原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

悪人のままではいつまでも幸せになれない

2019年11月25日 | 人間関係

  本日のエッセイは、昨日公開した「親族高齢者が可愛いと思えるときと憎ったらしい時」の後半部分、“親族高齢者が憎ったらしい時”に関して論じようとの趣旨である。

 

 それに先立ち、昨日の “Popular entries top 10” に2009.09.15公開の 「幸せな人とは“善人”でもある」 がランクインしていたのだが。  これぞまさに本日のエッセイで私が論じたい主題と背中合わせに重なるため、以下に一部を引用させていただこう。 

 

 これまた“究極に正直”とも言えるアンビリーバブルな悩みの相談に出くわした。

 2009年9月12日(土)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、「人の不幸を望んでしまいます」と、実に単刀直入である。
 早速、46歳の主婦による上記相談を以下に要約して紹介しよう。
 「人の不幸は蜜の味」とは言うが、私は人一倍他人の不幸を望む気持ちが強く悩んでいる。たとえば息子の野球のチームメイトがケガをすると、それによって息子が試合に出られるかもしれないとホッとするし、出来る子は少しくらい痛い目に遭っていいと考えてしまう。 自分の心の調子が悪い時は、長く病気に伏している友達に会って「自分は彼女より幸せ」と納得したい。 逆に幸せな人たちを見るとどうも落ち着かない。 誰かから何か悩みを相談されるとうれしくなるが、その悩みがあっさり解決してしまうとがっかりする気持ちがある。
 自分自身は優しい夫とやんちゃでかわいい子どもに恵まれ、世間的には幸せなのかもしれない。 だが、幼い頃からコンプレックスが非常に強い。自分を認めてくれずすぐに激昂する父親に育てられたせいかと思う時もある。 心を入れ替えたいがどういった方法があるのか。  (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談より要約引用)

 早速私論に入ろう。

 人間誰しも他人の幸せを羨ましく思ったり、妬(ねた)んだり僻(ひが)んだりする感情を持ち合わせているものだ。 それと背中合わせに「人の不幸は蜜の味」との感情も、心の片隅に密かに兼ね備えているのが人間の本性というものであろう。   ところがこの相談者には申し訳ないが、今回の相談内容には常識を逸脱したレベルの“異常さ”を感じざるを得ないのだ。

 私がこの相談者に“異常さ”を感じてしまう第一点は、本来自分の心中に秘めて隠しておくべき心理を、何故に大手の新聞に投稿してまで公然と公表したいのかという点においてである。 人間たるもの、ある時は自分の感情を伏せて裏でこっそり処理した方が自らの心理状態の整合性が取れる場合も多い。 何でも公開してしまえば自分の心が救われる訳ではないのは、幼い子どもですら承知していることである。

 そしてこの相談内容の最大の“たちの悪さ”は、最後の箇所の「自分は世間的には幸せなのかもしれない」との記述をしているところにある。 (人の不幸を望んでいるけど、実は私自身は恵まれているのよ~~)と公に吹聴したことにより、人の不幸を望む自分自身を肯定し、自分の存在を世間も認めるであろうと目論んでいる相談者の浅はかで薄っぺらい心理が読み取れてしまうのだ。
 この相談者が人の不幸を望む自分の悲しい性(さが)を本心で後ろめたく思う気持ちがある上で、真に心を入れ替えようとしているのならば、このような記述は出て来ないはずである。
 
 しかもこの相談者は既に46年間も生きてきているにもかかわらず、自らが背負っている“心の悪癖”を軌道修正しようともせず、親の育て方が悪かったせいにして自分自身を正当化しようとしているところがこれまた何とも辛い。
 確かに育った環境から受ける影響力とは大きいのだが、半世紀近くもの長い年月を生きてきた人間の根底に未だに残っているコンプレックスとは、もやは親のせいではない。 それは親離れした後に人生を前向きに自立して生き抜く中で、自分自身が克服してくるべき課題であったはずだ。 

 この相談者は、もしかしたら人とのかかわりが希薄であるのかもしれない。(人間関係の希薄化は今の時代の社会的病理でもあるのだが。)
 人間とは人生経験が豊富となりいろいろな人々との出会い付き合いを重ねていくうちに、様々な心象が見えてくるものなのだ。  例えば端から見ていると幸せそうで少し妬んでいた人と何かの縁で親しくなったような場合、実はその人物がすばらしい人格者でおおせられ、今まで狭い見識でその人物を妬んでいた自分が恥ずかしくなるような経験は、小市民である私には何度もある。   あるいは、一見不幸を抱えているように見えるため失礼ながら勝手に蔑(さげす)んでいた相手と何かのきっかけでお近づきになれた途端、その人物の豊かな人格に触れて感激し、こちらから望んでお付き合いをさせていただくような場面もあるものだ。

 とにもかくにも人間関係とは実際に相手と実質的な関係を築いた上で、自分が相手から受ける影響力をもってその相手の真価を判断するべき事象であろう。

 この相談者を救う手立てとしては、思い切った行動や発想の転換を促すことにより、まずはコンプレックスでがんじがらめになっている心を少しずつ解きほぐしていくことであろう。
 
 幸せな人とは大抵の場合は“善人”でもあるとの今回の記事の表題は、私自身の人生経験に基づいて培われてきた論理である。   そういう人々から受けるプラスの影響力の隙間から幸せをお裾分けしてもらうことにより、自分自身も前進できそうな感覚を抱ける経験を一つひとつ積み重ねて行けるならば、この相談者も徐々にコンプレックスの克服が可能となる気がする私である。

 (以上、2009年9月バックナンバーより、一部を引用したもの。)


 さて、昨日郷里の実母より掛かってきた電話の内容だが。

 とりあえず私が母の誕生日祝いに贈った「菓子折」に関するお礼を述べた。 そこまでは問題無いのだが、必ず母が付け加えるのが、「米国の長女からは現金ウン万円が通帳に振り込まれたよ!  あの娘はいつもまとまった現金をくれるんだけど、これが嬉しくて~~ 」   

 この実母の愚かさ加減にいつも辟易とさせられる私だ。  これ、誰が聞いたって「アンタからはいつまでも菓子折しか届かないねえ~~」だろ??

 この実母と姉との関係に関しては以前にも幾度が述べているが、姉の歪んだ性質のために幾つになろうが何処で暮らそうがただ一人として信頼出来る友に恵まれずにいる。 それを不憫に思っている実母が90歳近い年齢に至って尚、嫌々ながら電話にて米国の姉の話の聞き役を務めている。  

 時にはその内容が気に入らないと「また姉が無理難題を吹きかけてきた!」等々とすぐに私に泣きつく。  一昨年など「姉がこの施設まで来ると言ってきた。 あんな非常識な奴にここに来られては私の恥だ! 妹のアンタが何とかしてくれ!!」と何の関係も無い私を巻き込む。

 そのくせ、こと姉が「おカネ」を送ってきたとなると手のひら返して「あの子はいい子だ~」などとヘラヘラし始め、上記失言を私に平然とほざく始末だ。

 決して実母がおカネに困っている訳ではない。 (子育てをずっと祖母に任せ)定年まで公務員を続けた関係で十分な年金を受け取っているし、資産も蓄積している。 その年金から現在の住まいである「高齢者自立支援施設」入居料を毎月支払ってお釣りがある身にして、何でこうも強突く張りなのか?! 

  心豊かな余生を暮らせばよいものを、カネが届くとこの様だ。 母がこんなだから、私は若くして郷里を捨て親を捨てて上京し独立するとの選択を強行した。 (父にも問題があったが、既に60代の若さで他界しているため父に関しては時効が成立している。)

 下の娘(私の事だが)を捕まえては、いつまでも失言を繰り返す我が実母。

 今後、私はこの愚かな実母との関係を如何に続けるべきなのか?

 悪人のままではいつまでも幸せになれないよ。 と言ってやりたいものだが…   


身内高齢者が可愛いと思える時と憎ったらしい時

2019年11月24日 | 人間関係

 (写真は、昨日娘が誕生日祝いに義母から譲り受けたダイヤモンドの指輪。 そもそも写真撮影能力に欠けるため、美しく撮影出来ていないことをお詫びします。)

 

 ちょうど1週間前に風邪をひいた私だが、実はこの風邪の症状が思いもよらず重かった。

 そんな時に限って無理難題が押し寄せてくるものだ。

 昨日は娘の誕生日だったが、この誕生祝いを外部の食事処にて行いたいと言い出したのは高齢者施設に住む義母である。  そう言われると、この私がその手配係となるのが必然だ。 

 日曜日の夜から喉の痛みが激しくなった私だが、あくる日の月曜日にはその手配のために動いた。 電話にての予約時にほとんど声が出ない。 それでも何とか通じて、席を確保出来た。

 そうしたところ、翌日の火曜日には発熱だ。 起きるのも辛いのだが、皆が私に“おんぶに抱っこ”の我が家では私が寝ていては成立しない。 発熱の体に鞭打っていつものようにルーチンワークを行っていると、再び義母から電話だ。 「ごめんなさい。せっかくの〇ちゃんの誕生祝いだけど体調が悪くて、やはり外部の食事処はやめたいの…」 まだ痛い喉を酷使して難聴の義母に応えねばならない。 出来る限りの大声で「分かりました。それではキャンセルしましょう。」  

 さて、木曜日が来た。 熱は下がったものの今度は咳が出続け、まるで喘息症状の我が身だ。 またまた義母から電話で、「何だかね、体調が良くなってきたのよ。やっぱり〇ちゃんの誕生祝いを外でしたい。」  電話口で私が咳き込んでいるのも聞き取れない義母に対して、これまた私が大声で応えて「予約が要らないところで誕生祝いしましょうか?!」  それにOKした義母だが…   次の金曜日には、「やっぱり体調が悪いから、〇ちゃんの誕生日会中止にしたいのだけど…」  多少喉の調子が回復した私が提案して、「それでは、明日の土曜日に〇を連れてお義母さんの施設へ一家3人で行きますから、そこで簡単なお祝いをしましょう!」  電話での文章が長いと、義母が聞き取れているのかどうかがあやふやだ。 それでも強引に約束時間を決定して、とにかく3人で施設へ行く!と大声で言い放ち電話を切った。

 

 その昨日土曜日の事だが。

 施設の義母の部屋を訪れると、義母が満面の笑みで我々3人を出迎えてくれる。 そしてすぐさま私に近づいてきて「〇子さん(私のこと)いつもお世話になってばかりで申し訳無く思っているの。 〇子さんのお陰で私はこの施設で暮らせると感謝しているわ。 これからも頼りにしているからよろしくね。  ところで郷里の〇子さんのお実母さんはお元気かしら??」  

 これ、いつも通りの私に対する義母の挨拶なのだが、昨日は特別その内容が丁寧だった感覚を抱いた。  実際、少しずつ義母の基本的体力が弱りつつある感覚もある…。  特に「郷里の実母」に対する言及に関しては、実母が弱って私が長期間郷里へ行かねばならない事態を懸念する義母の心理が痛いほど身に沁みて、その心細さの程が我が身にも染み渡る。  そこで応えて「お義母さん、郷里の実母は本当に元気ですから、私が長期間東京を離れる事などありません!」と応え義母を確信させることに集中した。  (ただ実際東京暮らしの私にして、娘のサリバン業を筆頭にそれほど長く家を留守にする訳にはいかない。 遠くに住む実母に関しては、有事の際には現地の世話人を雇う等の方策しか取れないであろうと考えている。)

 そんな義母が不憫と言うのか、何とも可愛いというのか…  それに加えて、いつも娘にプレゼントを用意してくれている義母に感謝の思いすら抱く。 

 ここで冒頭写真のダイヤモンド指輪の解説に入ろう。  義母からその「カラット」に関する説明があったのだが、その分野に疎い私は既に忘却している。  それにしても“花柄”の何とも可愛らしいデザインの指輪だ。  毎年のように義母から我が娘に義母が過去に使用していた宝石類を頂戴している。  そんな義母に対し、感謝の思いを抱かない訳がないではないか、との我が感想だ…

 

 あっと、憎ったらしいのは我が実母が本日寄越した我が娘への「誕生日祝い電話」なのだが。

 せっかく義母に関する 、娘へのダイヤモンド指輪プレゼントとの実質利益!を伴う“可愛らしい”までの美談を綴った後にして、興ざめすることを避けるため、この話題は後日に回した方がよかろう。  


26年前の勤労感謝の日、我が娘は“曲がりなりにも”この世に生誕した…

2019年11月23日 | 雑記

 26年前の11月23日は、出産直前期の私は朝から体調がすぐれなかった。 

 高齢出産かつ逆子だったため、来る12月6日に「帝王切開手術出産」を控える身だった。

 亭主が祝日出勤だったため、洗濯機を回し朝食を済ませた後、亭主を見送った。 その時亭主に体調の悪さを告げるべきか迷ったが、心配しながら出勤させるべきでないと判断しその事実を伏せた。

 外は良い天気だ。 当時超高層マンション暮らしだったのだが、いつものように南側ベランダにて洗濯物干し作業をしていた時だ。

 お腹が痛む。  これ、陣痛かも??  と思いつつ、何分初産のため実体験が無い。 陣痛の特徴として、一定時間の周期でお腹が痛む事実は周知していた。 その後も相変わらず定期的にお腹が痛む。 

 義母の家へ電話をかけたのだが、義母は留守だ。  電話に出た義父が親切にも「主治医に電話して相談しなさい。」とアドバイスしてくれた。 その後郷里の実母に電話しても、義父同様のアドバイスだ。

 そして主治医に電話をかけると。 「本日は祝日で休診日です。 今現在の陣痛周期は何分程ですか?」 それに答えて「15分程です。」 主治医返して「初産の場合、陣痛開始より出産までが長いのが特徴です。 私の予想では明日朝まで持つと思います。 もしもその間に何かの異常が発生した場合、また電話下さい。」

 その主治医の返答を丸ごと信じた訳でもないのだが、とりあえずその指示に従うしか方策はないだろう。

 その後時間の経過ごとに、体調が加速度的に悪化していく。 何分、尋常ではなく我慢強い私だ。 押し寄せる陣痛に耐えながら洗濯物を取り入れ、入院の準備をしつつ夕刻になった時には、もう起きていられない。 やむを得ずベッドに横たわった後、破水した。  すぐさま主治医に電話を入れると、「すぐに病院まで来なさい!」

 と言われたとところで、既に動けない。  亭主の仕事場へ電話を入れて「すぐに帰宅して病院へ連れて行って!」と訴えるのが関の山だ。

 そして着の身着のまま入院準備品を持参して、超高層マンションの1階玄関まで一人で降りた。 その玄関先でうめきつつ、うずくまっていると亭主が車で帰ってきた。 その足で病院へ行った時には……

 既に手遅れだった…  そのまま主治医の指示で救急車が呼ばれ、私は大病院へ搬送され緊急帝王切開手術と相成った。

 娘が誕生したのが、夜の8時6分。  (後で判明したことだが、娘は仮死産だった… )

 

 その直後より我がサリバンとしての壮絶な子育てが開始し、年月が流れ現在に至っている。

 あれから26年が経過し、娘は娘なりに立派に美しく成長した。 

 医学関係者にして、謝っても謝り切れない出産日の母である自分の過ちを振り返り、娘の誕生日が来る都度心が痛む。  あの日が祝日でなかったら朝一で一人で病院へ行って、もっと早く娘の息が止まる前にお腹から出してやれたのに…  との悔しさ・やるせなさと共に、26年が経過した本日も懺悔の思いが湧き出る。

 

 娘よ、今後共、二人三脚で共にこの世を強く生き抜いて行こう!! 

 貴方の責任はこの母が、今後も一生賭けて取る覚悟だ。

 


今日のコネは明るい未来への足かせ

2019年11月22日 | 仕事・就職

 ブロガーの皆さんは、ご自身が公開した過去のバックナンバーを読み直すことがあるだろうか?

 加えて、自分自身のブログバックナンバーをじっくり読み直し “悦に入る”ブロガーは、この原左都子以外にも存在するのであろうか?  これって、単に“ナルシスト”なのか??

 

 またまたバックナンバーの紹介で恐縮だが、昨日の “Popular entries top 10”に、2010.12.06公開の「今日のコネは明日の足かせ」と題するエッセイがランクインしていた。  早速以下に、私自身の経験に関して述べた部分のみを再掲載して紹介させていただこう。

 原左都子にはきっぱりと言い切れることがある。  それは、私は我が生涯における度重なる就職において“コネ”“人脈”あるいは“紹介”等、他者のバックアップを得たり他者を介する形態に一切依存したことがないということだ。 すべての就業において我が実力のみで就職をゲットしてきている。

 ウン十年前の春に初めて新卒で社会に出る時もそうだった。
 私の場合は医学関係の国家資格を取得した上での就職であり、当時その分野は“超売り手市場”という時代背景に恵まれていたことは認める。  
 そんな中、多くの学友達は既に先輩等が数多く活躍している地元の名立たる病院や医療機関への就職を早期に決定していく中、私だけはあくまでも東京に本社がある医学関連民間企業への就職を希望した。 当時先輩の誰一人として先駆者はなく開学以来私が初めてのことであり、指導教官が私の選択に関して「何もそんな冒険をしなくても、いくらでもいい就職先はあるのに…」と心配下さった程である。

 その医学民間企業での面接は今でもよく憶えている。 後にこの企業の取締役になる当時の所属部門部長が面接時に未熟な私に問いかけるのだ。 「あなたは管理する立場と管理される立場とどちらを好みますか?」  元々“一匹狼タイプ”で身の程知らずの私がきっぱりと応えて曰く 「どちらも嫌いです。」  それを受けて説諭に入る部長曰く 「企業とは社員皆が共同で一つの事業を作り上げていく組織体です。そこでは管理する事も管理される事もとても重要ですので、あなたがもしこの会社に入ったならばどちらの能力も磨くよう精進して下さい。」 
 これは企業幹部にして“的を射た”説諭であり今尚私の脳裏に刻み込まれている名言の一つでもあるのだが、その当時は「どちらも嫌いです」の我が正直過ぎる大失言により、当然入社試験に落ちたものと覚悟を決めたものだ。 どういう訳か入社が決まり、その後女子社員がどんどん結婚出産退社していく中、27歳にして同期入社の出世頭として係長に任命されるごとくこの企業で活躍し、成長させたもらえた私である。

 その後30歳にして新たな学問に励むため上記の民間企業を退社し二度目の大学に入学した後の我が就活においても、“コネ”や“紹介”等に頼ったことは一度もない。
 例えば私にとってはまったくもって専門外の“パーコン”(パーティコンパニオン)を志した時とて、誰のコネによるのでもなく“身ひとつ”でバンケット会社の面接に乗り込んだものだ。 国会議事堂前に位置する某バンケット会社の面接において首相経験者国会議員(田中角栄氏だが)元秘書の女社長と面会した際も、私が過去において積み上げたその道とは何のかかわりもない実績を大いに評価してくれ、即時採用していただいた。  その後4年の年月が流れ、大学院進学時点で夜間は定時制高校教師になるためコンパニオンを卒業する旨私が申し出た時、この女社長が「○○さん(私のこと)の今後の活躍を私も期待しています!」と激励して送り出してくれたことも、今尚印象的な出来事である。

 我が子出産後は“お抱え家庭教師”として家庭内で君臨しつつも、子どもが小学校に進学するにあたり医学的バックグラウンドを活かそうと再就職を試みた。 (現在は特定国立研究開発法人となっている)某研究所に“あわよくば”との発想で出した履歴書だったのだが、当時既に40代後半にして20倍の競争率を難なく乗り越え、またもや採用されてしまった。 (ところがこれに関しては、多少の事情を抱えた我が子がまだまだ小さ過ぎる時点での職業復帰を焦った事等々様々な我が失策に苦慮した挙句、3年で退職に至ったことについてはバックナンバーにて既述した通りだ。)
 
 そんな私も他者の“紹介”に依存せねばならなかったことがある。
 それは就職ではなく大学院進学においてだが、これは既に社会経験を大いに積んでいる私にとっては大いに鬱陶しかったものだ。
 30代半ばにして大学院進学を目指した私であるが、大学院の入試とは大学における指導教官の推薦書提出が必須であることを当時初めて知った。 それまで“コネ”や“紹介”等に一切頼らず生き抜いてきている私にとり、これは実に鬱陶しい現実だった。 やむを得ず当時の大学指導教官に相談したところ「自分で自己推薦書を書いて持って来なさい」との返答だ。 (それは結構得意かな!~)とほくそ笑みつつ自己推薦書を仕上げて持参したところ。 「あなたは自己分析力が秀でていますね!」と指導教官に唸られ、自己推薦書をほとんど丸写しで仕上げて下さって提出した経験がある。
 (推薦書の提出を強制する場合、他推選ではなく自推薦にした方が本人の自己分析力や文章力も判断材料にできるというものだ。)

  “コネ”にまつわる私自身の経験を通して習得した原左都子の思いを今回の記事の表題 「今日のコネは明日の足かせ」 に込めてみた。  “コネ”とは一時的に活用できる効用はあるのかもしれない。  ただ、その後は自分の実力で精進してこそ真の成功をゲットし得るのが人生というものであろう。
 自分自身が努力をせずしていつまでも“コネ”に頼り続けるしか脳の無い人間にとっては、“コネ”とは足かせでしかない、という今回の話である。

 (以上、2010年12月のバックナンバーの一部を引用したもの。)


 我が過去に於ける“コネ無し”就活に関する4例がピックアップされている。

 今読み直しても実に感慨深い4例なのだが、それぞれを振り返ってみよう。

 一例目の「あなたは管理する立場と管理される立場とどちらを好みますか?」事例 。

 当時より“どんだけ私が天邪鬼だったか”を思い知る事例だ。 よくぞ若輩新卒者面接において、平然と「どちらも嫌いです」発言をしたものだ。  ただ私という人間とはまさに、この“天邪鬼気質”を武器として組織で生き残ったとも考えられよう。 “天邪鬼”の内面に秘められた物凄いばかりの(組織論でいうところの)「パワー」を、若輩だったからこそ存分に発揮しつつ、この企業にて私なりのサクセスストーリー街道を歩めた気もする。

 二例目の「パーコン派遣企業」での元田中角栄氏秘書だった女社長との出会いに関して。

 この女社長氏が私の面談を担当して下さった訳では無かった。 ただ、私が(パーコンにチャレンジせんとする女性として当時は珍しかった)国公立大学学生の身分だった事実を社長氏が認識していたようだ。 毎月事務所まで給料を受け取りに行く都度女社長氏が出てきて「本業の学業頑張っていますか?」の一言をかけて下さったことを思い出す。 「はい。大学院進学そして学者を目指しています。」等の会話をしたものだ。 その大学院進学と共にパーコンを退職するに当たり、我が未来に向けてエールを贈って下さった事実には今尚感激申し上げている。  実にこの業種にて短時間に高収入を効率よく稼げたからこそ、私は学業に励む時間が保証され大学院進学が叶ったようなものだ。

 三例目の「理研」は飛ばして(と言うのも、残念ながら良き思い出がほとんどない…)、 四例目の「大学院進学時の自己推薦書」の件だが。

 この件があったからこそ、私は大学院進学後も担当教官氏より“信頼”を勝ち取れていたような気もする。 当該指導教官氏が「文化勲章・秋の叙勲」をご授賞された後も“直筆入り”年賀状交換は今尚続いている。


 最後に、原左都子の私論を述べるならば。

 何らのコネが無くとも自身の「実力の程」を認めて下さる人材と現場で出会い交流出来たならば、必ずや明るい未来があるとの事実ではなかろうか。


反発心や違和感が強い人間ほど文章発信力があるのかも

2019年11月21日 | 自己実現

 上記表題は、原左都子自身の執筆行動に関して自己分析したものである。

 当該「原左都子エッセイ集」公開以降12年3ヶ月の年月に渡り、オピニオンエッセイを発信し続けている。 その原動力とはまさに上記表題のごとく、我が内面から湧き出る「反発心」であり「違和感」であろう。

 

 さて、昨日の  “Popular entries top 10”  に2010.12.23公開の「書きゃいいじゃん!」がランクインしていた。  世の出来事に対し常に反発心や違和感が内面から湧き出す私にとって、かなり不可解な内容の新聞相談を題材にしてまとめたエッセイだ。  早速以下に、一部を引用させていただこう。 

 いきなり私論の結論を表題としたため、何の話なのかお分かりいただけないことであろう。  そこで順を追って説明することにしよう。
 12月18日朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談の題名は「小説が書きたいです」だった。 その題名だけ見て咄嗟に出た私の感想が、上記の「書きゃいいじゃん。」なのである。

 ところがこの相談をよく読むと、どうやら相談者の悩みの本質が「小説が書きたい」との題名とは別のところにありそうだ。
 そこで、まずは71歳年金生活者(おそらく女性)による上記相談内容を要約して紹介することにしよう。
 わずかな年金をいただいて感謝しつつ暮らしている71歳だが、あれもこれも知りたい病で困っている。 起きてまず新聞を読むが出かけることも多く、新聞を読めない日がとてもつらい。 「婦人公論」も読むし、友人と詩を書いて年1度同人誌として発行している。 だが、本当は小説が書きたい。 2年前に看護師の仕事を終え、俳句、お茶、ウォーキング、老人会と役目が増えてしまった。 年を取る程に物事に興味がわいてきてしまうのは病気の一種だろうか。 子どもの図鑑も眺めるし、大学公開講座も聴きに行く。縄文文化や宇宙、動植物にも興味は尽きない。 でも本当にしたいのは小説を書くことだ。 同居人の娘も私をそそのかすばかりで何も言わない。もう少し年を取ると書けるようになるのだろうか。

 いきなり私論に入ろう。

 やはり私の結論は、つべこべ言ってないで本気で小説を書きたいならとっとと「書きゃいいじゃん!」 それのみである。
 それはおそらく相談者の同居人である娘さんも同じ思いなのであろう。 一番の近親者である娘さんとて“そそのかすのみで何も言わない”のは、「書きゃいいじゃん」以外に答えようがなく、たとえ自分の親と言えどもそれ以上の答を要求されても鬱陶しいだけだからであろう。

 で、一体この71歳年金生活者は如何なる答を欲しているのかが、この相談に応えるキーポイントとなろう。
 相談者の気持ちは分からなくない。 69歳まで看護師の仕事を全うし退職して現在は年金で賄える範囲内の事象を見つけてはあれこれやってみるが、おそらく“これぞ我がライフワーク!”と納得できる程のビッグな対象に出会えないでいるのであろう。 これも違う、あれも物足りないと内心欲求不満を募らせつつ 「本当は私は小説が書きたいんだ!」 と信じ込むことで自分の今の存在を正当化したいのであろう。
 ところが、実は小説を書くことにはさほど興味がないことにご本人が気付いておられないようだ。 何とか他者に後押しして欲しいとの他力本願思想に走りつつ、その思いを家族や周囲に話してみても誰一人として「いろんな物事に興味がある貴方には小説家はうってつけ!」などとまかり間違ってもおだててくれる人がいない。 周囲の反応とは結局私論のごとく、せいぜい「書きゃいいじゃん」程度なのであろう。
 どうしてもそのような身近な反応が物足りなくて欲求不満状態に陥った相談者が、新聞投書に打って出たといういきさつと受け止める。 

 この相談者の場合医療専門職の看護師だったこともあるのだろうが、この就職難の時代に69歳までご自身の専門である仕事に恵まれ、それをやり遂げられただけでも幸せな人生に恵まれていると言えるのではないのだろうか? 
 私も相談者とは職種は違えども元々医学分野の国家資格を取得し専門職に付いていた。 同種の仕事に就いたかつての学生仲間も、ほとんどの人が今尚現役バリバリで医療現場で活躍している。 おそらく定年過ぎて尚仕事を続行する人も多いことであろう。 (途中で身勝手にもその専門を放り投げたとも言える私にとって、何十年もその道一筋に生きている仲間の現在の活躍談を見聞するとぶっちゃけて正直なところ羨ましくもあるのだ。
 おそらくこの相談者の場合も2年前まで現役で活躍したご自身の看護師時代と比し、現在の年金生活は大いに物足りないことであろう。 何をやってみても職業人としてあれだけ頑張り患者さん等皆に感謝された時代がプレイバックされない…   そんな欲求不満を解消しようとして「小説が書きたい」と言ってみるものの、誰も後押ししてくれない… 
 職業人として長年頑張って来られたばかりに、退職後の現在の欲求不満が倍増する思いは原左都子も重々理解できるのである。

 (中略)  元教育者でもある原左都子の場合、人間の頭脳を単純に4分割して表現することは立場上避けたいのだが、作家であられる車谷氏の理論は分からないでもない。
 余談だが、もしかしたら原左都子は車谷氏のおっしゃるところの「頭の強い人」に分類されるのかもしれない。 なぜならば、車谷氏の理論に従うと「頭の強い人」とは偽、悪、醜について考えても頭が痛くならない人種だそうなのだが、社会でそういう対象を見つけるとこの「原左都子エッセイ集」でぶった斬ってやろうとの闘志がメラメラ湧き出るからである。 
 この“悩みのるつぼ”の71歳の相談者は車谷氏がアドバイスされているごとくの“プロの小説家”を目指しているのではなく、ご自身が納得のいくライフワークを欲しておられるのであろうと文面より受け止める。
 この相談者が69歳までもの長期間看護師を貫かれたことを、職種は違えども同じ医学分野に従事した原左都子としては十分に褒め称えて差し上げたいのは、上に記した通りである。

 その上で相談者が本心から小説を書きたいのであれば、今の時代、拙い「原左都子エッセイ集」のごとくのブログのような形でも、いくらでもその思いを発信できることをお伝えしたいのだ。
 今さら世に名を売ることを目指さずそして一銭の収入にならずともよいのであれば、ブログとはいつからでも始めることが可能な媒体である。 公開したブログがネット上で発信力を持てば自ずとアクセスして下さる読者に恵まれ、自分にとってライフワークとも言える程の価値が付随して人生が楽しくなる事を、弱輩者である原左都子からアドバイス申し上げます!   だからこそやっぱり 「書きゃいいじゃん!」 なのですよ!! 

 (以上、2010.12公開のバックナンバーより一部を引用したもの。)

 

 
 このエッセイのコメント欄に、我が本音を記載している。
 
 本エッセイの最後に、その我が“手厳しい”本音コメントを再公開させていただいて、本エッセイの締めくくりとしよう。 
 
isseiさん、結局この人は“書けない人”ですね。 (原左都子)
2010-12-24 07:20:28
“もの書き”の端くれを自負する私ですが、小説にせよエッセイにせよ小論文にせよ、ものを書くこととは至って能動的かつ孤独な作業であると思うのです。
この相談者の相談内容を読むと、今現在行っていることはすべて受身、あるいは“皆でやれば怖くない的”な趣味ばかりです。 申し訳ないですが、(新聞を読む以外は)私が年老いてもこんな事大してやりたくないような、読んでてつまらないことばかりが羅列されています。
正直言って、ちょっと小説を書くには程遠い人種なのかとの印象を受けます。
isseiさんも書いて下さったように、何だかんだ言ってないで書きゃいいんですよ。
それが出来ないのは、内面から溢れ出てくるものが無い証拠です。
本文中では看護師を全うされたことを褒めて差し上げましたが、現役時代からもっと自身の内面を研ぎ澄ましておくべきでした。
結局、それがまったく出来てない人ですね。 
ドカドンさん、実体験か疑似体験が必要ですね。 (原左都子)
   2010-12-25 08:27:02
   
   要するにこの相談女性は“実質上の人生経験”が足りないような気がします。
   年配の方を捕まえて失礼なのですが、上っ面をかすって生きて来ている感覚を持ちます。それが証拠に、
   あれこれと手を出している割にはやっていることが今時の年寄りとして通り一遍です。
何をやって生きてもいいのですが、物事に感情移入できる集中力や多感さが足りないのではないかと思います。
自身の実体験が足りないのであれば、ドカドンさんが書かれているように小説を読むなりして疑似体験をすればいいのですが、どうもその種の努力もしていないようですね。
一体何を理由に小説が書きたいと言っているのか摑みどころがない感じです。
ドカドンさんは沢山の小説を読まれたのですね!
実は私は小説はあまり読んでないです。 どちらかと言うと“実体験派”と申しましょうか…?!?
“真実は小説よりも奇なり派”と申しましょうか…?!!