原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学校における危機管理

2008年06月19日 | 教育・学校
 通り魔による無差別大量殺戮、大規模地震による多数の犠牲者の発生、ここ数日間で大勢の尊い命が奪われてしまった。


 やるせない思いで心を痛めていた矢先、今度は義務教育である小学校において児童の命が奪われる事故が発生した。

 昨日(6月18日)東京都の杉並区立小学校において、授業中に小6の男子生徒が校舎屋上の天窓のガラスを突き破り転落し、尊い命を失ってしまった。

 大阪の池田小学校での流血の惨事をはじめ、佐世保の公立小学校における小6女児による同級生殺害事件、はたまた学校内での児童、生徒の度重なる自殺や、プール指導中の事故死等が後を立たない中の、またまたの校内での痛ましい事故である。

 学校内で児童生徒の命が奪われる都度、学校現場では危機管理体制を強化してきているはずだ。なのになぜ、今回のような防げるはずの事故をまた引き起こしてしまうのか…。
 公教育とは子どもの命を育む場であるべきで、子どもの生命に危険が及ぶなど決してあってはならないことである。子どもの生命が守れない学校など閉鎖廃校してしまった方がずっとましだ。

 今回の杉並区立小学校での転落事故は昨日発生したばかりであるため、今後事故の検証作業が進められ、事故に至った経緯や背景の詳細がさらに明らかにされていくであろう。
 本記事においては現在までに報道されている事実に基づき、私なりに学校の危機管理体制について検証してみたいと思う。


 そもそも、公立学校に危険性を伴う天窓が必要なのか?
 私事になるが、私が卒業した小学校は公立なのだが校舎が全国的にも指折りの斬新な造りのモデル校舎であった。公営競艇場を抱えるギャンブル市政であり、そのギャンブル収益と大手製薬会社からの法人税収入の二本柱による歳入で成り立っている自治体と言っても過言ではない背景があった。私はそのモデル校舎に1年間だけ在校したのであるが、最初のうちは確かに子供心に物珍しくて浮き浮きしたものだ。だが外観的要因とは飽きてくるものであるし、所詮学校とはハードではなくソフトが寛容である。子供心にもそのように感じたものだ。
 自由度の高い私立ならばともかく、公立小中の校舎に危険性を伴う凝った造りが必要なのかどうか。

 天窓のガラスの強度に問題はなかったのか?学校はガラスの強度を把握していたのか?
 天窓の存在は認めるとして、まだまだ成長途上の児童を抱える小学校の校舎である以上、ガラスの上に乗って遊ぶ行為は十分想定内である。設計過程で十分なガラスの強度を確保するべきはずだ。第一にそれがクリアできているのか?
 そして、学校側は当然ながらガラスの強度や劣化の度合いを把握しておくべきである。昨日の校長会見ではガラスの強度を把握していない、と述べていたが大きな落ち度である。
 強度不足の場合柵を設ける、屋上は立ち入り禁止にする等の安全策が欠かせないことは、昨日マスメディアにおいても報道されていた通りである。

 教員の引率に問題はなかったか?
 教員は生徒全員が視野に入り、目配りできていたのか。屋上という特殊な場で授業を行う場合、たとえ天窓がなくとも落下の危険等、教室での授業に比し危険度が高い。担当教員はガラスが割れる音を“背後で聞いて”振り返った、との昨日の報道であるが、生徒全員の屋上からの退場を確認するまで全生徒から目を離すべきではなかった。
 つい先ほどのNHKの昼のニュースによると、この教員は他の騒いでいる生徒を注意していて転落した生徒に目が届いていなかった、とのことであるが…。


 いずれにしても、今回の事故は学校側の危機管理体制上大きな落ち度がありそうだ。

 学校現場でのこのような痛ましい惨事を二度と繰り返さないために、生徒の目線に立った危機管理、形骸的な内容ではなく常に実行可能な危機管理体制作り、そして、すべての児童生徒の命の尊さを思う愛情に基づいた教職員の危機感の持続維持が望まれよう。 
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グッドバイバイバイキング

2008年06月17日 | その他オピニオン
 私は昔からあの“バイキング”なる食事の方式が大の苦手だ。動物がエサをあさっている姿を連想してしまうためだ。あれ程行儀の悪い食事の仕方はないと思っている。

 バイキングとは元々海賊のバイキングの祝宴や北欧の前菜料理の形式をまねて日本で名付けられた食事方式である。
 このバイキング料理の発祥の地は東京都千代田区にある帝国ホテルの17階のレストランであるらしい。そのレストランがこの夏開店50周年を迎えるにあたり、記念割引企画を実施するとのことである。格安の家族向けプランや宿泊との組み合わせプランも用意されているらしい。

 
 我が家では、一家でバイキングが嫌いだ。
 まず、お盆やお皿が重くて細腕で持つのに難儀する。そして、子どもが小さいとさらに大変だ。子どもが自分で持てないため親は何度もバイキングテーブルに足を運ばざるを得ずなかなか自分のテーブルに付けないため、料理が冷め切ってからの食事となる。
 バイキングテーブルは大抵人でごった返している。客が我れ先と好物料理にたかり、上述の通りエサをあさる動物そのものだ。見ていて何だか惨めったらしい感覚さえある。
 料理は一体いつ作られたものやら不明だ。暖める演出がされているがあれは暖め直しであり、また新鮮そうに見えても実際新鮮な食材が置かれている訳がない。
 そして、不潔だ。人ごみの中開放して置かれている料理は目には見えずとも埃だらけであろう。それを人が行き交う中を遠くのテーブルまで運ぶ。さらに不潔だ。
 加えて見た目も汚らしい。一人ひとりがバイキングテーブルの料理を混ぜ繰り返している。それを自分もお皿に取る。中には係員がお皿にサーブしてくれる所もあるが、いずれにしても種々の料理がお皿の中で混ざる。ソースがかかった料理など悲惨だ。どう見ても“エサ”だ。 料理のひとつの醍醐味は視覚に訴える盛り付けである。私など、実際に食べる行為よりこの盛り付けを観賞する方が好きな程だ。フランス料理や日本の懐石料理等の盛り付けのプロ技はまさに芸術品である。バイキングはこんな楽しみが一切なく、やはり“エサ”でしかない。 

 と言う訳で、我が家ではこの“バイキング”は普段一切利用しない。ではなぜその実態を知っているかというと、旅行先で体験せざるを得ないからだ。
 旅行において食事がバイキングでないことは我が家の場合キーポイントであるため、当然前もって調べる。夕食に関しては選択の余地があり、バイキングを避けることは十分に可能である。ところが、朝食に関しては国内外を問わず今やほとんどの宿泊施設がバイキングなのだ。“味わいの宿”等と称する老舗でさえ朝食はバイキング方式を採用している宿が多い。日本旅館の部屋食かホテルのルームサービスでも利用しない限り、大抵はバイキングである。(この部屋食やルームサービスは係員に部屋に入り込まれるという煩わしさがあり、私は気を遣い過ぎるが故に多少苦手である。詳細はまた別の機会に記すが。)たまに朝食も部屋食でなくても個食の宿泊先があり人間味を取り戻せる思いだ。
 

 社員食堂や学生食堂がこのバイキング方式を採用している分には、効率上ある程度やむを得ないとは思う。そういう場では食事を楽しむことが本来の目的ではないため、食べる側も最初から多くは望んでいないであろう。
 一方で、需要の多さにつけこんで商魂たくましく、一流ホテルや高級レストランまでがこのバイキング方式を取り入れている実態にはほとほと呆れるばかりである。おそらくコストパフォーマンスが高く高収益なのであろう。まず、人件費が大幅に削減できる。そして、料理が一度に大量生産可能であるため光熱費等諸経費の削減も可能であろう。さらに、高額な食材を使用する必要もなく食材費も軽減できる。バイキングは提供側としては美味しい要素が揃っているのであろう。(余り料理の行方等、叩かれるべきマイナス要素も実は盛り沢山であろうが…。)

 世にバイキング嗜好者は多い。それ故に世間でこれだけバイキングがもてはやされているのだ。バイキング嗜好者にとっては、自分が好きな料理を自由に選択出来て沢山食べられるのがその第一の魅力であるようだ。
 私に言わせてもらえれば、美味しいものとは少しだからこそ尚美味しいのに…。

 
 食事なるものは気が置けない相手とお酒でも飲みながら語らいながらゆっくりと料理を味わう、そんなひと時を楽しむところに価値があるものだ。お皿を持った客にうろうろとテーブルの近辺を歩き回られたのでは、落ち着いて食事を楽しめたものではない。
 私は今後も一貫して“グッドバイバイ、バイキング”である。  
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パイロットは大空へ羽ばたく

2008年06月15日 | 仕事・就職
 一昔前の子どものあこがれの職業といえば、男の子がパイロット、女の子がスチュワーデスというのが定番であった。
 時代が流れ、今やスッチーの世界も契約社員化が進み…。 パイロットの方はともかく、今やスチュワーデスに至っては女の子のあこがれの職業のトップ10にさえランクインしていない様子だ。


 さて先だっての朝日新聞の報道によると、数ある職種の中で時給額がトップなのは「パイロット」だそうである。
 私個人的にはこれは大いに意外なデータであった。てっきり、医師か弁護士あたりがトップだと認識していた。

 このデータは、07年の厚生労働省統計から第一生命経済研究所が試算したもので、調査対象は専門性が高い129職種である。月間労働時間も含めたその試算結果を以下に引用転記してみよう。

    順位    職種     時給額     月間労働時間
     1  パイロット       6899円    158時間
     2  大学教授      5882     159    
     3  医師         5228     176
     4  大学准教授    4517     162
     5  会計士・税理士  4003     173
     6  大学講師      3968     161
     7  記者        3863     193
     8  弁護士       3736     190
     9  高校教員     3674     167 
    10  歯科医師     3673     177

 この表のとおり、時給額においてパイロットがダントツで一位である。
 大学教授も意外に高い時給を手にしているようだ。大学間格差が大きいように推測するが。大学准教授、大学講師に関しても事情は同様であろう。
 記者の場合、その職種の特質上高時給も納得できる。月間労働時間の長さが際立っているのもその特徴だ。
 やはり意外なのが弁護士だ。時給額が予想よりはるかに少なく、しかも労働時間が長い。実は私も一時目指そうと考えたことがあるのだが、弁護士とは就業までが大変な職種であるが、結構過酷な職業なのか? これに関しても弁護士間格差は大きいであろうが。
 同様に意外なのは歯科医師である。時給額が思ったより低い。
 最後に経験者としての立場から、専門性がさほど高いとは思われない高校教員の時給額が高く、弁護士、歯科医師とほぼ肩を並べているのは何故であろうか。


 パイロットの時給の高さが一番に目に飛び込んできたため、本記事ではこの話題を先に取り上げたが、実はこの朝日新聞の記事は専門職種の時給額のランク付けがその趣旨ではなく、正規、非正規社員間の時給格差について報告したものである。

 90年代後半からの不況期に企業が正社員の新卒採用を絞ったため、若年層では非正社員の割合が増加している。
 若い世代のライフスタイルの変化もこの現象に拍車をかけているであろう。正規職員という就業形態を好まず、フリーな立場で個人生活を優先する事を志向する若者が急増しているようにも見受けられる。
 
 この記事によると、正社員と非正社員の時給格差は20代前半で約1、3倍だが、50代では約2、5倍にまで広がるそうである。勤続年数が賃金に反映される結果、年代が上がるほど正社員との格差が開いていくためだ。
 職業能力が高まるという意味合いにおいては、勤続年数分が報酬として反映されるという考え方にも妥当性がなくはない。ただ、本来は年功序列によるのではなく個々の職業能力自体が正当に評価されるべきであるのに、職場における能力査定基準も曖昧だ。
 結局は、正職員か非正職員かにより単純に給与体系が決定されているというのが現状であろう。 
 
 社会保障や福利厚生面においても非正規職員は冷遇されている。


 個々人の真の職業能力が報酬に反映される時代の到来は程遠いようだ。

 この際、みんなでパイロットになって大空へ羽ばたこうか!!? 
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別れて下さい。

2008年06月13日 | 恋愛・男女関係
 上京して間もない頃の、若気の至りの出来事である。

 その彼との出逢いは池袋駅周辺の若者の待ち合わせスポットとして当時有名なある場所であった。
 その日、別の友人と会う約束をしていてその待ち合わせ場所で待っていた。
 当時は携帯電話なるものが出現するずーっと以前の頃で、外出先での状況確認には公衆電話を使用するしか手段がなかった時代である。
 30分程待っていたのだがその友人は現れない。元々待つことが苦手な私としては待ち合わせ時間を15分程経過した頃からイラつき始めていたのであるが、もう限界に近い。
 公衆電話で確認する気さえせずただイラついていると、シンガーソングライターの原田真二の身長をずっと高くした風の、ベビーフェイス系の男の子(男性というよりも男の子と表現した方が適切だ。)がこちらに近づいてくる。
「彼女、お茶しない?」
「えっ、私、人と待ち合わせ中なんです。」 
「ちょっとでもいいから。」
 大顰蹙かもしれないが、待たされることが限界に達していた私は30分限定でその原田真二風とお茶をすることにした。
 そして、30分後に待ち合わせ場所に戻ると友人は来ていた。
「ごめん、ごめん、遅くなって。」と演技派の私。
「大丈夫だよ。ボクも遅かったから。」と友人。
(知ってるよ…。)

 さて原田真二風の方に話を戻すが、あちらの一目惚れに近い形で私は相当気に入られた。こちらとしてもまんざらではない。(実は元々原田真二のファンでもあったし、当時ベビーフェイス系は結構私の好みだった。)30分間の内にあちらから付き合いたい意思を表明されて、私は電話番号を教えた。
 そして間もなく電話がかかって来て、何度かデートをした。
 原田真二風の彼は見た目はバッチリなんだが、どうも性格が私とは噛み合わない。お互いに自己主張が強いタイプのようだ。早いうちから私の方は、これは長続きしないであろう感覚を抱いていた。
 ところがあちらはまだまだ積極的だ。少し敬遠し始めた私がデートの約束を断るのだが、めげずにアタックしてくる。

 そんなこんなで、こちらとしてはやや義務的に時間つぶし程度に会い初めていた頃の出来事だ。
 無言電話が2、3回続いた。
 無言電話というのはいたずら電話の中でも一番不気味である。何だか嫌な予感を引きずっていたある日のことだ。
 また電話がかかってきた。
 女性の声で「○○さんですか?」と私の名前を言う。見知らぬ女性の声である。
「はい、そうです。」と私。 そうするとすかさず返ってきた言葉は、
「あなたですね! うちの主人を誘惑しているのは!!」 物凄い剣幕だ。
 きつねにつままれる私…。実はこの電話は原田真二風の奥方からの電話であり、原田真二風には何と妻子がいたのだ!!
 まったくの初耳で、唖然としている私に、
「主人の手帳からあなたの電話番号を発見したんです!泥棒猫のようなまねはやめて下さい!小さい子どももいるんです。主人とは今すぐ別れて下さい!!」と、奥方。
「そのお話は今初めてお聞きしました。そういう事情はまったく本人から聞いておりませんが、いずれにしましても私の方はもうお付き合いするつもりはありませんので…。」 しどろもどろに応える私…。
「主人を誘惑しておいて、いい加減な言い方はやめて下さい!!」奥方の怒りは収まらない様子だ。
「誘惑したのはご主人の方ですし、とにかく私の方はもう会うつもりはありませんので、ご主人にもそうお伝え下さい。」そう言って、私は電話を切った。 
 その後、原田真二風からもう一度電話があった。私は奥方からのその電話の事を伝え、もう会う意思は一切ないことをきっぱりと伝えた。
 そして短い出逢いは終焉した。

 いや~。危ない危ない。 それにしてもあのベビーフェイスで子持ちだったとは超びっくり……。 まだまだ若かりし私にはアッと驚くばかりの出来事であった。

 それ以来当時妙齢の私は、彼氏と付き合う時には最初に必ず確認する事にした。
 「まさか、妻子いないよね??」 
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人生の選択肢と自己肯定

2008年06月12日 | 自己実現
 こんな弱輩者の私にも人から相談を持ちかけられることがある。例えば、教育相談、進路相談、恋愛相談、健康相談、家族の相談、不妊相談、…。
 中絶相談というのも何度か経験がある。これは厄介で難儀な相談だ。
 “死にたい”相談もあった。これに関しては人に相談した時点で相談者は生きようとする意思を持ち始めている場合が多いため、比較的対応は容易である。相談後のフォローが欠かせないが。

 相談を受ける側の鉄則は相談者の話に耳を傾けることであり、決して率先して結論を提示するべきではない。大抵は相談者がある程度の結論を自分なりに導いており、相談者は信頼できる相手にその後押しをして欲しいだけの場合が多いからだ。たとえそうではない場合も、方向性を示す程度の回答を提示し、相談者に思考を促し最終結論を本人に出させることが肝要だ。

 いずれにしても、相談内容に具体性がある程結論は導きやすい。


 これに対し、抽象的な相談の場合その回答を導くことは容易ではない。

 先だって受けた相談は、「自分の生き方が間違っていないか?」という内容であった。(相談された方がこの記事をお読み下さるかもしれません。私にとりましても印象的な相談でしたので記事として取り上げさせていただきました。ご了承下されば幸いです。)
 う~~ん。ちょっと応えに難儀する相談である。
 即答で「大丈夫、間違ってないよ。」等の一時の気休め的な回答は避けたいと私はまず考えた。やはり本人の思考を促し、結果として本人が迷いを少しでも払拭でき、失いかけている自信を少しでも取り戻せるような、ある程度普遍性のある回答を導きたいと考え頭を巡らせた。

 その結果の私なりの回答を以下に述べよう。(相談者を仮にAさんとする。)
 人間にとって自分の生き方が正しいか間違っているかということは、誰しも永遠の課題であろう。この私にとってもそれは同様で、自分が選んだ選択肢及びその結果の行為が果たして正しかったのか、誤りであったのかを常に振り返る。私の場合は年の功もあるが、とにかく自分を肯定しつつ生きていきたい思いが強い。自己肯定をするためには、人生におけるあらゆる岐路において、自己肯定が出来る道を選択し行動しながら生きていくことが当然ながら肝要だ。それでもこの私とて日々立ち止まり思い悩む。それはきっとAさんと同じなのではないかと思う。Aさんも、ふと立ち止まって「自分の生き方が間違っていないか?」と振り返る余裕を持っているので、そのような客観力のあるAさんはそのままで十分なのではないか。
 以上が私の今回の相談の回答である。


 人間の価値観は多様である。同一課題における正解は皆それぞれに異なって当然であろう。
 人生における様々な岐路、すなわち進学、就職、結婚、出産、転居、はたまた離婚、転職等々…。 このようなビックイベントはもちろんのこと、日々の生活は選択の連続である。何時に起きるか、何を食べるか、何を着るか、どこへ行くか、何をするか、誰と会うか、何を買うか、… 一刻一刻が選択の連続で日々が過ぎていく。
 人それぞれの価値観やライフスタイルは異なれど、すべての人々のすべての岐路における選択基準の共通点はまさに“自己肯定”であろう。
 人生に迷いはつきものであるが、人生のすべての岐路における選択結果において自分自身を肯定できているという自分なりの裏づけがあれば、迷いつつもある程度自信を持って前向きに日々を送れるのではなかろうか。
  
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