪問させていただいている。全体的な印象を述べさせていただくと、軽いノリの“お遊び的”なものや、マニアックなものが多いように感じる。一見軽そうでもその中にすばらしい文化の芽が内在していたりすることもあるので、決して“軽さ”や“お遊び”を否定する訳ではない。また、マニアックなものは見る人が見れば大きな共感力があるのだろう。ただ残念に思うのは、全体的に概して“内向的”で、閉鎖的な印象すら受けるのである。(「ひとりで楽しんでいるんだから、勝手に入って来ないでよ。」と言われている感じのするブログさえ多い。)
 ブログのひとつの使命が情報の“公開”であるのに、今のブログはこの特性が真に活かされていないのではないかという点を私は懸念し始めている。このせっかくの公開性を活かすには、ブログの内容に全体的にもう少し“公共性”が欲しいように感じる。“公共性”と言うと大袈裟なので“外に向かって発信する力”と言い換えた方がより適切かもしれない。 ブログの魅力は自由度の高さでもあるため、このような見解を述べると反論もあるかもしれない。ただ、私の見解も決して自由度を妨げようとするものではなく、この“自由度”に加えて“外に向かって発信する力”も備われば、公開力のあるブログとなると思うのだ。 それともそんなつもりは元々なくて、ひとりで、あるいは仲間内だけで楽しむ目的で公開しているブロガーが多いのであろうか。
 ともあれ、我がブログは開設後わずか1週間である。今後、どのように変貌していくか自分でも未知数であるが、自己のオピニオンの公開をテーマに、さらに日々エッセイを綴っていくことにしよう。 たかがブログ、されどブログ…である。
 


 (バックナンバーにも是非コメントをお願いします。 原左都子)
   
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飲兵衛はつらい!?

2007年09月13日 | 
 小さい声で言うが、私は酒が強い。自分で言うのだから相当のものである?? などとは言っても加齢と共に急激に弱くなり、最近はめっきり飲酒量が減少しているのではあるが。若かりし頃は“ざる”との異名を取っていたが、親譲りで肝機能が相当優れていたのか、飲めども飲めども酔いが回らなくて私本人はむしろつらかった程だ。宴会では周りが気を利かせてくれ、いつも気心が知れた飲み仲間が一升瓶を抱えさせてくれたものである。
 独身時代が長かったこともあり、当時は職場や飲み仲間の酒宴には足繁く出かけた。いつもメンバーは圧倒的に男性が多かったが、飲む量は誰にも引けをとっておらず、いつも三次会、四次会と空が白むまで飲み明かしたものだ。
 妊娠、出産と共に必然的にしばらく酒宴とは遠のいていた。
 子どもが幼稚園に在籍していた時、PTAの飲み会に出席する機会があった。その頃は既に時代が進化していたようで、主婦の皆さんも女同士のグループ等で飲み会を開くことも珍しい事ではないとの噂も耳にしていたため、私も初めての女性主体の酒宴をとても楽しみに出かけた。
 会場に着いてみると、40名程の酒宴であるのだが、テーブルの上にはアルコール類はびんビールがまばらにあるのと焼酎の700mlボトルが一本置かれているのみである。ずい分と貧弱なため追加注文するのかな、と思いつつ宴会は始まった。びんビールがグラスに注がれ乾杯の後(私の常識では通常そのビールは飲み干す人が多いのだが)、皆さんチビリチビリとたしなんでいらっしゃる。(やっぱり、女性の飲み会は上品だな。これに合わせなきゃいけないんだ…。)と思っているうち、驚いた事に早くも皆さん盛り上がり始め、声は大きくなるし既に席を立ち始める人まで出現するではないか! こんな経験は産まれて初めてで、(えー、もう出来上がっちゃったの!?)と私は驚くばかりである。唖然として白けていると、ひとりの主婦が「何やってるの、あなたも飲みなさいよ!」とけしかけてくるので、それでは焼酎でも飲むかと思って自分でボトルをグラスに注ぎ始めると、「ちょっと!! これは濃いお酒なのよ!そんなの飲んだら大変な事になるわよ!」と、そのお母様は本気で慌てふためいて私からボトルを取り上げに来るではないか。私はさらに驚愕し、(ここでは飲めないんだ…。)と悟るしかなく、後は宴会が早く終了するのを待つのみであった。結局、ビールの追加さえまったくなく、焼酎ボトルは私がグラスに注いだ以外は誰にも飲まれることのないまま宴会は終了した。
 場は変わって、数年前アルバイトの主婦仲間から小グループの飲み会に誘われた時のことだ。その主婦たちは普段、「昨夜は主婦仲間と夜中の一時半まで居酒屋で飲んでしまった。」等、頼もしい話をしばしばしているため、今度こそはまともに飲めるのかと期待し、その誘いに乗ることにした。今回はあらかじめ、私は飲兵衛であるという予備知識も皆に吹聴しておいた。 さて、行ってみると池袋のビルの地下にある粋な照明のなかなか本格的な居酒屋で、これは充実した時間が過ごせそうだと期待した。まずは皆さん、薄めの酎ハイ類を注文するので、私もとりあえずはそれに合わせることにした。乾杯をして飲み始めると、またまた皆さんチビリチビリなのである。私は一杯目だけは自分を押し殺して皆さんのペースに合わせたが、今回は少人数だったこともあり二杯目からはマイペースで行こう!と決めた。ところが、皆さん誰もお替りもせず既にいい気分のようで、ひたすら爆食しながらくっちゃべってばかりいる。私が三杯目のお替りをした時、ついに皆さん唖然として私に注目し、「すごく強いね!!」と一斉に目を丸くして驚くのである。後はお察しの通りであるが、私は少しも酔っていないのにもはや飲むことはできず、収拾のつかない話に長時間つきあう羽目となる訳である。
 それ以降は、この種(マイペースで飲めそうもない類)の酒宴は私にとってはストレスが溜まるばかりなので、基本的にお断りすることにしている。
 決して、主婦の皆さんに酒豪になることを奨励している訳ではない。私が言いたいのは、酒の付き合いとは難しいものだということだ。私のように元々酒が強くて、長い“ハイミス”時代を送ったために、長年にわたり男社会で様々な酒宴を経験してきた女性は少数派であるのかもしれない。そんな長い飲兵衛遍歴の中で自分なりに心地よいと思える飲み方を習得してしまっているのだ。 飲み仲間というのは、普段の仲良しとは別に、飲める量や飲み方等に共通項があって自然発生的に出来てくるものなのである。そして、この飲み仲間の絆は強い。なぜならば、酒の勢いで醜態を晒し合っているからである。
 それ故に、子育て中の身である等の立場上、そのような気心の知れた飲み仲間を失わざるを得ない近年は寂しいものである。ただ、年月が流れ自分の生活形態が変化していく中で、酒の飲み方も移り行くのは必然であり、もしかしたら誰しも大なり小なり同じ思いなのかもしれない。
 加齢と共に急激に酒に弱くなっていく体に感謝しつつ、節酒に心がけよう。
   

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メール考

2007年09月11日 | その他オピニオン
 私はこの世代(更年期真っ只中であるが。)にしては、メールを始めるのは早い方だったと思う。ただし、パソコンメールの話であるが。携帯メールに関しては、未だに苦手である。どうも、あの左手親指入力がまどろっこしく苛立ってしまうためだ。携帯メールの方が外出時にも対応できる等の利用価値が大きい場面もあることは承知している。が、普段はパソコンメールに頼る毎日である。
 私がパソコンメールを始めた頃は、単純な一対一の文書交換手段しかなかったが、その即時性が斬新であったし、手紙とも電話とも趣の異なるメール独自の機能性が興味深く感じられたものだ。確かに当初より、世間で言われる軽薄感を私も感じないではなかったが。
 間もなくこのメールはどんどん進化し始め、私にとってメールが煩わしい存在となる機能と出くわすこととなる。
 メールが多機能化された中でも、とりわけ一名の発信者から多数の受信者へ同一内容のメールを同時に送信できる機能、及び、グループ内の誰か一名からグループ全員に同一メールを送信できる機能(両者共同じ機能なのであろうが、送信者が受信者の知人であるか否かにおいてまったく異なる性質を持つと私は認識している。)が開発されたことが、私にとっては一番の煩わしさとなった。この機能も使途によっては利用価値のあることは認めるが、この機能が誕生したがためにメールの風格が著しく低下してしまい、無機質な、あるいは迷惑な通信手段と成り下がってしまったように私は感じている。
 営利目的の業者がこれを利用し商業活動を行う分には、受信者側は不必要であれば即時削除すれば済むため特段問題はないとも言える。ただし、無選別にむやみやたらと送信してくるのは迷惑千万だし、個人情報保護には是非とも留意いただきたいものである。
 だが、さらに困惑するのは後者の方で、自分の知人よりそのグループ全員宛に、一斉にひとりよがりのメールが届けられるような場合である。(例えば、子どものPTA関係の保護者や、たまたま出席した同窓会の一同窓生から、その方の仕事関係等のメールが入る場合だ。)当方にとっては特別親しい間柄でもなく関心も無く重要性も乏しい内容なのだけれど、相手がなまじっか知人であるため始末が悪い。律儀な私としては即時削除ともいかず頭を悩ませることとなる。この類のメールが多発し始めそれが苦痛となり、一時メールを中断せざるを得ないはめとなってしまった。
 何年かメールから距離をおいた後、一昨年からまたメールを再開した。再開してみると、このブランクが功を奏したのか、実は皆さん同じ思いだったのか、あるいは私がひとりだけ変わり者で仲間はずれなのか(十分あり得るし、そうでありたいという願望も実は少しある。この辺の私の思いについてはまた後日語ることとしよう。)、はたまた世の中全体のメールの使い方が進化し洗練してきたのか、上記のようなひとりよがり系のメールがめっきり減少しているようだ。とは言えども、日々届くメールのうち当方にとって有用なメールはほんの一握りに過ぎない。大切なメールを削除してしまわないよう神経を配りつつ不用メールの削除作業をする事から、毎日私のパソコン作業は始まる。
 そんな中、何気ない日常にほのかなエッセンスを与えてくれるメールに出くわすと、ほんの少し幸せをいただけたようでうれしいものだ。メールの発信者側としても、そんなメールを届けられたらいいなと思いつつ、送信ボタンをクリックする日々である。

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