原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人は何故詐欺犯にお金を差し出すのか?

2015年06月20日 | 時事論評
 「日本年金機構システムサイバー攻撃問題」(日本年金機構職員のパソコンが外部から送られた電子メールでウイルス感染し、年金受給者や加入者の氏名、個人を識別するための基礎年金番号など約125万件の個人情報が流出した問題)発生以降、国内で便乗詐欺被害が相次いでいる。

 以下に、それに関するネット情報を要約して紹介しよう。
 情報流出が発表された6月1日以降、読者センターには「年金がもらえなくならないか」など不安の声が多数寄せられている。これまでも企業の顧客情報流出はあったが、今回は国民全般に関係する年金の情報流出であることから関心が高いようだ。
 年金機構によれば、約125万件のうち、基礎年金番号・氏名・生年月日・住所の4情報がすべて流出したのは約5万2000件。
 基礎年金番号と氏名、生年月日の三つの情報が分かれば本人になりすまして住所変更が可能で、第三者に郵便物が送られるなどして個人の年金記録が知られてしまう恐れがある。 年金機構は、流出した対象者の住所変更が行われようとした場合は、警告が出る仕組みを導入するとしている。
 一方で、6月12日には神奈川県内の女性が、この情報流出に便乗したとみられる詐欺被害にあったことがわかった。 実在しない「国民年金機構」職員や弁護士を名乗る男から、「個人情報が流出している。キャッシュカードのデータを消して元通りにするため預かる」などと女性に電話があり、自宅を訪れた弁護士秘書を名乗る男にカード4枚を手渡したところ、複数の口座から計約300万円が引き出されたという。女性は、個人情報が流出した約125万件の該当者ではなかった。
 情報流出が発表された1日から15日午後3時までに、年金機構職員などを名乗る不審な電話は41都道府県で313件に上っている。 年金機構から個人に対して直接電話で問い合わせをすることはない。 年金機構は専用電話窓口を開設し、問い合わせに応じている。
 (以上、ネット情報より引用。)


 ここから、原左都子の私事及び私論に入ろう。
 
 先日、上記年金機構個人情報漏洩便乗詐欺被害に関するニュースを、亭主と一緒にテレビで見ていた。
 国民から預かっている貴重な巨額年金保険料を死守せねばならない立場の国家年金保険機構が、何故サイバー攻撃になど易々と引っかかってしまうのか!? その愚かさ及び無神経さ加減が一国民として許容範囲をはるかに越え腹立たしいのはもちろんだ!

 と同時に、ニュースを見て開口一番私の口から出たのは次なる言葉だ。
 「今時の年寄りって、随分と金持ちだね。」
 これを聞いて亭主曰く、「詐欺に騙されるのは大抵高齢者故に皆そこそこの老後資金を蓄えているよ。」
 私が応えて、「それは分かるけど老後資金とは自分のために使うカネであり、それをまんまと詐欺ごとくに騙し取られる訳にはいかない故そもそも手渡すはずがないよ。 要するにそれが判断不能なまでに認知力が低下しているとの事かなあ。」
 亭主曰く、「それよりも詐欺犯の手口が、万人の予想以上に巧妙だと思うよ。」

 最近は、「わたしわたし詐欺」(「オレオレ詐欺」に対して名付けられたのだろう。)も出没しているとのニュース報道でもある。
 これは娘を持つ母である私にとっても強敵かもしれない。 ただ我が家の場合娘が若干の事情を持って生まれている事があり、その特質性より鑑みてほぼ95%の確率で(?)今後も娘側から家に電話を寄越すことはないであろう。 そんな事情及び娘の“喋り方の特徴”に助けられ、我が家の場合はもしも「わたしわたし詐欺犯」から電話があったとして、「あなた誰なの!??」とすぐさま撃退可能な気がする。

 それよりも、問題を元に戻そう。
 私の推察では、どうやら詐欺犯に引っかかる高齢者は例外なく“ある程度のお金を持っている”のではなかろうか?
 それを犯罪者側から考察すると、“ある程度のお金を持っている”高齢者に関する個人情報を綿密に調査し尽くした上で、犯罪に臨んでいるとも判断可能だ。

 ところがこれが特に「オレオレ詐欺」分野の場合、もしも可愛い我が子が何らかの事件に巻き込まれた故に“直ぐカネが必要だ!”と電話口で言われたならば、すぐさま要求額を振り込もうとの感情が湧き・行動に移してしまうのは何故だろうか。
 私論だが、その実態とは親子関係が既に事実上“形骸化”している証拠ではなかろうか。
 特に被害者が高齢者である場合、上記の通りご本人が認知力を無くしている場合が多々あるであろう。 
 そうでないとして、何故立派に育ち自立している(はずの)子孫を高齢親が多額の金を支払うとの手段で被害から救い出さねばならないとの発想に陥ってしまうのか。 これぞ親子関係とは形ばかりで、その中身が成り立っていないに他ならない現象であろう。

 ここは、身内のお年寄り高齢者が溜めこんでいる財産を「すべて自分のために使い切るように。」と子孫から積極的に促し、日頃より決してその財産を当てにしないのが肝要ではなかろうか?
 そうして高齢者を安心させられたならば、例え振り込め詐欺犯から年寄り親に電話が来ようが、「我が家の子孫は経済力がありますから私ではなく本人に電話をして下さい。」と悠々と電話を切って、ゆったりと老後を過ごせるのではあるまいか?

 あるいは、早めに「公証役場」に出向いて公認の「遺言書」を作成しておく事もお勧めしたい。
 (振り込め詐欺犯より財産を狙われるレベルの)ある程度の資産を保有している親族内に於いて、それを作成している場合、振り込め詐欺犯のターゲットとなった高齢者が騙される以前の問題として、「公的遺言書を既に作成しているから、私の勝手な判断で電話の要求には応じられません。」と言えるかもしれない。??

 多少の痴呆症状が出ようが、例えば我が義母にも公証役場で「遺言書」を作成した記憶は脳裏にあるのが事実だ。
 要するに、若年身内に何らかのトラブルが発生したとて親族高齢者が(たとえ詐欺であれ)安易におカネを差し出せないシステム作りを家庭内で早急に施してはどうか、と言いたいのが私論だ。

 いやいや鳩山家程の巨額財産親族をお持ちなら、それは必要ないのかもしれないねえ……

公共の場での大声量会話はやはりマナー違反

2015年06月17日 | その他オピニオン
 子供の頃、私は声が小さかった。 (と言うよりも“声が通らない”と表現した方が正解かもしれないが。)
 それには理由がある。 まず生まれながらにして家庭環境及び遺伝DNA面で大声を出す人物が一人として存在しなかった。 しかも我が父親が静寂を好む人間であり、幼少の頃より奇声を発すると直ぐにたしなめられ小さい声で話すよう促されて育った。 (そんな一種歪んだ父親の志向により、我が声帯の発育が遅れていたとも推測可能だが。)
 
 そんな家庭環境下に育った私は、幼稚園・小学校と集団生活をするようになった当初から、自ずと周囲の喧騒に違和感・嫌悪感を抱くようになった。 (もしかしたら、我が集団嫌いは“喧騒嫌い”も兼ねていると考察出来るのかもしれない。)
 当時の小学校教室内の座席とは、(視力的に問題がある児童を除き)身長順に前から席順が決められる方式だった。 そのため子供時代から長身の私(脚が長いため座高は低いのにねえ~?)はいつも最後列の座席と決定していたようなものだ。 
 それ自体は特段問題ないのだが、困った事には最後列の私の声が教壇に立つ教員に聞き取りにくいらしい。 「もっと大きな声で!」と小学校卒業まで一体幾度教員から叱咤されたことだろう。
 これが嫌で嫌で…。  家庭内で「静かに話すよう」教育されている私としては、大声を発せよ!と教員から指導される事自体が屈辱(というよりも当時の感覚では“恥”)だった。 幼心にそんな内心を抱えつつ自分なりに大声を出したつもりでも、まだ「聞こえない!」と教員から叱責されたものなら、学校がとことん嫌いになるのも必然だったと、今となっては分析可能だ。

 時が変遷して、大声で話す事が苦手な私は教員時代も日々苦労の連続だった。
 こちらとしては精一杯の大声で授業に挑んでいるにもかかわらず、(特にマンモス私立女子高校講師時代には)後部座席生徒から「せんせー、声がきこえないよ~!」なるクレームを何度訴えられたことか。 これが正教員の立場ならば「教室にマイクを導入するべき」なる提案も可能だが、たかが週に何度か訪れる講師の身分で言い出せる訳もない…。 やむを得ず精一杯以上の大声を張り上げる事で慢性的に喉を傷め、ますます声量を低下させる悪循環に陥ったものだ。 (現在に至って尚、喉及び気管支系が健常でないのは、その時の無理によるものかも…)


 そんな私も現在義母の後見人を担当している事により、大声を出さねばならない運命にある。
 特に耳が聞こえにくく、かつ多少の痴呆症状が進んでいる高齢者と「電話」で話す場合、こちらが大声で対応せねば事が進展するべくもない。
 これが実に大変だ。
 今となっては義母からの電話にはナンバーディスプレイ認識にて我が家族の誰も出やしない。 気持ちは分かる。 その対応が如何に大変かを物語っている現象故だ。 私とて勘弁して欲しいのは山々だが、ここは義母にとって一番信頼がある私が対応するはめとなる。 電話が鳴ったら直ぐにリビングの窓全てを閉め、電話口に出て精一杯の大声を張り上げて義母よりの用件を処理せざるを得ないのだ。 
 
 世間一般の認識として、“耳が聞こえにくい人は自身も大声で話す”との誤解があるようだが、それは一部の人に限られるのではあるまいか?
 と言うのも、我が義母に関してはそれにはまったく当てはまらない。 義母自身は以前と変わらず穏やかかつ上品な音声である。 ただ、こちらの声が聞き取れない時のみ「何とおっしゃったかしら?」との返答が多少大きくなる程度だ。


 話題を表題に戻そう。

 現在朝日新聞「声」欄で、公共の場で大声で話す年寄りのマナーに関する意見が交錯している様子だ。
 事の発端は中学生による投書だったようだ。(残念ながら、私は中学生による当該投書を見ていない。)
 それに対する、地方公務員30歳女性よりの反論投書を、去る6月16日付け朝日新聞「声」欄で発見した。 当該投書内容を以下に要約して紹介しよう。
 公共の場にてのお年寄りのマナーに関する中学生の投稿を拝読したが、現在市役所にて高齢者とかかわっている身にしては、難聴の方々に配慮するべきとの異論がある。 私の場合、低音ではっきりとゆっくり話すようにしているが、そうすると小さい声でも聴きとってもらえる事が多い。 中学生の貴方にも、視聴覚弱者が存在する事を知って欲しい。
 (以上、朝日新聞「声」欄の30歳公務員氏よりの投稿より引用。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 当該議論の「行き違い」を直ぐに察知した私だ。

 おそらく最初に投書した中学生は、例えば電車内等まさに一般「公共の場面」でお年寄り(私の推測では未だ60代程度の中学生のお婆ちゃんレベルのお年寄り)が周囲の迷惑も顧みず、自分達本位に喋くり倒している場面に遭遇して辟易としたのであろう。
 その種の場面には、この私(おそらく中学生のお婆ちゃんと同年代)も、日々電車内で出くわす。 静粛を好む私としても実に実に鬱陶しく、こいつらの神経は如何程か!?とその低能レベルにうんざりさせられ続けている。

 片や、新聞紙面にて中学生に反論したらしき地方公務員30歳女性に言いたい事がある。
 貴方は単に片田舎の公務員庁舎に勤めている身分として、その経験則範疇でものを言っているのみだ。 そんな狭い見識で、単純に中学生に反論してはならない立場ではなかろうか?
 一旦都会に出て、混雑した電車に乗ってごらんなさい。 それはそれは、貴女が今まで経験したより数倍物凄い勢いで数多の人間関係が渦を巻いている。

 私とて、身内の高齢者には最大限配慮したく日々格闘している。
 それと都会に於ける公的場面での人間関係とはまったく次元を異にすることをまず認識して欲しい。

 それでもあなたが若き一地方公務員として、地元のお年寄りに配慮している事実のみは一応評価しておくが…。
 そうだとして新聞に投稿してまで一中学生をバッシングする前に、貴女が公務員としてより広い視野で成すべき事・考えるべき事の方こそが未だ盛沢山なのではなかろうか??

大学新入試「長文記述」課題コンピュータ採点は絶対無理!

2015年06月15日 | 教育・学校
 昨日(6月14日)付朝日新聞一面トップ記事のタイトルを一見して、日々拙い「原左都子エッセイ集」を綴り公開する事に喜びを感じ、達成感を得ている私は仰天した! 

 誰がこんな馬鹿げた事を思いついたのか?? 
 どうせ頭でっかちで、ろくでもない長文記述しか記せないが文法力や漢字が正確に書ける小手先能力には長けていて、もしもコンピュータ採点ならば自分も高得点をゲットできるかも~~。
 とでも勘違いせずして、こんな大それた“たわごと”検討案を神経ピリピリの大学受験生やその家族の皆さんに公開できる訳もない。


 冒頭から、「原左都子エッセイ集」2009.3.3 バックナンバー 「字数制限の重圧」 なるエッセイの一部を以下に要約して紹介しよう。
 用件があって外出した合間の“時間潰し”のために書店に立ち寄った。  数冊の本を立ち読みした中で、ある本の冒頭の一フレーズが(マイナスの意味合いで)印象に残った。
 そのフレーズとは、「“話す”ことに比して“書く”ことを苦手とする人が多いが、原稿用紙10枚書くことを億劫がらない程度の力を身に付けることが出来たなら、ある程度の“書く”力を習得できたと言える…」云々…  確か、このような内容の冒頭文で、“書く”能力を指南しようとするような趣旨の本であった。
 う~~ん、ちょっと待ってくれよ。  “書く”能力を指南しようとする趣旨の本において、冒頭から「原稿用紙10枚」の表現は避けて欲しいものだ。この言葉を聞いただけでアレルギーを起こす人も多いのではなかろうか。
 ご覧の通り、この私はほぼ隔日間隔で1本が約3000字(原稿用紙7枚)程度のエッセイを綴り続けている。 これだけの文章をもう(2015年6月現在に至っては既に8年)に渡り書き続けている私ではあるが、“書く”能力に長けているという自覚はさほどない。  そんな私の「原左都子エッセイ集」続行の原動力は“感情移入”力である。 すなわち、“このテーマでこのように書きたい!”と思える内面から湧き出てくる力が、キーボードを叩いて文章を綴るという行動に繋がっているのだ。 決して、最初から3000字の文章を体裁よく仕上げたいと目論んで「作文」に取り組んでいる訳ではない。
 数年前に私は大学受験生の小論文添削の指導者として採用され、自宅でその仕事に携わったことがある。 ところがこの指導内容が徹底的にマニュアル化されているのだ。 小論文を書かせる方法論にばかりこだわり、それを受験生に頭ごなしにマニュアルで教え込もうとする指導法である。 私は指導者として採用された当初より本部が提示したこの指導方法に疑念を抱いていた。 このような指導方法では受験生の文章を書く力が育たないばかりか、若者の将来に渡る“書く楽しみ”を奪い、かえって文章を綴る能力を潰しかねないと考えた私は、本部にその旨の自己のポリシーを綴った「小論文」を提出し、この指導者の仕事を辞退した経験がある。 
 私自身も、論文や小論文課題における「字数制限」は昔から苦手だ。 原稿用紙のあの「升目」が自分の自由な思考や発想を制限されるような拘束感があったためだ。  その対策として、私の場合はいつもとりあえずは“真っ白”な紙に、論文のテーマに対する自分の自由な思考や発想を字数にはまったく囚われずに書き殴って、自己に内在する熱い思いのすべてを吐き出す作業をした。 次に「字数制限」が厳格な場合はやむを得ず、その字数の範囲内に再構成して1本の論文(小論文)として仕上げたものである。 いずれにせよ、ワープロそしてパソコンで文書作成をする時代に入ってからは、原稿用紙のあの嫌悪感を抱く“升目”も見なくて済めば、削除追加等の文章構成作業が至って容易であるため、文章を仕上げる作業の負担がずい分と軽減されていることを実感しつつ、文書を綴る機会の多い私は先端技術の発展に感謝する日々である。
 それにしても、文章力を身に付けるために「原稿用紙10枚」書く力が必要、といきなり言われて“書く”能力が啓発される人がいるのだろうか?   この本は書店の意外と目立つ場所にあったのだが、大変失礼ながら、この本は売れるのだろうか???
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用。)

  
 それにしても何故この世はこうも次世代に生きる若者達相手に、文章を書く事に関してマイナーな思想に陥るのか!? 
 もしも原左都子に対して今後文章を綴る事に同様の手段で“禁止令”が施されたならば、私には(長身スリム体型)なる外見的長所しか残らないよ~~。(冗談ですが…。)  とでも叫びたくなる程の、今回の文科省による“劣悪な”大学入試センター試験記述問題採点の見直し案である。

 エッセイの終盤になったが、朝日新聞2015年6月14日一面トップ 「大学新入試24年度から長文記述 採点にコンピュータも」と題する記事を以下に要約して紹介しよう。
 大学センター試験に代わって2020年度より始まる新テストで、文科省が記述試験問題についてコンピュータによる採点支援を検討していることが分かった。 新テストでは表現力を問う長文の記述試験を24年度から充実させる方針。 その採点時間を短縮するため人手を補うのが狙いだ。
 そのため、文科省ではコンピュータで記述の解答を採点できる仕組み作りを検討中だ。文科省によれば、例えば正解に必要な単語の有無をコンピュータが判断し、その単語が無ければ後で採点する人に示すなどを想定している。
 朝日新聞の当該記事の最後に「公正な採点カギ」と題する解説文が掲載されている。
 現在のセンター試験は選択式設問のみで、特に表現力の把握が不能だった。 コンピュータ採点システムに頼る場合にも受験者の「考える力」を公平・公正に採点出来る事が大切だ。 
 (以上、朝日新聞6月14日トップ記事より一部を要約引用。)


 最後に原左都子の私論だが、何だかせせら笑いたい気分にまで陥ってしまった。

 一体どうしたの??
 今後日本国家にとって有能な人材を育てるための一通過関門に過ぎない、たかが18,9歳の“大学生の選抜”に関して文科省が何を血迷っているのだろう!??
 あくまでも私論だが、今まで通りセンター試験マークシートコンピュータ採点で高得点を取れる若者を偏差値順に上位大学から割り振って入学させれば済む話だろう。

 その後4年間の大学生活を全うさせる中で論文・小論文課題を十二分に施し、論文制作力に長けているはずの(?)大学教官氏達が学生の「考える力(問いを学ぶ力)」を育成すればよい。 その暁に就職活動する若者を対象として、各職場が個別に欲する人材を自分らの使命として公正に厳選してこそ、この世の経済社会は上手く機能するのではあるまいか??

 もちろん世界標準で考察した場合、日本の大学ランクがさほど高くない事を文科省が懸念している事実には同情しよう。 が、下村大臣も大学入試長文採点をコンピュータに依存しようなどとの突拍子もなく歪んだ認識の下に自身の身の安泰を願っている場合ではないことを、同時に警告しておこう。

 もっと真なるグロ-バル観点から、大学改革を庶民に提示しては如何なのか!?!

学問の府大学に要求される“問いを学ぶ”力の育成

2015年06月14日 | 教育・学校
 私は本「原左都子エッセイ集」開設後間もない時期に、「『問い』を学ぶ」 なる表題のエッセイを綴り公開している。

 冒頭から 2008.6.5 公開 当該エッセイの一部を引用して以下に紹介しよう。

 学問とは何か?  それは、その字の通り“「問い」を学ぶ”業である。
 朝日新聞5月30日(金)朝日新聞夕刊「こころ」のページの相談コーナー「悩みのレッスン」にこの“学問”が取り上げられた。 その相談内容を要約しよう。
 この春浪人生になったが、大学受験に落ちたショックから新たな気持ちで勉強できない自分がいる。周囲も行くから大学に行くことを当たり前だと思い目指してきたが、今は大学に行きたいという強い意志が薄れ、自分がなぜ大学に行きたかったのかわからない。 自分がこだわっていた学問って何なのか?少しの興味で学部を選択していいのか?大学へ入る意義など何かヒントが欲しい。
 この相談に対する哲学者、永井均氏の回答。   ときどき、高校までの勉強は嫌いだったが大学の勉強は好きだという人がいる。(逆もいるが。)両者には根本的な違いがあるからだ。  高校までの勉強は、現在までのところ知られている学問の成果を理解して記憶することが中心である。歴史を例にとると、史実とされている内容を記憶し定説となっている因果関係を理解することが学習の中心となる。その史実のバックグラウンドや、なぜ教科書にその史実が取り上げられているのか、また過去にそういう出来事があったからといってそれが何だというのか…、といった最も肝心のところが素通りされている。
 大学に入って初めて、答えではなく「問い」を学ぶことができる。 同時に、いま学者達の意見が一致していない最先端の論争状況を知ることができる。その二つはつながっている。 それは面白いのみならず、そのような観点に立ったとき初めて人間とは何であり、何のために生きているのかの問いと、学問の営みとのつながりが理解できる。  大学には行ってみた方がいいと思う。  以上が、永井氏の回答の要約である。
 学問に励む意義については、「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも何度か取り上げてきている。
 高校までの学習とはその分野の如何にかかわらず既存の事実の理解、記憶作業に過ぎない。言わば受身の学習でありそれ故につまらなさも伴っているため、嫌いな人が多いのではなかろうか。 もちろん、その既存の事実に興味を持って学習に励み知識を積み重ねていくことは人間にとっての成長につながるし、こういう作業が得意な人々も存在するであろう。
 片や大学での学問とは、まさに「問い」を学ぶ業である。  ただ、残念ながら学問のこの本来の意味さえ知らずして大学を卒業していく学生も多いのかもしれない。なぜならば、学問に取り組む前提として高校までの学習による知識が欠かせないのにそれが元々満たされていなかったり、大学側に学問を伝授していく教育力がなかったりする現状故である。
 永井氏が述べられている通り、学問とは面白いだけではない。学問に勤しむことにより、人間とは何であり、何のために生きているのかという人間本来の「問い」にも直面できる。 どのような分野の学問であれそれに触れることにより、必ずや人間は更に人間らしく生きられるような実感もある。
 決して大学だけが学問を修める場であるとは言わないが、せっかく一度大学での学問を志したのならば、大学や教官による当たり外れは覚悟の上で、是非行くことを私もお勧めしたい。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 原左都子の私事に入ろう。

 実は私は昨日(6月13日)、娘が通う大学を訪問した。
 現在卒業年度である4年生にまで順調に進学している娘の大学に、一体何の用があったのかに関して説明しよう。
 当該大学では(おそらく全国的にも珍しい試みとして)、一部の学部学科の「卒業研究」を一般公開として発表会の形で実施している。 昨日はその中間発表日に当たった。 (最終発表日は今年12月の実施予定。)
 我が娘が、その対象学科に所属している。
 学問好きな私がこの発表会を見学しない訳もない。 一体如何なる「卒業研究」を一般公開として学生に実施させるのか?  もしも学問経験者がこの会合を見学したとして(この大学、一体何を学生にやらせてるんだ?? こんな稚拙なものを見せたいがために一般公開したなら、今後の学生募集にマイナスにならないか??)なる感想を訪問者に抱かせたならば、今後の大学運営にとって大いなるマイナス材料ともなりかねない。

 実はそんな不安感の下に、一保護者である私は昨日娘の大学を訪れた。
 何と言っても生まれながらに若干の事情を抱えている娘が、私(及び亭主)が卒業(修了)した大学(大学院)より偏差値上位の大学へなど進学出来るすべもない。
 それでも、我がサリバン先生としての任務を最大限果たした後の、「公募制推薦」にての当該大学合格だった。 その後も娘なりに日々真面目に大学へ通い、学業に励んでいる事実は母として当然十分に把握していた。


 さて、大学が実施した「卒業研究中間発表」訪問結果の我が感想を語ろう。

 この大学に娘を入学させて正解だった。

 いえいえ、もちろん我が娘が「卒業研究」としてのテーマを選択したきっかけが、サリバン母の影響を大いに受けている事実は事前に把握していた。
 そして予想通り我が娘の「卒研」の進め具合が、まさに母である我が過去の大学卒論や大学院修士論文に酷似していることを、今回の中間発表で改めて認識した。 (一例を挙げると、如何なる発表であれ最後に参考文献を列挙するべき事など、中学校の自由研究時代より教育してきた。 親馬鹿視点ながらそれが中間発表時点で出来ていたのは我が娘を含め少数派だったかもしれない。)

 それにしても、娘が通っている大学学科の「卒業研究中間発表」内容が、私が予想していたよりもずっと充実していたのだ!
 娘が通学している大学とは首都圏に位置する女子単科大学なのだが、親として娘をこの大学へ入学させる以前より、個々の学生への個別対応力が徹底しているとの噂を見聞していた。
 我が家では元医学関係者であり元教育者でもある母の私の娘へのサリバン力が強靭であるため、もしかしたら大学側の学生個々への対応力が出過ぎた場合、娘が混乱を来たし返ってマイナスになる事態を懸念しなくもなかった。

 ところがさすが学問の府であるべき大学現場に於いては、そのような一保護者の懸念は払拭された。
 原左都子自身が高齢者域に入ろうとしてる現在、学生個々の多様性が尊重されつつ、娘を含め学生皆がそれぞれに「問いを学ぼう」との意欲と観点から卒研に取り組んでいる姿を垣間見させて頂けた事に、今一度感謝申し上げたい思いだ。

 12月に開催される「卒業研究最終発表会」に、更に期待したいものである。

大英博物館展 人類の創造の歴史

2015年06月10日 | 芸術
 (写真中央に配置したオブジェは、現在東京都美術館にて開催中の「大英博物館」ミュージアムショップにて買い求めた“ルイス島チェス駒”のレプリカ。 背景は「大英博物館展」パンフレットを転載したもの。)


 2015年6月28日までの日程で、東京上野に位置する東京都美術館にて現在「大英博物館展」が開催中だ。
 私がこの博物館展を訪れようと考えたきっかけとは、私自身が英国をはじめとして、エジプト、ギリシャ、インド、北米・南米等々の地を訪ね、それら各地の博物館に展示されていた創造物を観賞しているためである。

 今回の日本に於ける「大英博物館展」とは、当該博物館に展示されている芸術作品の中からダイジェストに100作品を抽出し、「100の『モノ』が語る人類の創造の歴史。時空を超えた200万年の旅へようこそ。」とのサブタイトルの下に公開されている。
 (上記、我がエッセイ表題もパンフレットタイトルより引用させて戴いた。)


 冒頭からいきなり番外編であるが、私が何故冒頭写真に紹介した「ルイス島のチェス駒」オブジェのレプリカを買い求めたいきさつに関して説明しよう。
 今回の「大英博物館展」の場合、ミュージアムショップに置く商品開発が困難だったことは素人目にも想像が付く。 当該博物館展に於いても、美術館博物館ミュージアムショップで定例の「ボールペン」「キーホルダー」「Tシャツ」「エコバック」「コースター」等々…ももちろん販売されていた。 ところが我が想像通り、歴史的創造物をそれら商品の図柄にデザイン転化したとて、(おそらく誰が想像しても)少しも“可愛くない”のだ。
 美術館・博物館等を訪れた場合、その記念に必ず出口のミュージアムショップにて何某かの商品を買い求めたい私にして、今回は商品群の“可愛くなさ”ぶりには閉口させられた。

 その時見つけたのが、冒頭写真等々数種のオブジェを入れた“ガラポン”だ。 (正確に説明するなら“ガラポン”に入れられていたのではなく、単にバスケットに積まれていた“内容不明物”の中から自分が一つを選んで買い求めるとの“ギャンブル販売方式”だった。) これが3百数十円と安価だったのを良き事として、大の大人の私が念入りに選んでいると、隣に同年代程の女性がやってきた。 
 彼女が私に言うには、「振ったら中身がある程度分かるかしら?」「重い方がいいものが入っているかも!」 それに応えて私曰く、「そうとは限らないかもしれないですよ~。」 彼女曰く、「貴方は何が欲しいの?」 私応えて、「やっぱり派手な方がインパクトがあっていいと思いませんか? 私の好みは“柿右衛門の象”です。」
 結局私が引き当てたのは、一番地味な“ルイス島のチェス駒”だったとのお粗末な終焉だ…。


 ここで、「大英博物館」に関してウィキペディア情報より一部を引用して紹介しておこう。

 英国ロンドン グレートラッセル通りに1759年に開館した博物館である。
 世界最大の博物館のひとつで、古今東西の美術品や書籍や略奪品など約800万点が収蔵されている(うち常設展示されているのは約15万点)。収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など多岐に渡る。イギリス自身のものも所蔵・展示されている。余りに多岐にわたることから、常設展示だけでも一日で全てを見ることはほぼ不可能である。
 世界中の博物館との連携による巡回展計画や途上国の博物館への技術協力なども進められている。
 来館者の約56%が外国人観光客といわれている。このため各国語版の案内書も充実している。

 原左都子の私事だが、私も1979年に英国ロンドンを訪れたのに、旅程のほとんどが団体行動だった事が災いして当時「大英博物館」を訪問しなかったのは今思えば実に残念だ。 (と言うよりも当時は自分の興味が決して芸術に向いてなかったかも。 自由行動時間には当時音楽通の私はカーナビ-ストリートへ一目散に出かけたものだ。)


 さてここで現在東京上野で開催されている「大英博物館展」の見どころを、原左都子の記憶に残っている作品の中から少し以下に列挙しよう。

 「古代エジプトの棺」 紀元前600年頃 エジプト 
 これは博物館入口を入って直ぐに展示されているのだが、まさにエジプトカイロ市にある「国立博物館」(正式名称を忘れたが)のツタンカーメン棺の展示を我が脳裏に思い起こさせるものだった。
 私はエジプト旅行中に現地の尋常でない猛暑と共に食べ物が一切口に合わず、厳しい下痢症状に見舞われていた。 そんな折にちょうど当該博物館を訪れた時にも下痢症状が激しかった。 「すぐそこにツタンカーメンの棺が展示されています」とのツアーコンダクター氏の説明に、「私こそがこの地にて命を滅ぼし棺にいれられるのか…」との感覚が、下痢に伴う血便症状と共に朦朧と我が脳裏に過ったものだ…

 「ウルのスタンダート」紀元前2500年 イラク
 最初の都市文明の一つ、メソポタミアのウルで王家の墓から見つかったもの。
(私見だが、前評判が高かったのか博物館会場内でこの作品に人が多く群がり混雑していて、見ようと思わなかった…)

 「銃器で作られた『母』像」 2011年 モザンビーク
 最近造られた作品だ。
 これを何故今回の博物館展で展示しようと、担当学芸員氏が志したのかが私としては興味深い。
 それはおそらく(あくまで原左都子の私見だが)、現在の我が国政府が“武器を持つ闘い”を志向している事実に基づくのではあるまいか??


 現在東京上野で開催されている「大英博物館展」とは“芸術”に分類するよりも、まさに主催者が掲げている通り、「人類の創造の歴史・時空を超えた200万年の旅」こそを主題としたものであろう。
 東京都美術館が欲したその思いを、ご興味があるならば、ご自身で辿ってみては如何だろうか?