原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

1年生議員の“初心”表明を斬る!

2009年09月17日 | 時事論評
 特別国会において政権が交代した昨日(9月16日)の朝、8月の総選挙で当選した1年生議員達が国会議事堂に初登院した。
 ちなみに今回の選挙により初当選した新人は158名とのことで、過去最多記録を大幅に更新している。


 先だっての「原左都子エッセイ集」の記事 “国会議員って、なったモン勝ち?” において、今回の選挙戦により“猫も杓子も”のごとく大量当選した(してしまった)新人議員達に、手中にする歳費(推定年収3,500万円也!)に見合った執務を遂行するよう叱咤激励する記事を記したところである。

 総理や閣僚等、連立与党の幹部に関しては今後頻繁にマスメディアに登場する立場にあるため、国民はその“お手並み”をじっくりと拝見し評価することが可能である。 それに対し、新人議員たちは今後しばらくは表舞台に顔を出す機会はないであろうため、昨日の初登院時のマスメディアのインタビューを心待ちにしていた私である。

 そこで今回は、昨日マスメディアで報道されたインタビューによる1年生議員達の“所信表明”ならぬ“初心表明”を取り上げ、原左都子が“いじわるばあさん”に変身して (えっ、変身しなくても十分いじわるばあさんだよ、ですって??) その表明の“揚げ足を取る”ことにする。


 それでは、昨日のNHKの昼のニュースで耳にした新人4名(民主党の青木愛氏、福田衣里子氏、田中美恵子氏、そして自民党の小泉進次郎氏)のインタビュー内容を以下に紹介しよう。

 元テレビタレント・歌手であり、保育士も経験しているという前参議院議員でもある青木愛氏。
 ごめんなさい。 何をしゃべったのかがまったく記憶に残らないインパクトのない“初心表明”だったようだ。 またとはないせっかくの“初心表明”なのだから、国民に何らかの印象を残せる受け答えを時間を割いて熟慮しておけばよかったね。 残念~

 元NGO共同代表との看板を全面に出しての立候補だった福田衣里子氏。
 これはマイナスイメージでよく憶えているぞ。 開口一番、「先生とは呼ばないで、福田さん、あるいはえりちゃんと呼んで下さい。」 それから「国民の相談に乗ったり何でも悩みを聞いてあげられる立場でありたい…」何たらかんたら……
 心配要らないよ。今時、国会議員を「先生」などと呼ぶのはあなたの側近だけだよ。国民の誰もがあなた達のことを「先生」などと思ってもいないよ。“初心表明”でいきなりこういう発言をすると、かえって「先生と呼んで欲しいのかな??」と思われかねないような特権意識が見え隠れしていて、嫌みったらしいよ。
 そして「えりちゃん」は勘弁してよ。あなた、アイドルタレントとしてデビューするんじゃないのよ。天下の国会議員なのよ。もう少しそれを自覚しましょうよ。“福田さん”で十分よ。
 それから、あなたはカウンセラーになる訳じゃないでしょ。恐れ多くも国会議員になったんでしょ。 しかも、28歳の若さで人の相談に乗ろうなんて言葉はおこがましいなあ~  今後はもっと真摯な心で精進して欲しいものだぞ。 

 次は私が説明するまでもなく数々の奇異な経歴でその名を轟かせている田中美恵子氏。
 なるほど、饒舌ではある。この辺が買われて立候補の話が来たのかな? 「政権交代が実現する歴史的な日に、議員として参加することを光栄に思う。」云々…。以外や以外、臆することなく堂々とインタビューに応えている。  ただ一言余計だったのが、自分の経歴に関する表明だ。聞かれてもいないのに自発的に「食べていくために、様々な職業を経験して苦しい時期を乗り越えてきている、どうのこうの…」あなた、まだ33歳でしょ。還暦過ぎてこのような発言をするならば多少の重みもあるけど、若い時期に苦労を積むのは誰しも同じなのよ。 経歴に関する発言は今回は避けた方がすっきりしてよかったのになあ。 自らの奇異な経歴に対する後ろめたさを苦し紛れに正当化したように国民に捉えられて、かえって墓穴を掘ってしまったところが残念~

 自民党からは世襲、小泉ジュニアの小泉進次郎氏。
 さすがにDNAは争えないね~。新人にしてその余裕に加えて、よくまあ次から次へと口から言葉が出てくるものだ。しかも兄は俳優とあって演技力もさすがだねえ~。 晴れた空を見渡しつつゆっくりと歩きながら「野球にとっての舞台がフィールドであるように、自分にとっての舞台はこの議事堂…。 自民党の国会議員は200人。イチローと同じように200で終わりではなく、200から始まる。」
 親譲りの態度のデカさと口のうまさのみならず、今後は国会議員としての実力とハートもよろしくね~
 (以上、朝日新聞9月16日夕刊記事も参照)


 ふむふむ。
 1年生議員の皆さんはおそらく(小泉氏以外は)まだ秘書を携えていないため、今回の“初心表明”を自分自身の言葉で語ったがために、マスメディアを通じて国民に未熟さ故の失態を晒したという結果なのであろう。
 鳩山内閣自体が従来の官僚依存から脱却し、国会議員が主導権を発揮することを掲げ続けている。
 どうか民主党の1年生議員の皆さんも、今後あなた達に就くであろう秘書の縁の下の力量に頼り自らの存在が形骸化することなく、国会議員としてのプライドの下に、国民の血税から支出される歳費(推定年収3,500万円也!)をドブに捨てることなくそれに見合う執務を誠心誠意実行して、いい国を作り上げてくれますように!

 こんな“いじわるばあさん”の原左都子だって、あなた達が生まれる前から税金や社会保障料を何十年も支払い続けている一国民として、それを期待しているのだぞ。
      
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幸せな人とは“善人”でもある

2009年09月15日 | 人間関係
 これまた“究極に正直”とも言えるアンビリーバブルな悩みの相談に出くわした。


 9月12日(土)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、「人の不幸を望んでしまいます」と、実に単刀直入である。

 早速、46歳の主婦による上記相談を以下に要約して紹介しよう。
 「人の不幸は蜜の味」とは言うが、私は人一倍他人の不幸を望む気持ちが強く悩んでいる。たとえば息子の野球のチームメイトがケガをすると、それによって息子が試合に出られるかもしれないとホッとするし、出来る子は少しくらい痛い目に遭っていいと考えてしまう。 自分の心の調子が悪い時は、長く病気に伏している友達に会って「自分は彼女より幸せ」と納得したい。 逆に幸せな人たちを見るとどうも落ち着かない。 誰かから何か悩みを相談されるとうれしくなるが、その悩みがあっさり解決してしまうとがっかりする気持ちがある。
 自分自身は優しい夫とやんちゃでかわいい子どもに恵まれ、世間的には幸せなのかもしれない。 だが、幼い頃からコンプレックスが非常に強い。自分を認めてくれずすぐに激昂する父親に育てられたせいかと思う時もある。 心を入れ替えたいがどういった方法があるのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談より要約引用)


 早速私論に入ろう。

 人間誰しも他人の幸せを羨ましく思ったり、妬(ねた)んだり僻(ひが)んだりする感情を持ち合わせているものだ。 それと背中合わせに「人の不幸は蜜の味」との感情も、心の片隅に密かに兼ね備えているのが人間の本性というものであろう。
 
 ところがこの相談者には申し訳ないが、今回の相談内容には常識を逸脱したレベルの“異常さ”を感じざるを得ないのだ。

 私がこの相談者に“異常さ”を感じてしまう第一点は、本来自分の心中に秘めて隠しておくべき心理を、何故に大手の新聞に投稿してまで公然と公表したいのかという点においてである。 人間たるもの、ある時は自分の感情を伏せて裏でこっそり処理した方が自らの心理状態の整合性が取れる場合も多い。 何でも公開してしまえば自分の心が救われる訳ではないのは、幼い子どもですら承知していることである。

 そしてこの相談内容の最大の“たちの悪さ”は、最後の箇所の「自分は世間的には幸せなのかもしれない」との記述をしているところにある。 (人の不幸を望んでいるけど、実は私自身は恵まれているのよ~~)と公に吹聴したことにより、人の不幸を望む自分自身を肯定し、自分の存在を世間も認めるであろうと目論んでいる相談者の浅はかで薄っぺらい心理が読み取れてしまうのだ。
 この相談者が人の不幸を望む自分の悲しい性(さが)を本心で後ろめたく思う気持ちがある上で、真に心を入れ替えようとしているのならば、このような記述は出て来ないはずである。
 
 しかもこの相談者は既に46年間も生きてきているにもかかわらず、自らが背負っている“心の悪癖”を軌道修正しようともせず、親の育て方が悪かったせいにして自分自身を正当化しようとしているところがこれまた何とも辛い。
 確かに育った環境から受ける影響力とは大きいのだが、半世紀近くもの長い年月を生きてきた人間の根底に未だに残っているコンプレックスとは、もやは親のせいではない。 それは親離れした後に人生を前向きに自立して生き抜く中で、自分自身が克服してくるべき課題であったはずだ。
 

 この相談者は、もしかしたら人とのかかわりが希薄であるのかもしれない。(人間関係の希薄化は今の時代の社会的病理でもあるのだが。)

 人間とは人生経験が豊富となりいろいろな人々との出会い付き合いを重ねていくうちに、様々な心象が見えてくるものなのだ。
 例えば端から見ていると幸せそうで少し妬んでいた人と何かの縁で親しくなったような場合、実はその人物がすばらしい人格者でおおせられ、今まで狭い見識でその人物を妬んでいた自分が恥ずかしくなるような経験は、小市民である私には何度もある。
 あるいは、一見不幸を抱えているように見えるため失礼ながら勝手に蔑(さげす)んでいた相手と何かのきっかけでお近づきになれた途端、その人物の豊かな人格に触れて感激し、こちらから望んでお付き合いをさせていただくような場面もあるものだ。
 とにもかくにも人間関係とは実際に相手と実質的な関係を築いた上で、自分が相手から受ける影響力をもってその相手の真価を判断するべき事象であろう。


 この朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談コーナーの今回の回答者である作家の車谷長吉氏も「あなたには愚痴死が待っています」との表題の下、この相談者には救いがないことを述べておられる。

 そんな相談者を救う手立てとしては、思い切った行動や発想の転換を促すことにより、まずはコンプレックスでがんじがらめになっている心を少しずつ解きほぐしていくことであろう。
 
 幸せな人とは大抵の場合は“善人”でもあるとの今回の記事の表題は、私自身の人生経験に基づいて培われてきた論理である。
 そういう人々から受けるプラスの影響力の隙間から幸せをお裾分けしてもらうことにより、自分自身も前進できそうな感覚を抱ける経験を一つひとつ積み重ねて行けるならば、この相談者も徐々にコンプレックスの克服が可能となる気がする私である。
        
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国会議員って、なったモン勝ち?

2009年09月13日 | 仕事・就職
 8月末の衆議院選挙で民主党が圧勝し、多くの若手新人議員が誕生した。

 大変失礼な言い方ではあるが、“猫も杓子も”国会議員になってしまったような感覚がある。
 その若さで、その人生経験の浅さで、どのようなすばらしい政治手腕や専門能力や国民のリーダーとしてのキャパシティの大きさをお持ちなのか、今後とくとお手並み拝見、といったところである。

 とにもかくにも選挙で当選した(してしまった)以上、あなた達が受け取る高額の報酬(推定年収約3,500万円也!)が更なる財源の無駄となって国を潰すことのないよう、最大限の努力をして欲しいものである。


 そもそもこの新人議員達が如何なる経緯で衆議院議員に立候補するに至ったのか、その辺を知りたい私である。

 国会議員の職務と言えば、立法、行政の統治であるが、これは高度の専門知識、能力を要する職種であると判断できる。
 例えば、一般の高度専門職種(弁護士、医師等々)の場合、まずは国家試験を受験して資格を取得し何年かの専門研修を終えた後に、就職試験を受けたりあるいは独立して初めてその職に就くことが可能となる。 ここに至るまでには長い年月を要する超難関の道程である。
 片や、国会議員になるためには選挙で当選する必要があるとは言えども、当選しさえすれば何の資格も経験も問われず、いきなり国会議員としてまかり通ってしまうのがその特徴である。
 そこで“猫も杓子”も選挙戦に立候補するという運びとなる訳だ。

 今回の衆議院選で当選した民主党1年生新人議員のこれまでの職業を調べてみると、まず官僚経験者がやはり多いのに加えて、市長経験者、元検事… この辺に関しては、専門知識という点ではある程度満たされているのかもしれない。
 その他の職業としては、元NGO代表、薬害訴訟原告団代表、大学教員、民間企業取締役、歯科医、元テレビ局社員(元大臣経験者の孫)、元アナウンサー、元DJ、そして今話題のヌードDVD出演経験もあるという元派遣社員……   これら政治家としての専門能力の程が不明な当選者達の共通項は、程度の差はあれども選挙以前より一応名前が売れていた、というところにあろう。

 そして、これらの人々が如何なる経緯で選挙戦に立候補するに至ったのかといえば、小沢氏との「縁故」であるらしく、俗世間では“小沢チルドレン”と既に名付けられているようだ。しかもこの“チルドレン”達は、国会の控え室も小沢氏と隣接して位置し“小沢ハーレム”を形成するとのことらしい。
 「縁故」ねえ…… 
 「世襲」よりはましなのかもしれないが、結局「世襲」とさほどレベルの差がないと言うよりも、もっとたちが悪そうにも思えるのだが…
 そこで提案なのだが、国会議員への立候補に関しても各政党は事前に何らかの選抜の関門を設けるべきではなかろうか。 今回のように突然圧勝して政権政党となる程の巨大政党が、党内での実質的権力者の訳のわからない「縁故」に頼って立候補者を擁立し、安易にとにかく数を揃えておこうとするのも解せない話である。

 当選した以上は党幹部は新人議員の教育を徹底して、推定年収3,500万円に値する“使い物になる議員”として早急に育成して欲しいものである。


 それにしても、「縁故」があったとはいえ、大した専門能力もなくやすやすと立候補する側の神経もアンビリーバブルである。
 今時、政治家なんて大して魅力的な職業であるとは個人的には思えない。
 やはり、名誉欲か? 特権意識か?  破格に膨大な年収に釣られてしまったのか??(確かに、年収3,500万は誰が考えても魅力的だ。しかも公務員以外は現在の職業との兼業も可能である。上記の歯科医の新人議員はそれを続行しつつ国会議員の職務も果たすと公言しているようだ。)
 だが、仕事とはそれに携わるに相応しい力量があって、その能力を全うできてこそ達成感が得られて喜びや充実感がもたらされ、それが生きていく糧となるものである。 専門能力もないのに「国会議員」の肩書きのみを背負って、それで虚しさを感じないのであろうか??

 それとも、国会議員として何の実績も残せないまま任期1期間のみで次期総選挙(あるいは解散総選挙)で敗北した後、「元国会議員」の肩書きのみは残ることに期待しているのであろうか? それで一生食っていけると計算しているのだろうか?
 時代は大きく変遷している。「元国会議員」の肩書がまかり通るのはほんの短い期間に過ぎないであろう。 これ程までに混沌とした今の世の中において、そんな甘い話は過ぎ去りし昔のノスタルジーでしかない。 
 「元国会議員」の失業者が世に溢れる時代も程遠くない予感さえする。
 
 国会議員がなったモン勝ちだった時代は、既に終焉している。
 それを肝に銘じて、どうか新人議員には誠心誠意を尽くし精進して、任期中果たすべき使命を果たして欲しいものである。
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オチビサンの生き様はデカいぞ!

2009年09月11日 | 芸術
 (写真は現在朝日新聞に連載中の安野モヨコ氏作「オチビサン」9月6日掲載版より転載。 写真が不鮮明な点、お詫び申し上げます。)


 この漫画は芸術的であり、植物図鑑的であり、そして哲学的な風情があると私は捉えている。

 私の場合、漫画の世界からは中学生時代に卒業して以来、今に至ってはほとんど縁のない暮らしをしているのだが、現在朝日新聞毎週日曜日に連載中の安野モヨコ氏作の「オチビサン」に関しては、連載が始まって以来毎週楽しみにしているのだ。


 漫画「オチビサン」の特徴は、6~10コマ程ある漫画の全体が縦長長方形の一枚の絵のように構成されていることである。(上記写真参照) そして、その「絵」全体像における色彩が毎回何とも美しいのだ。 新聞をトップページから順にめくっていってこのページに入った途端、まずはその美しい色彩の世界に誘(いざな)われる。(上記の写真は小さくて不鮮明で恐縮なのだが。) 一説によると、新聞紙の色や風合いを活かすような色使いを、作者の安野氏が意識して工夫されているとのことである。

 そして、この漫画には四季折々の草花や樹木、そして昆虫など自然の動植物が多く登場する。 その描写が、作者自身の個性が活かされている中にあって実に精妙、正確なのである。 これがこの漫画を“植物図鑑的”であると私が捉える所以である。


 さて、この漫画の主人公はその名の通り“オチビサン”なのであるが、この“オチビサン”、人間ではあるようなのだがその正体は不明としか言いようがないところが実に不思議なのだ。 私の感覚では、見た目を優先して「男の子」と捉えるのが一番適切なのか、と思うのではあるが…
 このオチビサンの正体も不明ならば、通常の漫画の主人公にはあり得ないキャラクターの持ち主で、ちょっと偏屈者とも言えるのだ。 とにかく我がままで我が身息災で、やんちゃできかん坊なのである。(なんだか、原左都子とこの辺は共通項があるなあ。
 そんなオチビサンが自然体で力強く生きる姿が、この漫画で毎週展開されているのだ。

 上記写真の9月6日の回はオチビサンが家出をするのであるが、その家出の原因といえば、これがくだらない。 自分の不注意でドアに足をはさみ、食器棚の戸に頭をぶち付け、水道の水栓の操作ミスで水を吹き飛ばし全身に水を浴びてしまう。 それらの不注意を自分の落ち度とは認めず、家のせいにして怒ったオチビサンが、(こんな家からは出て行ってやるぞ!)とのごとく家出を決行するのである。
 ここで私自身の話をすると、私はどうやらオチビサンとこの辺の思考回路が一致しているようだ。 昼間家で一人で家事に励む時に同様の失敗をしょっちゅうしでかすのだが、家族がいないことをいいことに「何でぶつかって来るのよ!!」とドアや食器棚の戸を相手に怒りを爆発させている。怒りが頂点に達した時など、ドアや戸を蹴り倒し“復讐”して怒りを発散する“破壊型人間”である。(正体がバレたなあ。) 
 それ故に、オチビサンが家出を決行する気持ちは重々分かるのだ。

 そのようなオチビサンの混乱時にいつも登場するのが、親友の“ナゼニ”である。(この“ナゼニ”は黒い犬の外見なのだが、実は“あんこ”で出来ているらしい??) ナゼニは知識豊富な博学者なのだが、オチビサンのよき理解者でありアドバイサーであり、オチビサンをいつも背後から見守っているというキャラだ。 
 そのナゼニが「まあ落ち着いて」とオチビサンを諭して曰く、「家に誰かが居るからこその家出じゃないか」。 それに反発するオチビサンは「ひとり住まいでも家出くらいできるやい!!」と言い放って出て行く。
 そうなのだ。オチビサンは一人暮らしなのだ。(この辺も、一人暮らしが長かった私と共通項であるため私が共感を持てる要素なのである。)

 その他の主要な登場人物(登場動物?)と言えば、外見は犬の食いしん坊の“パンクイ”と近所の“頑固おじいちゃん”(おそらく正真正銘の人間であろう)だけで毎回物語が展開する。(たまに、猫やへびやその他の動物も登場するのだが。)


 この漫画「オチビサン」物語は現実を超越していてるように見えて、実は今の時代の廃退した現状を的確に把握した“裏心理”の下に、物語を展開していると考察する。 

 一見“嫌われキャラ”のように受け取れるオチビサンの自然体の言動や、自然体であるから故に備わっている“生きることに対する力強さ”に私も共感するのである。 そして、そんな自然体の生き様が“オチビサン”の魅力であるからこそ、親友のナゼニやその他少数の登場人物(動物)の仲間が、いつもオチビサンを支え続けているのであろうと実感できるのだ。

 しかもこの漫画のもう一つの魅力は、上記のごとく自然の植物、小動物等の描写が実に精妙、正確である点である。
 この描写力が安野モエコ氏が漫画「オチビサン」の登場人物(動物)に込めた思いと相俟って、作品自体の芸術性を高めつつ、観る者の哲学的思索心を刺激しているものと思われる。

 たとえ漫画とは言え(関係者には失礼な表現をお詫びしますが)、メディアはこのような上質の作品を普段はあまり漫画には縁のない一般市民に紹介して欲しいものである。
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肌に触れる 心に触れる

2009年09月08日 | 人間関係
 スキンシップを好む人種こそがこの世で末永く幸せに生き長らえるとの持論を、密かに培ってきている私である。

 私が何故にバーチャル世界であるネット上での人との付き合いに対し“不信感”に近い感情を抱き続けているかの根底には、生身とネットとの付き合いの決定的な相違点の一つとして「スキンシップ」の有無があるためなのだ。 私の場合「スキンシップ」が不可能なネット世界での人との付き合いに“実体感”を抱きにくいのである。 (この場合の「スキンシップ」には、直接触れるのみならず“アイコンタクト”や“微笑返し”等の間接的接触要素が広く含まれるのだが。)


 9月5日(土)朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、スキンシップに関する内容だったのだが、その相談の正直過ぎるとも言える訴えに大いなるインパクトを受け、何だか切ない気持ちになった私である。
 それでは早速、66歳無職男性による「妻の体に触れたいのに…」と題する相談を以下に要約して紹介しよう。
 私の妻は62歳、私たちの夫婦仲は普通だと思っている。だが、すでに性生活はない。私にとって不満なのは、妻が自分の体に触れられるのを嫌がることだ。一切を拒否されるので、我慢ができなくなる。年齢を重ねると夫婦生活がなくなっていくのは自然の成り行きだとは思っていたが、私には時には妻の体に触れてみたいという性欲のようなものが残っている。この思いはどうすることもできない。かと言って、今さら外で処理しようとは考えられない。思うに、私のような悩みを持っている同じような年齢、境遇の男性、あるいは女性が結構いるのではないかと思う。ただただ我慢するしかないのか。ちなみに、私は男性機能はなくなっている。それなのに、妻に触れたい気持ちを持つのが異常なのか。
(以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より要約引用)


 早速私論に入ろう。

 何とも深刻な相談である。 触れたい相手がすぐそこに存在するのに触れられない状態、これは大きなストレスと欲求不満が溜まることであろうと、スキンシップ好きな私は身につまされる思いだ。

 還暦を過ぎたご年配(今時、大変失礼な表現かもしれないが)の男性が、既に性生活のない奥方に“触れたい”との感情を抱くものだという事実自体を、私は今回の相談で初めて認識した。 加えて、そうであるならばこっそりと要領よく外で処理すればよさそうなものを、この男性の場合、どうやらその思いが一途に奥方に向いているとも感じ取れるのだ。 これが切ない。

 片や、奥方は指一本も触れられるのを嫌がっておられるようだ。
 この奥方の気持ちは分かる気がする。 女性の場合、男性とのスキンシップと性行為が一体化した流れの中で快感を享受しているのではなかろうか。 この相談者のご夫婦の場合どういった経緯で夫婦生活が消滅したのかは不明だが、もしも奥方からそれを拒否した結果であるならば、その時既に奥方はスキンシップも含めて夫との体のかかわりのすべてを“終焉”しているものと受け取れる。

 現在では、セクハラ概念やDV(ドメスティック・バイオレンス)問題が社会に蔓延した結果、スキンシップを嫌がる異性に手出しすることは法的にも犯罪行為となると規定されるに至っている。 たとえ家庭内とは言えども、性行為を拒否する妻に対して夫が強引にその行為に出た場合、「強姦罪」が成立している前例もある程だ。 スキンシップさえをも相手が嫌がれば、それを無理強いすることは犯罪行為となり得るのである。
 被害者心理を慮った場合、これらの法規制は正当であると考察できる。


 それはそうとして、やはりこの相談者の66歳男性の思いもどうにかしてあげたい気持ちにもなる。
 今回の回答者である社会学者の上野千鶴子氏は、回答の最後の方で以下のように述べておられる。(回答の中盤までは略します。) 「触れるのが親密さの証なら、まずあなたと親しくなりたいというサインを妻に送り、過去を反省して、妻と関係を結び直すことです。夫婦であることにあぐらをかいてはいけません。」

 う~~~ん。 ちょっとニュアンスが違うように思う。
 個人差が激しいのかもしれないが、私の場合は男性と人間関係自体はうまく行っていても、それとスキンシップを続行することとは異次元の問題であるように感じるのだ。
相談者の男性も述べているように、このご夫婦の日常的な面での関係自体は正常に機能しているのであろうと感じる。奥方もご主人をパートナーとしては認めているのだけれども、ただただ、スキンシップは勘弁して欲しいだけの話ではないのだろうか。
 要するに、特に男女関係に絞り込んだ場合は、人間関係とスキンシップは“別物”という場合もあり得るのではなかろうか。
 
 回答者の上野氏は、相談者男性のスキンシップ願望が単なる「触れたい欲」に過ぎないのならば、解決策は簡単だとも述べている。 自分の小さい孫だのペットの犬猫だのに触れたり抱きしめたりすれば済む問題であろうと回答されている。 相談者男性の欲求がその程度のスキンシップ欲求であるならば、それで解決可能であるとも言える。(それにしても、孫や犬猫の迷惑も考慮するべきであるが。)

 
 夫婦も含めた男女恋愛関係の場合、人間関係とスキンシップが同時進行であることが理想であって、それこそが相手の“肌に触れる イコール 心に触れる”状態であろう。

 それにしても、私の場合まだ60歳台の域には達していないため、事の真相は計りかねる。 60歳台以降の熟年夫婦がいつまで性生活を続行しているのかの実態も把握していなければ、既に性生活のない夫婦が必ずしも問題を抱えているとは限らないような気もする。
 他方、性生活のない熟年夫婦の一方が実はこの相談者のような欲求不満、ストレスを溜め込んでいるとすれば一つの社会問題とも言えるであろうが、その実態は如何なものであろうか?

 「原左都子エッセイ集」の読者の方々には当該年代の男性の方々も多いことと拝察しておりますが、是非ともコメントなどを頂戴できましたら幸いと存じます。
     
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