“後期高齢者”という新語がある。
“高齢者”は一般的な用語であるためともかく、“後期”とは一体どうしたんだ? 大学入試日程じゃあるまいし。
まったく事務的で人間味のかけらもない貧弱な言葉である。
この言葉から、私は“死”を連想してしまうのだ。高齢者に“前期”と“後期”があるとすれば、“後期”の後は“死”を迎えるしかない。とんでもなく人格無視の新語である。
この言葉の背景には、人の人生を時間の経過のみで捉えるという単純な思想が感じ取れる。そして、時間と共に人間は老いぼれ社会のお荷物的存在になるのだ、とする社会保障制度担当者の強者的論理が見え隠れしているようにも私は捉えている。
はたまた、“加齢臭”という言葉がある。 中高年以降の人間に老化に基づき生ずる体臭のことを指すらしい。ウィキペディアによれば、大手化粧品会社が作った造語であるとのことだ。
この言葉には、私は嫌悪感すら抱く。
商業主義に則って作った造語であろうが、このような差別用語は一種の“高齢者いじめ”であり、人権侵害である。
この言葉の背景には年齢を重ねていくこととは醜く汚らしくなっていくこととの、これまた単純で貧弱な思想しか感じられない。
日本における、これら年配者を蔑む思想は一体いつからどのような社会的背景から生じたのであろうか。
少なくとも私が幼少の頃には、まだ年配者を敬う思想が健在であった。核家族化が進行する以前の頃で、何世代かが同居している家庭が多い時代だった。お年寄りの存在を身近に感じ、家族は年配者中心に機能していたような記憶がある。例えば、食卓の席順も年配者が上座であったり、食事は年配者が箸を付けるまで家族の皆が待ったものだ。家庭の重要事項の最終意思決定の権限は年配者にあった。
経済高度成長期と平行して核家族化が進み、生産性の低いお年寄りはだんだんと社会の隅に追いやられていった。そして、現在のような若い世代が年配者を蔑む時代へと落ちぶれてしまっている。
さて、3編に渡り述べてきた「長生きは一生の得」であるが、そろそろまとめに入ろう。
幼少時の火傷により私の体に残された“こと焼け”。これがある人間は50歳位までしか生きられないという“神のお告げ”的迷信をものともせず、私はまだ生き抜いている。50歳を過ぎて今尚、若い頃より更に充実した人生の真っ只中である。
私なりの“ナイスバディ”も維持し続けている。“ナイスバディ”はほんの一例であり、あらゆる分野において自分なりの美学、哲学を持ちつつ私は日々精進を続けている。
そんな私には若い頃に戻りたいだとか、若い人々が羨ましいなどという発想は一切ない。20歳よりも30歳の方が、また40歳よりも50歳を過ぎている現在の自分の方が確実に成長している実感が持てるからである。
そして、今後も今までのようにいや更に成長していくであろうことが予想可能である。だから私にとっての未来は明るいのだ。長生きは一生の得である。
年配者を蔑む人種の方程式に従えば、自らが年老いた暁には若い世代から蔑まれることになる。そういう発想の貧弱さが“老い”を敬遠し、若さへの郷愁へと陥る後ろ向きの人生に繋がるのであろう。
日本人の平均寿命は、今や女性は86歳、男性は79歳の時代である。できればこの平均寿命以上生き長らえることを目標に、自分なりの美学、哲学を貫きつつ、今後共日々精進を続けたいものである。
“高齢者”は一般的な用語であるためともかく、“後期”とは一体どうしたんだ? 大学入試日程じゃあるまいし。
まったく事務的で人間味のかけらもない貧弱な言葉である。
この言葉から、私は“死”を連想してしまうのだ。高齢者に“前期”と“後期”があるとすれば、“後期”の後は“死”を迎えるしかない。とんでもなく人格無視の新語である。
この言葉の背景には、人の人生を時間の経過のみで捉えるという単純な思想が感じ取れる。そして、時間と共に人間は老いぼれ社会のお荷物的存在になるのだ、とする社会保障制度担当者の強者的論理が見え隠れしているようにも私は捉えている。
はたまた、“加齢臭”という言葉がある。 中高年以降の人間に老化に基づき生ずる体臭のことを指すらしい。ウィキペディアによれば、大手化粧品会社が作った造語であるとのことだ。
この言葉には、私は嫌悪感すら抱く。
商業主義に則って作った造語であろうが、このような差別用語は一種の“高齢者いじめ”であり、人権侵害である。
この言葉の背景には年齢を重ねていくこととは醜く汚らしくなっていくこととの、これまた単純で貧弱な思想しか感じられない。
日本における、これら年配者を蔑む思想は一体いつからどのような社会的背景から生じたのであろうか。
少なくとも私が幼少の頃には、まだ年配者を敬う思想が健在であった。核家族化が進行する以前の頃で、何世代かが同居している家庭が多い時代だった。お年寄りの存在を身近に感じ、家族は年配者中心に機能していたような記憶がある。例えば、食卓の席順も年配者が上座であったり、食事は年配者が箸を付けるまで家族の皆が待ったものだ。家庭の重要事項の最終意思決定の権限は年配者にあった。
経済高度成長期と平行して核家族化が進み、生産性の低いお年寄りはだんだんと社会の隅に追いやられていった。そして、現在のような若い世代が年配者を蔑む時代へと落ちぶれてしまっている。
さて、3編に渡り述べてきた「長生きは一生の得」であるが、そろそろまとめに入ろう。
幼少時の火傷により私の体に残された“こと焼け”。これがある人間は50歳位までしか生きられないという“神のお告げ”的迷信をものともせず、私はまだ生き抜いている。50歳を過ぎて今尚、若い頃より更に充実した人生の真っ只中である。
私なりの“ナイスバディ”も維持し続けている。“ナイスバディ”はほんの一例であり、あらゆる分野において自分なりの美学、哲学を持ちつつ私は日々精進を続けている。
そんな私には若い頃に戻りたいだとか、若い人々が羨ましいなどという発想は一切ない。20歳よりも30歳の方が、また40歳よりも50歳を過ぎている現在の自分の方が確実に成長している実感が持てるからである。
そして、今後も今までのようにいや更に成長していくであろうことが予想可能である。だから私にとっての未来は明るいのだ。長生きは一生の得である。
年配者を蔑む人種の方程式に従えば、自らが年老いた暁には若い世代から蔑まれることになる。そういう発想の貧弱さが“老い”を敬遠し、若さへの郷愁へと陥る後ろ向きの人生に繋がるのであろう。
日本人の平均寿命は、今や女性は86歳、男性は79歳の時代である。できればこの平均寿命以上生き長らえることを目標に、自分なりの美学、哲学を貫きつつ、今後共日々精進を続けたいものである。