原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

長生きは一生の得( 明るい未来編)

2008年08月09日 | 医学・医療・介護
 “後期高齢者”という新語がある。
 “高齢者”は一般的な用語であるためともかく、“後期”とは一体どうしたんだ? 大学入試日程じゃあるまいし。
 まったく事務的で人間味のかけらもない貧弱な言葉である。
 この言葉から、私は“死”を連想してしまうのだ。高齢者に“前期”と“後期”があるとすれば、“後期”の後は“死”を迎えるしかない。とんでもなく人格無視の新語である。
 この言葉の背景には、人の人生を時間の経過のみで捉えるという単純な思想が感じ取れる。そして、時間と共に人間は老いぼれ社会のお荷物的存在になるのだ、とする社会保障制度担当者の強者的論理が見え隠れしているようにも私は捉えている。

 はたまた、“加齢臭”という言葉がある。 中高年以降の人間に老化に基づき生ずる体臭のことを指すらしい。ウィキペディアによれば、大手化粧品会社が作った造語であるとのことだ。
 この言葉には、私は嫌悪感すら抱く。
 商業主義に則って作った造語であろうが、このような差別用語は一種の“高齢者いじめ”であり、人権侵害である。
 この言葉の背景には年齢を重ねていくこととは醜く汚らしくなっていくこととの、これまた単純で貧弱な思想しか感じられない。


 日本における、これら年配者を蔑む思想は一体いつからどのような社会的背景から生じたのであろうか。

 少なくとも私が幼少の頃には、まだ年配者を敬う思想が健在であった。核家族化が進行する以前の頃で、何世代かが同居している家庭が多い時代だった。お年寄りの存在を身近に感じ、家族は年配者中心に機能していたような記憶がある。例えば、食卓の席順も年配者が上座であったり、食事は年配者が箸を付けるまで家族の皆が待ったものだ。家庭の重要事項の最終意思決定の権限は年配者にあった。

 経済高度成長期と平行して核家族化が進み、生産性の低いお年寄りはだんだんと社会の隅に追いやられていった。そして、現在のような若い世代が年配者を蔑む時代へと落ちぶれてしまっている。


 さて、3編に渡り述べてきた「長生きは一生の得」であるが、そろそろまとめに入ろう。

 幼少時の火傷により私の体に残された“こと焼け”。これがある人間は50歳位までしか生きられないという“神のお告げ”的迷信をものともせず、私はまだ生き抜いている。50歳を過ぎて今尚、若い頃より更に充実した人生の真っ只中である。
 私なりの“ナイスバディ”も維持し続けている。“ナイスバディ”はほんの一例であり、あらゆる分野において自分なりの美学、哲学を持ちつつ私は日々精進を続けている。
 そんな私には若い頃に戻りたいだとか、若い人々が羨ましいなどという発想は一切ない。20歳よりも30歳の方が、また40歳よりも50歳を過ぎている現在の自分の方が確実に成長している実感が持てるからである。
 そして、今後も今までのようにいや更に成長していくであろうことが予想可能である。だから私にとっての未来は明るいのだ。長生きは一生の得である。

 年配者を蔑む人種の方程式に従えば、自らが年老いた暁には若い世代から蔑まれることになる。そういう発想の貧弱さが“老い”を敬遠し、若さへの郷愁へと陥る後ろ向きの人生に繋がるのであろう。


 日本人の平均寿命は、今や女性は86歳、男性は79歳の時代である。できればこの平均寿命以上生き長らえることを目標に、自分なりの美学、哲学を貫きつつ、今後共日々精進を続けたいものである。 
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長生きは一生の得(ナイスバディ編)

2008年08月07日 | 医学・医療・介護
(写真は、つい最近の私。娘の洋服を借りて撮影。不明瞭処理をしています。)

 一昨日、テレビのNHKの歌番組で“阿久悠”特集を見た。普段テレビをほとんど見ない私であるが、30歳代でカラオケに凝り始めてから阿久悠の歌詞の情の世界に絆されるようになり、今ではすっかり阿久悠のファンであるため、この特集番組は気合を入れて見て一緒に歌った。

 その中で今回圧巻だったのは、山本リンダのあの年齢(60歳が近い)にしての“ナイスバディ”である。
 私は、自分よりも若い世代の方々が美しくてナイスバディであることに関しては“当然”のこととして捉えており、特に羨望等の感覚は抱かない。片や、自分より年配の方々が美しくナイスバディであるのを目にすると、ついついライバル意識をメラメラと燃やしてしまうのだ。 
 今回はすっかり山本リンダにはまった。目指すは60歳にしてのあのナイスバディだ! 私も60歳に及んだ時にまだあの手の衣裳を着て手足を出して歌って踊れる“ナイスバディ”のキープを目指すぞ! (勝手にやってろ、って??)


 冗談はさておき、世間には年齢を重ねていくことに抵抗感がある人々が少なからず存在するようである。私から見れば十分若いにもかかわらず「若い頃に戻りたい」と言う人がいれば、「人生をもう一度やり直したい。」という人さえいる。

 ところが、私にはこういった“若さ”に対する郷愁じみた感覚が今はもちろんのこと、昔から一切ないのだ。

 20歳になった時よりも30歳になった時の方が、私にとってはよほど感慨深かった。20歳代の10年間での自己成長ぶりが30歳時点において十分実感できたからである。当時は女がまだ独身でいると“オールドミス”だ何だと言って後ろ指をさす人もいる時代だったが、そんなもの勝手に言わせておけばよいし、まだまだ我が人生の輝かしき未来に多くの夢を描いていた私にとっては、そういう世間の馬鹿げた低俗な価値観に関してはまったく無関心であった。

 ちょうど40歳の時に癌を患った折に、私は人生において初めて“死”らしきものと直面した。その時、私の頭を巡ったのは“私の人生は40年だったか。いい人生だった。”というしみじみとした感慨だった。決して感傷的で捨て鉢な気持ちからではなく、本心でそう思えたのだ。当時まだ1歳だった我が子以外には、この世にほとんど未練はなかった。当時、(母としての立場以外では)私の40年間の人生は、それはそれで完結していたからである。それだけ常時、自分自身が納得できる日々を生き抜いて来ている自負が私にはあった。

 そして50歳を過ぎてまだ生き長らえている現在も、口先では“老いぼれちゃってね”などと自分を卑下しているふりをして周囲を立てリップサービスをしつつ、内心では虎視眈々と日々益々の成長を目指している自分がここに確かに存在するのだ。


 上記に書いた“ナイスバディ”ならぬ体型のキープの話も、実は冗談抜きで私の日々の成長目標のひとつである。“ナイスバディ”が目標のひとつなどと書くと、それも若さへの郷愁なのではないかと反論される方もいよう。

 これについて簡単に論説すると、例えば昔はナイスバディだったのに現在はメタボにどっぷりと漬かっていらっしゃる方が元のナイスバディに戻りたいとすれば、それは一種の郷愁であるのかもしれない。
 ところがあいにくで申し訳なのだが、私の場合、若かりし頃の体型を何十年来もそのまま保ち続けているため、それを60歳になっても(それ以降も)キープしていたいというだけのことである。いわば現状の体型維持の努力の話であり、若返りたいという思想とは異質のものと私自身は考えている。

 何事であれ若かりし頃から継続していることを年老いて尚持続するためには、尋常ではない努力を要するものだ。ナイスバディ(何をもって“ナイスバディ”というかについては人それぞれ多様ではあろうが)に関しても、持って生まれた体質部分の割合は小さく、普段からのたゆまぬ努力の結果であろう。
 現在の体型を何歳まで保てるのか、実は自分でも興味深いのだが…。

 ずい分と体型にこだわっている奴だと感じられる方もいらっしゃることであろうが、“体型”とはまさに、個人の努力により保ち続けていけるものの中でも目立つ要素であるため、万人にわかりやすいと考えて、今回敢えて取り上げてみたまでである。
 体型は一例に過ぎず、私は今後の長い人生を充実して生き長らえるためのあらゆる方面での努力を日々続けているつもりである。
 時間、空間を超えた自分なりの美学、哲学を持ち続けたいものである。


 今回の記事では、長生きがすばらしいことについての私論をまとめる予定でいたのだが、またまた“ナイスバディ”への寄り道が長過ぎたようである。
 さらに次回へ話を続けることにしよう。
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長生きは一生の得(火傷の編)

2008年08月05日 | 医学・医療・介護
 私は幼稚園児の頃、腕にかなり大きな火傷を負ったことがある。

 昔は台所のガスコンロの燃料として(少なくとも私が住んでいた地方では)プロパンガスを使用するのが通常であった。プロパンガスのボンベから直接ホースを引いてコンロにつなげるという簡易構造なのだが、ある朝そのホースを幼い私は腕に引っ掛けてしまったのだ。
 コンロの上の作り立ての味噌汁を鍋ごとひっくり返して、その一部を腕に被ってしまった。その様子を目撃した家族はいなかった。
 朝食前の忙しい時間でもあり、味噌汁を鍋ごとこぼした事を家族に叱られるのを避けようという発想しか私の未熟な頭には浮かばす、幼心に腕を負傷したことは自らのとっさの判断で伏せることにした。
 案の定、すぐさま味噌汁をこぼしたことを家族から叱られたため、尋常ではなく痛む腕のことは言えず、ひた隠したまま私は幼稚園へ行った。
 長袖の園児服のゴムの袖口から腕を覗き込むと、火傷を負った腕に何個かの水脹れが出来ている。一番大きいので直径3cm程ある。こんな異様なものが私の体に発生したのを見るのは生まれて初めてのことで、言い知れぬ恐怖感ばかりが私に襲い掛かる。事の重大さに怯えつつも一人で痛みを我慢しつつ幼稚園での日課を何とかの思いでこなすしか手立てはないまま、やっと帰宅の時間となった。
 両親が共稼ぎだったため昼間は祖母に世話になっていたのだが、帰宅後もやはり自分がしでかした事の重大さが後ろめたくて腕の火傷の事は言えない。 早く消えてくれないかな、と水脹れを何度も見るのだが消えるどころか大きくなっているような気さえする。痛みもまったく治まらないどころかさらに激しくなってきているようにも思える。
 その日の放課後は家での遊びにも身が入らない。どうしても腕の水脹れが気になる。庭にある松の葉の先でこの水脹れを潰して証拠隠滅しようかとも思うのだが、そんなことをしたらもっと事態が悪化しそうなことが当時の私は幼心にも予期できてしまい、実行に移せない自分との戦いが続く。
 夜になって母が帰宅した時に、もう隠し通せないと覚悟を決めた私は母に腕の火傷を見せた。 一日中小さな心に背負い続けていた後ろめたさや恐怖心から一気に解放された私は、母に告白した事でどっと押し寄せた安堵感で大泣きした。母は私の腕の水脹れに一瞬にして驚き、すぐに私を病院に連れて行った。
 負傷後の措置が遅れてしまったため、火傷は治っても水脹れの跡形が腕に残ると医者が母に告げるのを、私も診察室で聞いた。

 そして、私の左腕には未だに直径3cmの火傷後が残っている。(年数の経過と共に小さいのは消えてなくなり、3cmのもずい分と色合いが薄くなってきてはいるが。)

 小さい頃は私の腕の火傷の水脹れの後が焦げ茶色で大いに目立っていた。私の地方ではこういう皮膚の跡形を“こと焼け”と呼んでいたようである。


 上記の負傷から間もない頃、まだ幼い私は祖母からある迷信の話を聞いた。“こと焼け”のある人間は長生きできない、と言う昔から伝わる迷信の話を…。 それで私は祖母に尋ねた。「長生きできないって言うけど、何歳くらいまでは生きられるの?」 祖母曰く「50歳くらいだと思うよ。」
 それを聞いた私は大いに安堵したものである。「50歳までも生きられるならば十分!」と。 その頃の私はまだ5歳位だった。その時の私にとっては、50歳という年齢が想像を絶する程遠い未来に感じられた。

 私は今尚、自分の左腕に刻まれている、もはや色が薄くなった“こと焼け”を見る度にこの祖母の迷信の話を思い出す。


 年月が流れ、50歳が近づくにつれ私の頭の片隅でこの“50歳”の数値の意識が強くなっていった。5歳の頃にははるか遠い未来であった50歳が、年齢を重ねる毎にどんどんと間近に迫り現実味を帯びてくるのだ。 私の命は50歳までなのか!?? あの祖母の話は、確かに神のお告げだったのかもしれない…、と少々恐怖心まで伴ってくるのである。

 そして、その“神のお告げの”ハードルを既に何年か前に無事に越えてまだ生き長らえている今、体も程ほどに丈夫で、生活もある程度安定し、外見もそこそこ年齢よりも若く(???)、この後に及んで自分なりのポリシーも貫きつつ人生を刻み続けている我が身がここにあることに感謝するのである。

 私にとっての“50歳の命の神話”は、あくまで神話であり迷信であったのかと少しずつ実感できるこの頃である。


 先週の新聞等の報道によると、2007年度の日本人の平均寿命は過去最高を記録した模様である。女性が85、99歳、男性が79、19歳とのことで、女性は23年連続で世界一、男性も世界で3位の長寿国であるらしい。

 何と言っても、長生きは一生の得である。
 続編で更に、これに関する私論について述べることにしよう。
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夏休みは家庭の自治の尊重を

2008年08月03日 | 教育・学校
 子どもがどっぷりと夏休み中のため、子どもの教育関連の記事を続けよう。


 夏休みと言えば、日本の学校の場合、宿題(学校から課せられた課題)の多さが一番の特徴である。
 どこのご家庭もこの宿題の多さに頭を痛めておられるのではなかろうか。

 この夏季休暇中の宿題が厄介なのは、その多さのみならず、親子共同作業を暗黙の前提として学校が課している点である。特に小学校の宿題など、どう考えても子ども独力ではこなせない内容ばかりである。

 例えば「自由研究」という課題がある。 
 小学校4年生からこれが課せられるが、研究テーマの設定からして子どもにはハードルが高い。“あくまでも子どもの目線で、日常生活の中で気付いた事や発見した事について研究…”云々と、もっともらしいサブタイトルを付随して課してくるのだが、普通の健全な子どもはそんなものに気付かないよ、とまず私は言いたい。子ども自ら気付いたり発見した事があるとしても、“研究”などという堅苦しい冠を付けたとたんに、子どものキラキラ輝く純粋な発想が色褪せて夢を潰してしまいそうで私は好まない。
 そうは言えども一方で、親にも意地も体裁もある。こういう類の宿題とは学校としては家庭のレベルや教育力を見るのもひとつの目的かと捉えられるため、負けず嫌いな私などはついつい頑張って手伝ってしまう。 これがアホらしいのだ。学校の課題ごときに振り回されて意地になってしまう自分が情けなくもあるし、親子共々他にやるべき事が山ほどあるのに時間の無駄だなあ…、という心境だ。
 
 もっと若返って、小学1年生時の課題に「朝顔の観察」というのがあった。2年生の時には「オクラの栽培」という課題もあった。
 あれとて、朝顔やオクラを枯らしてしまったのでは親としての面子にかかわる。子どもに任せてはおけない。園芸や家庭菜園の趣味など一切ない私も、毎日朝顔の世話に追われ、オクラを育てるのに神経を擦り減らすことになる。 これまたアホらしい。学校に振り回され意に反して土にまみれる自分が情けない思いだ。


 以下に私論を述べよう。

 夏季休暇中の学校からの課題は家庭への過干渉であると私は考える。
 夏休み中くらい、子どもを家庭に返して欲しいのだ。夏休み中くらいは子どもの教育を家庭の自治に委ねて欲しいものである。
 画一的課題を全生徒に課したところで真の文化は育たない、という側面からの問題もあろう。

 普段、毎日毎日子どもは学校へ通っている。好む好まざるにかかわらず子どもは学校中心の生活にならざるを得ない。義務教育である以上やむを得ないし、また学校に通うことにより家庭では経験できない集団生活の中での社会性も身に付く等のメリットがある点は認める。

 だが、またとはない長期休暇である夏休みくらいは、親の立場からも子どもにある程度まとまった事柄に取り組ませたいのだ。例えば、長期旅行であったり、芸術活動であったり…。 子どもの個性を一番理解している親ならではの視点で、普段通学のために取り組みにくい諸活動を経験させてやりたいのだ。これが毎年の学校からの大量の画一的課題により阻害され、断念せざるを得ない場合も多い。断念せずに“公”も“私”もすべてを実行しようとすると、親子共々強行軍となってしまい疲れ果ててしまう。


 日本の学校における夏季休暇中の宿題の多さは、学校が家庭の教育力を信頼していない証拠であろう。また、子どもの個性を尊重していない裏付けでもあろう。
 世間には様々な家庭が存在し、各家庭における子育て環境は多様であることは事実である。自身の教育力に自信がなく、学校からの課題を当てにする保護者も多い実態なのでもあろう。
 ただ、欧米等先進国に比した場合、日本の学校における宿題の多さはやはり突出していると思われる。

 親を育てる意味でも、夏休みくらいは子どもを学校の管理下から離して、子どもの教育における家庭、保護者の自治を尊重して欲しいと考えるのは、私だけであろうか。 
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親を怒りたい!

2008年08月01日 | 教育・学校
 昨日、夏休み中の中学生の娘と一緒に買い物に出かけた。

 娘が洋服を買うのに先立ち試着のため試着室に入ったところ、おそらく3、4歳位と思われる見知らぬ男の子が、試着室のカーテンの隙間から中に入り込もうとしている。近くでそれを見ていた私は「これからこの部屋を使うから、今は入らないでね。」と声をかけたのだが、男の子は聞き入れず試着室の奥まで入り込んだ。中にいた娘は驚いた様子で、同様に「今から使うから入らないで。」等と言っているのだが男の子は我関せずで試着室から出ようとしない。回りを見渡しても親らしき人物も見当たらない。
 私はとっさに試着室の密室性を考慮し、我々親子がこの男の子を試着室に監禁して誘拐でもしようとしていると周囲から誤解されたら大変!!と判断し、娘にすぐに試着室から出るように言い、その場を去った。
 遠目に男の子を見守っていると、親を探そうとするでもなく、特に泣くでも笑うでもなく相変わらずひとりでうろうろと売り場を徘徊して遊んでいる様子である。やはり男の子の保護者らしき姿はどこにもない。
 一体、この男の子の保護者はこんな幼い子どもをひとり置き去りにして何をしているのだろうと不可解に思っていたところ、どうやら別の離れた試着室で母親らしき人物が自分の洋服の試着を悠々としていた模様である。試着室から出てきた女性はやっと男の子を呼び寄せ、何事もなかったかのように洋服を買って立ち去った。
 なぜ、保護者たる者がこんな幼い子どもからたとえ一時でも目を離すのであろうか。世間ではこれほど事件事故が多発し、子どもも含めて尊い命が犠牲になっている現状を子を持つ親としてどのように捉えているのだろうか。やるせなくやり場のない気持ちを抱えつつ、我々親子は買い物を続行する気分も失せ帰宅した。


 少し話の趣旨が異なるのだが、現在、朝日新聞朝刊の「声」欄で、公共の場における幼い子どもを連れた親の子どもに対する対応の仕方について、議論が繰り広げられている。

 この「声」欄の議論の発端は、7月17日朝刊の“青年の一喝で泣く子黙った”と題する読者よりの投書である。以下に簡単に要約してみよう。
 混み合う電車の中で、「抱っこして欲しい、座りたい」と駄々をこね泣き叫ぶ子に対して父親は断固として「抱っこはしない」ことを主張している。この光景を見かねた青年が「うるさい。静かにしろ。」と叱ったところ、子どもは黙り車内は静かになった。だが、中年女性がその青年に対し、「あの年頃の子どもは言ってもわからないものだ」と非難した。この投書者は、問題なのは保護者である、子どもを懸命にしつけ、周囲に気遣いをすれば誰も不快には感じない、と自身の見解を述べ締めくくっている。
 私論の一部を先に述べると、“問題なのは保護者である、周囲への配慮を”という点で私の見解も一致している。

 この投書に対し、反論や賛同意見が相次いだ。
 例えば同じ年頃の子どもを持つ母親の立場から、泣く子には優しく対応して欲しい、とする反論があった。
 あるいは、子育て経験のある母親からは、公共の場で他人の迷惑を顧みないで子どもに好き放題させている親をしばしば見かけるが、子どもにも小さい頃から公共マナーを教えるべき、との投書もあった。 再び私論の一部を述べると、この投書の見解に賛同する。


 それでは、私論をまとめよう。

 判断能力、責任能力のない幼い子どもは大人が守るべき存在であり、子ども本人を責めることには無理がある。上記の「声」欄に子どもには優しく接して欲しいとの反論を展開した母親の希望通り、この私とて、世の中のすべての子どもの人権を尊重し守って優しく接してあげたいと常々心得ているつもりだ。
 ただ、一方で親には子どもを育てていく義務があり責任がある。子どもが小さい頃から公共マナーを育てることも親の大事な仕事のひとつである。子どもが学齢に達するまでに、家庭である程度の子どもの公共性を育てておきたいものだ。これは、他者に我が子に対する優しさを期待するより優先して行なわれるべき親の仕事である。

 そのためには、まず子どもに“私”と“公”があることから教える。そして、“私”をそのまま“公”に持ち出すのではなく、様々な“公”の場において、親自らが他者への配慮を実践することにより、子どもに“公”における人と人とのあるべき姿を伝えていく。 公共マナーとは、その基本は他者に対する配慮の心である。“私”においても配慮はもちろん要求されるが、“公”においてはその度合いや形態が大きく異なる。

 親に何の落ち度がなくても、成長途上の幼い子どもは公の場で泣きわめく事もよくある話だ。子育て経験のある人間は誰しもそれぐらいのことは承知している。そんな時に、大人である親の子どもに対する愛情や周囲の他者に対する配慮の心が少しでも感じ取れたならば、周囲の人間はそれだけで十分であって、誰も子はもちろんのこと親を責めることもないであろう。(むしろ、親の心情を察して助け舟を出してあげたいと思う人々も多いのではなかろうか。)

 そして公の場では子どもの安全にも十分配慮して、親が率先して子どもを守って欲しいものである。
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