原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

徒歩生活のススメ(Part2)

2007年09月11日 | その他オピニオン
  (Part1 からの続きです。)

 自転車は走行上のマナー面での問題も大きい。自転車に乗っている人たちにとって、歩行者は邪魔な“もの”でしかないのであろう。法的には自転車は車道を通行することに決められているそうであるが、都会の場合、現状の道路事情では自転車の車道走行は危険性が高いということは理解できる。そこで、ほとんどの自転車が狭い歩道を通行しているわけであるが、歩行者にチャリチャリ鈴を鳴らさずとて、対等な人間同士なのだから「すみません。」「通ります。」等、一言声を掛ければよいではないか。スピードが速い方が偉いとでも無意識に思ってしまうのであろうが、そんなに歩行者をないがしろにせずとも、そこを人間として何とか理性でカバーできないものなのか。
 それにしても、この自転車の多さはどうしたことか。いつの時代から人はこんなに自転車を愛好し始めたのだろうか。特に都会の場合、この道路事情を考慮すると安全に自転車走行ができる環境には程遠い。自転車台数に相当する駐輪場も確保されていない現状である。現在、自転車による交通事故が急増しているため、自転車をめぐる法的整備が進められているようではあるし、自転車専用道を増やすことも検討されているようでもある。だが、それよりも優先して取り組むべき事は、まずは自転車走行者の意識改革、ひいては自転車台数を減らすことではなかろうか。
 我が家のメンバーは上記(Part1参照)のごとく、その理由はともかく結果として交通弱者である歩行者であることを選択している。この徒歩生活なかなか乙なものである。歩く事は適度な運動となり健康維持や老化防止に役立つ。そしてとにかく身軽であり、自由度が高い。自分の身ひとつでいつでもどこへでも自由に出かけていける。この身軽さに慣れてしまうと、車や自転車はかえって不便でわずらわしい気がする。
 車や自転車の愛好者の皆さんも、「徒歩」という人間にとっての原点である移動手段の長所を是非見直した上で、必要に応じた移動手段の使い分けを再考されてはいかがか。



  「徒歩生活のススメ(Part1)(Part2)」  the end
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徒歩生活のススメ(Part1)

2007年09月11日 | その他オピニオン
 昨年、マイカーを廃車した。廃車を決断した直接のきっかけは、ほとんど車に乗らないのに駐車場代や車検費用、保険料、税金はじめ諸維持費が無駄な出費となっていたためだ。
 なぜ車に乗らないのかというと、環境保護に配慮して、…なんて言うと優等生のようで嫌みったらしいが、確かにそれも理由のひとつである。加えて、交通弱者である歩行者への配慮の観点からも車の利用は控えたい、と常々考えていた。だが、車に乗らない実際上の理由は至って単純で、運転が嫌いなためである。都会で車を運転するのは大変な業だ。神経質な私は神経が磨り減ってしまう。そうでなくとも神経をすり減らすべき事は他に盛りだくさんなのに、たかが移動手段で疲れていてもらちが明かない。また、どうしたことか我が家の亭主も私に輪をかけて運転嫌いなのである。たまに車で遠出した暁には必ず翌日は寝込んでいる。近年は二人で運転のなすり合いをしていたため、子どもの中学進学に合わせて廃車したのだが、心底肩の荷が下りた。その後特段何も不自由していない。今時、マイカーの無い家庭など珍しい存在であろうから、子どもが肩身の狭い思いをしないかという点だけが若干心配ではあるが…。
 私は自転車にも乗らない。こちらの方はポリシーがあってのことである。自転車に乗るためには服装や履物が限定されてしまう(世間ではミニスカートで平気で乗っている人も見かけるが、私にはそこまで身を挺する勇気はない。)が、若かりし頃から、ファッションを自転車に合わせるというような、そういう“縛り”が受け入れ難いためである。
 加えて、日頃より放置自転車には辟易としている。駐車違反の車の取り締まりは元々厳しいのに最近さらにその厳格さが増した一方で、なぜ、放置自転車の取り締まりは未だにこうも中途半端なのであろうか常々疑問である。歩行者の立場から発言させていただくと放置自転車は通行上障害となっており危険であるし、街の景観上も大きな汚点である。我が家の近くには桜並木が美しい区民の散歩道があるのだが、特に駅の近くのこの散歩道は放置自転車置き場と化しており、道幅の半分は放置自転車に占領されている。しかも、その狭い道の半分を放置自転車を避けながら何とか歩いていると、自転車が我が物顔で「そこどけ!」とばかりにチャリチャリ鈴を鳴らして通り過ぎるため、歩行者はおちおち歩けたものではない。これが、毎日のことで、ほとほと嫌気がさしている。実際にこの道で自転車と歩行者の接触事故を目撃した事もある。さらに、せっかくの桜の名所を何故にこんなに落ちぶれた姿にするのかと、自転車を放置する人たちの美的感覚にも落胆する日々である。


 (「徒歩生活のススメ(Part2)」へ続く)
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優先席物語(Part2)

2007年09月10日 | その他オピニオン
  (Part1 からの続きです。)

 座席を譲った方の経験は多いが、その中で一番よく憶えているのは、上京して間もない若かりし頃のことである。お年寄りが電車に乗ってきたため、私は直ぐに立って「どうぞ」と座席を譲ると、その男性は快く座ってくれた。すると、その方はやわら買い物袋からおそらくご自身のために買ったと思われる“コーンの缶詰”を取り出して、私に「これ、持って帰りなさい。」と持たせてくれるので、若干躊躇はしたがご好意に甘えていただいて帰ったことがある。
 近年は、譲られる方が譲られて迷惑したごとくの話もよく耳にする。譲られる側にも様々な事情があるようだ。例えば、自分はまだまだ若いのに年寄り扱いされて自尊心を傷つけられた、と言う人もいれば、自分は人様の世話にはならぬと恩を売られる事をかたくなに拒む人もいる。また、健康のために立っている人もいる。深刻なのは、体が不自由で立ったり座ったりの動作が難儀なため立っているのに席を譲られて困惑した人もいるようだ。
 上記(Part1)のように、私も座席を譲られた経験があるため譲られる側の気持ちが少し理解できるのであるが、行きずりの人から席を譲られるという行為自体に、まずは戸惑ってしまう人も多いのではなかろうか。昔は、見知らぬ人が席のお礼に“コーンの缶詰”を差し出すような(上記参照)、人と人とのかかわりが円滑な時代もあった。時代が流れ人間関係が希薄化し、人の好意を逆手に取るような犯罪も激増している現在、特に見知らぬ人同士のコミュニケーションが老いも若きもぎこちなくなってしまっている。人の好意を素直に受け取って良いものやら悪いものやら、はたまた最初から疑ってかかるのが無難なのやら、その逆の立場すなわち好意を提供する側もまた同様に、判断がつきにくい世知辛い世の中となってしまっていることは残念ながら事実である。ましてや、席を譲られるのはとっさの出来事で、相手の好意に即時にそつなく応じるという、スマートな行為をやってのけられる人が激減しているのではないかと感じる。
 そこで提案であるが、席を譲られたら、身体的ハンディ(席に座れない等の)が無い限りは自分のプライドや頑固さは一旦胸のポケットにしまって、その好意に甘える振りをしてはどうか。席を譲る側は譲られる側よりも大抵は年齢が下の世代であろう。その人生の後輩のモラルを育てる意味合いでも、譲られる側はたとえ演技であれその好意を無にしないで欲しいと私は思う。そして、譲る側も、例えばさりげなく降りる振りをして席を立つ等、譲られる側の心理的負担とならないような譲り方を工夫してはいかがか。
 世の中、自分の知人なんてほんのひと握り、その他は皆知らない人たちばかりなのだ。その知らない人たちとのちょっとしたコミュニケーションがうまっくいってこそ、自分の世界が広がり、ひいては社会全体が円滑に機能していくのであろう。そのためには、場を把握する力、自分を客観視できる力を育て、他者に配慮するゆとりを持たねばならない。たかが乗り物という小さな社会であるが、一期一会を大切にして、人々のささやかなコミュニケーションが息づいていくことに期待したい。



  「優先席物語(Part1)(Part2)」  the end


優先席物語(Part1)

2007年09月10日 | その他オピニオン
 優先席(シルバーシート)をはじめ乗り物の座席をめぐるモラルについては、優先席が社会に登場した当初より今日に至るまで、物議を醸し続けている。
 私は、当然ながら年齢的(更年期真っ只中であるが)にまだ優先席を利用したことはない。立つ時でもなるべく優先席利用者の妨げにならないように一般席付近で立つよう心がけている。
 そんな私も一般席での出来事であるが、今までの人生で何と2度も座席を譲っていただいたことがあるのだ。いずれも妊娠中の時であった。
 一度目は妊娠8ヶ月目くらいの頃であったが、電車に乗り込んでつり革につかまるや否や、少し年上らしき女性がさっと立ち上がって「どうぞ」と座席を勧めて下さるのだ。私が妊娠している事に気付いてご配慮下さったのだと直ぐに察知できたが、席を譲られるなんて生まれて初めての経験であったし、予期せぬ出来事で戸惑い焦った。私は高齢での妊娠ではあったが、元々、つわり期と臨月以外は体調が安定しており、出産間近まで毎日片道2時間かけて電車とバスを乗り継ぎ通勤していたこともあって、電車で立つぐらい何の苦にもなっていなかった。その日も体調は良く、実は駆け込み乗車で乗り込んだばかりのことであった。(危険ですので、駆け込み乗車はやめましょう。)が、その見知らぬ女性の気配りがとてもうれしくて、丁重にお礼を申し上げて座らせていただいた。
 2度目もやはり臨月に近い妊娠中であったが、年老いた母と一緒に電車に乗ったときのことだ。一般席が一人分だけ空いていたため、「お母さん、座りなさいよ。」と私が言うと、母は「あなたが妊娠中なんだから座りなさい。」と言い、二人でその押し問答を繰り返していると、空席の隣に座っていた男性が黙って立ち上がって下さったのである。この時は申し訳ない思いでいっぱいで、「いえ、大丈夫ですから。」とは言ったものの、まさかその男性も座り直すわけにもいかないだろうし、やはりお礼を申し上げて二人で座らせていただいた。が、押し問答などせずに静かにさっさと一人だけ座るべきだったと、その男性や周囲の方々に迷惑を掛けたことに後悔しきりで、何ともばつが悪い思い出である。
 後者の例については、日常乗り物に乗るとよく出くわす風景である。先だっても、山手線電車内で立っていると目の前の席がひとつ空いた。横に立っていたサラリーマン風中年男性の二人組が「お前が座れ。」「いや、お前が。」の押し問答になったため、私は座ることを控えた。すぐさま空席の隣に座っていた若い男性がさっと立ち上がり男性二人組が座れる状況が整った。すると立っていた二人組のひとりが、「そんなつもりじゃないのに。」と席を譲られたことをさも迷惑気に言い始めるではないか。私はその無礼さに驚き、(あんたらが騒いでいるから譲ってくれたのに、そんな言い方はないだろ!御礼を言ってさっさと座れよな!)と心中穏やかではなかった。


 
 (優先席物語 Part2 へ続く) 

涙もろさと感性の相関関係

2007年09月09日 | その他オピニオン
 私は涙もろい。新聞を読んでは目頭を熱くし、テレビのドラマを見るときにはティッシュ箱を抱えることなく見られない。外を歩けばこの間まで赤ちゃんだったような小学生が自分と同じくらいの大きさのランドセルを背負っている姿がいたいけで涙を誘われ、電車の中では思い出し泣きで目を充血させる。劇場や映画館や、はたまた子どもの卒業式ではいつも先陣を切って泣き始め、周囲のもらい泣きを誘っている。
 ところで、この涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。恐らく、ホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう。とは重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず、醜態をさらすこととなる。
 数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。研究成果の発表、ディスカッションという科学的な会合でのスピーチで、涙などとはまったく無縁の場であり、とんだ場違いで穴があったら入りたい心境であった。私の涙で会場全体がワークショップらしからぬ異様な雰囲気になってしまい、スピーチの最後を締めくくる学会長も話す言葉に困惑しておられた。私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあり、それがスピーチ時に涙となって漏出してしまったと分析しているのではあるが、今多い出しても何ともみっともない限りである。
 さてここで、この“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。通常、涙もろい人は感受性が強く、感性が豊かであることには間違いはなく、異論もないことと思われる。ところが、私の場合、プレ更年期以降は、例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックしたりして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。例えば、先日映画を観に行った時にもボロボロ泣いたのではあるが、泣いている自分とは別にさめた自分がいて、「ストーリーもありきたりだし、傑作とはいえないな。」などと落ち着いて冷ややかに批評しているのである。子どもの卒業式にしてもそうだ。ボロボロ泣きながら、「演出がしつこ過ぎるなあ。今時もっとあっさり流そうよ。」などど白けつつ頭の中で批判しているのである。どうも、涙もろさも過去の経験に支配されている部分もありそうで、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ることもあるのではなかろうか。別の観点から考えると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で、冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。高齢者の場合、このような年の功が、若い頃のようにいろいろな事に単純には感情移入できない原因となっているのであろうと考える。
 皆さん、年寄りの涙は純粋とは言い難いので、くれぐれも騙されないようにお気をつけて?!
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