原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「大学入試改革」、シンプルな昔方式が一番良いように思うが。

2019年11月15日 | 教育・学校

 文科省が検討中の「大学入試改革」。 英語でポシャったかと思いきや。 

 国語も、数学も大変なことになっているようだ。

 

 以下に、本日先程みたネット情報の一部を引用しよう。

 中途半端な手当てですませようとせず、いったん白紙に戻して検討し直すべきではないか。 来年度始まる「大学入学共通テスト」の国語と数学に導入予定の記述式問題のことだ。

 英語民間試験の活用見送りを機に、もうひとつの懸念として注目が集まった。 高校生らの反対署名には短期間で4万2千人が賛同した。国会でも議論になり、野党は実施を取りやめるための法案を提出した。

 とりわけ国語に関しては以前から数々の問題が指摘されており、朝日新聞の社説も「このまま本番を迎えてよいとは思えない」と疑問を呈してきた。

 一番の心配は、受験生の自己採点と実際の採点とが大きくずれることだ。昨年の2度目の試行調査でも「不一致率」が3割に達した。自己採点が甘いと2次試験の出願先に門前払いされかねず、逆に厳しすぎると、自分の力を誤解したまま志望先を断念することも想定される。

 ここにきて文科省も事態の深刻さを認識したのか、2次試験に進む受験生を絞り込む「2段階選抜」の判定材料に国語の記述式の成績を使わないよう、国公立大学に求めることを検討しているという。新方式の欠陥を認めたに等しい。  それでも記述式を実施する方針自体は変えないようだ。とりあえず最小限の措置はするが、中止だけは避けたい。そんな思惑がにじむ。

 だが他にも課題は山積している。 まず採点の精度だ。業務は民間業者が請け負う。50万人の答案を見るには1万人が必要とされ、アルバイトも動員する。 これに対し高校や大学の関係者は「教員でも採点は難しい。バイトでは無理だ」と批判する。

 ブレを防ごうとすれば、あらかじめ決めてある要素が答案に盛り込まれているかをチェックするという、機械的な採点方式にするしかない。だがそれでは本当の思考力や表現力を測る出題は難しく、何のための記述式かという疑念がわく。

 情報漏れを危ぶむ声もある。準備のため、業者に事前に設問や正答例を示すことになっているが、それで試験の公正公平が保てるかとの懸念だ。

 受験生や高校・大学の関係者の納得を得られる状況とは言い難い。このまま強行したらどうなるか。英語民間試験をめぐる曲折から、重い教訓を突きつけられたばかりではないか。

 東北大学の研究者らの調査によると、国立大の2次試験は既に設問の9割近くが記述式にあたる内容だという。共通テストと大学の個別入試でどう役割を分担し、入学後の教育につなげるか。 その基本から議論し直し、制度を設計する必要がある。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)

 

 私事を語るならば。

 我が現役受験生時代は、未だ「共通一次」も「センター試験」も無かった頃だ。

 愚かな親から私立受験を禁止され、地元国立限定!と進路を究極狭く制限されていた我が受験劇は、実に簡単なものだった。(あちこち行かなくて済むとの意味でだが。)  反面、国立特に理系は受験科目数が多く、私立文系受験者に比し3倍程の受験科目を課せられた。 

 当時は、それをどれほど悔しく思ったことか! これほどまでの“貧乏くじ”を引かされた我が身が実に切なく重荷で、それがために高3時に「過食症」に苛まれた程だ。 多少グレて、地元一の名門高校の制服を「スケバンスタイル」に大改造したりもした。 

 ただ今思うに、10代後半期に数学は「数Ⅲ」まで、英語もばっちり、理科2科目と社会、ついでに「国語」も頑張ったあの経験が大いに活きていると思えるから不思議だ。

 その受験勉強力が後に2度目の大学を目指すに当たっても十分有効に通用し、その後の我が再びの「学問力」に直結した。

 結局、受験とは「頑張った者勝ち!」であることに間違いないだろう。

 

 最後に、私論でまとめよう。 

 文科省が大学受験制度をあれこれいじくり回さねばならない現代の時代背景も、ある程度は理解可能だ。 

 ただいじくり回し過ぎて受験生や保護者や大学現場、そして社会全体まで巻き込み混乱させる必要は何ら無いはずでもある。

 とにかく受験生間の“公平性””公正性”は保たれるべきだ。 

 そうなると昔ながらの「シンプル受験」方式、すなわち全国共通試験も廃止し、国公立大学・私学を問わず各大学が自ら手に負える“身の丈に合った”試験問題を作成し、志望受験生を迎え受験させた後、大学自らが採点して合否を決定する方式が一番簡単、かつ最善かとも思うのだが…


gooは、“個々のブログ尊重心”及び“美的感性”が欠落しているのか!?!

2019年11月14日 | その他オピニオン

 (写真は、一昨日?よりパソコン版gooブログのすべての記事の下欄に付けられた「いいね!マーク」を、我が「原左都子エッセイ集」画面より撮影したもの。)

 

 一昨日だったか記憶が曖昧だが、パソコンを付けgooの我が「原左都子エッセイ集」ページを開いて驚愕とさせられた! 何なんだ、これは!  誰がこんなものを勝手に我がエッセイ集に書き込んだんだ!?? 

 実際、当初、いたずらか嫌がらせかとも勘ぐった。

 

 数ヶ月前より、編集画面の「数値」また「数値」にウンザリさせられている私見を事あるごとに公開している我が「原左都子エッセイ集」だ。  それなのに、よりにもよって、どうしてこんな  “おちゃらけ落書き” 被害に遭わねばならないんだ!?! 

 しかも、我がエッセイ集は社会時事問題等に対するオピニオンを真面目に公開することを主眼としているブログだ。 こんなものを書き込まれては、ブログの価値が大幅に下がるではないか! 

 実際焦って、編集画面を調べてみた。 そうしたところ、この「いいね!」マークは非公開に出来ることが判明したのがせめてもの救いだ。 早速“非公開”措置をとり、一応我がブログの“品格”を維持できた思いだ。

 

 そうして皆さんのブログも覗かせて頂いた。 そうしたところ、この「おちゃらけいいね!マーク」が皆さんのブログにも貼り付けられているではないか! 

 いや、中にはこのマークが“お似合い”のブログも結構の数存在する。 (失礼な表現をお詫びしますが…)

 そんな中、素晴らしい貴重写真の数々を日々公開されていたり、我が「原左都子エッセイ集」と同質のオピニオンブログの下欄にもこれが貼り付けられているではないか!  (いえもちろん、ご本人がそれを許容されているのなら何ら問題はないのだが…)  見せられる立場としては、かなりショッキングな感覚だ。

 

 私の場合、既に数年前に遡るがgooのリニューアル措置に伴い、それまで2000本近い数のエッセイに頂戴していた膨大な数の「いいね!」のすべてを抹消(0リセット)されてしまった苦い経験がある。  その当時のgooは現在程に「読者登録」や各種「数値」にこだわっていなかった時代だった。

 そんな中、我がエッセイ集は見知らぬ読者の皆様より、決してgooブロガー同士の“相互扶助「いいね!」ごっこ”ではない“本気の”「いいね!」を沢山頂戴していた。(参考だが、我がオピニオンブログは当該gooにとどまらず、各種検索エンジンより日々お越し下さる数多くの見知らぬ読者に恵まれ続け成立している事実を、12年前の開設直後より現在に至るまでずっと自覚している。)  パソコン版「いいね!」のすべてを失った私は、その時覚悟を決めた。 もう、「いいね!」は一切要らないと!  そうしてパソコン版「いいね!」欄も編集画面にて削除措置を施し現在に至っている。

 いえいえ、今となっては少数ながら日々我がエッセイ集へ「いいね!」を頂戴するgoo読者の皆様にも、心より感謝申し上げております。 今後ともご贔屓の程、お願い申し上げます。

 

 最後に私見を記させていただくが。

 gooには、ブログとは公開している“画面全体が筆者のポリシー表現の場”との認識を是非とも持ち、今後ご対応頂きたいものだ。  

 あっと、gooさん。 今後も「原左都子エッセイ集」へ届けられる日々の「PV」数に関しましては個人的に大いに参考になりますので、お届け下さいね!


「愛国心」の本音を問いたい

2019年11月13日 | 時事論評

 ここのところ「原左都子エッセイ集」 “Popular entories top 10" 内に、2012.09.24 公開の 「『愛国心』を騒ぎ立てる奴らの“愛”って一体何?」 がランクインしている。

 

 早速、当該バックナンバーの一部を以下に要約引用しよう。 

 冒頭から私見を述べると、その対象の如何にかかわらず 「愛」「愛」と騒ぎ立てる奴ら程「愛」の真の意味が理解できていなかったり、“薄っぺら”な「愛」を求めていたりする傾向がなかろうか?
 そもそも日本の伝統的歴史・文化に培われた日本人の気質の一つとして、「愛」という言葉を口から直接発する事に恥らったり多少の抵抗感すら抱く慎ましやかさが取り得であり、控え目かつ美しい人間関係を育んで来れたように私は記憶している。
 時代が移り変わり、現在に至っては 「愛しているよ!」 なんて一般人が軽々しく叫べるまでに日本文化は変遷しているのか??

 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞9月19日「耕論」欄の 「愛国」 と題する記事を読んだことによる。
 まずは、その書き出しの全文を以下に紹介しよう。
 中国、韓国に甘い顔をするな。 国賊、売国奴は日本から出て行け。 子どもの命は国に捧げろ―。 それが本当に愛国なのか。 真の愛国者の言葉なのか。 愛国を考える。

 「原左都子エッセイ集」に於いても、つい先だって、「竹島、尖閣諸島は誰の財産か?」 と題する記事を綴り公開したばかりだ。
 そのエッセイ中で、原左都子が世に言う「愛国」云々に対応して以下のごとくの懸念をしているため引用する。
 8月中旬に韓国大統領が竹島に上陸した際、既に関連エッセイを綴り公開したかったにもかかわらず、何故に私らしくもなく弱気になり保留措置になどしたのかについて説明すると、ペンネームの「左」の文字が物語っている通り多少“左”志向故である。 この領土問題に関する8月当時の率直な私論をそのままエッセイ集にて公開したならば、「愛国心」旺盛な国民の皆さんより“袋叩き”に遭いそうな危機感を察知したからに他ならない…。

 ここで補足説明をさせていただくが、原左都子は決して「左翼」思想の持ち主ではない。 そんな大それた思想など一切ない、と言うよりも元々政治にはさほどの興味がない人間である。
 ただ、どうやら先天的に“天邪鬼気質”が備わっていることには間違いないようで、世の中に発生する多種分野の現象に関して人とは異なる観点の発想が自然と湧き出て来るのだ。 周囲の皆が大勢に迎合して盛り上がっているような場面においても、「いや、それはどうなのだろう?」「そうではない考え方もあるのではなかろうか?」等々あれこれ思考を巡らす脳内構造を幼い頃より持ち合わせているようだ。(だからこそ私は「集団(迎合)」が苦手である…)

 加えて(上記我がエッセイ集バックナンバーにメッセージを頂いた読者の方と話し合ったのだが)、ベルリンの壁崩壊以降、世界規模で情報が収集し易くなったお陰で個々人の情報収集に際しても障壁がなくなり、末端部分に於ける個々の自由評価が可能となった。 その結果、この世に「右翼」「左翼」思想が薄れたとの結論に至った。 (メッセージを頂戴した方には無断で本文中に転載させて頂いたことをお詫びします。)

 さて、上記朝日新聞「耕論」に掲載された 「愛国」 の記事に戻ろう。
 この記事では、立場が異なる3名の著名人の方々がそれぞれの見解を述べておられる。
 あくまでも原左都子にとって興味深い部分のみを抜粋することにより、上記“著名人”3者の「愛国」に対するご見解の一部を以下に紹介しよう。 
 まずは、新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏。
 私は日本で一番の愛国者と自負しているが、「愛」とは欠点も失敗も認めた上で愛しいと思う心だと考える。 日本はアジア諸国に対し弁解しようもない失敗を犯してきた。それを認めず日本は正しかった、失敗を認めるのは反日的だと言いつのるのは愛国心ではない。 心の痛みが伴わない愛国心はフィクションに過ぎない。 大局的に国益を考え、中韓をやっつけろと騒ぐ世論を抑えるのが政治家の役割であるのに、国民と一緒になって騒いでどうする!?  本来「愛国心」とは家族への愛、故郷への愛、その延長に位置するものである。 しかし、最近は自分と国家を直接結びつけることが「愛国」と考えられている。 多様性、敵対性もすべて含めて抱きしめられる心こそが真の「愛国」だ。
 次に、作家の岩井志麻子氏。
 こないだ「竹島は日本の領土でしょ」って言って、韓国の新聞に「極右作家」と書かれた。 我が夫は29歳の韓国人である。 (大幅中略)  そもそも、よその国をおとしめて自国を愛するという「愛国心」は、ようないと思う。 あなたの国はよい国ですね、うちの国も良い国ですよ、と言った方が母国の良さが相手に届くでしょう。 それこそ真の「愛国」じゃないですか。よその国を尊重する気持ちがない人が、「愛国心」を名乗ちゃいけんのじゃないですかね。
 3人目は、衆院議員の亀井静香氏。 
 国を愛するということは当たり前のことであるから、自分達の郷土を素晴らしいものにしていく努力をするのが「愛国」。 こんな当たり前のことが強調される時は何かよこしまな意図がある場合が多い。 戦前は政府がやろうとする事の正当性や必要性を国民に説明しないで「愛国」というある意味誰も抵抗できない言葉で正当化、美化し、人々を戦争に駆り立てた。それに従わない奴は「愛国心」がないと批判して。 隣国との領土問題に関しては仲良くするに勝る防衛はない。 にもかかわらず簡単な言葉で酔う時代だから、政治家が威勢のよいことを言っていれば国民が拍手してくれるし、マスコミも取り上げてくれる。 それで一時の人気を得てダメになったら別の人間が同じような事を繰り返す。 賽の河原みたいなもんだ。

 上記3名の“著名人”のご意見を拝見すると、その立場は大幅に異なれど、皆さん“一応”原左都子が思い描く「愛国心」と同一の見解を述べておられる。
 これらの見解を総合的に考察した場合、「愛国心」とのテーマに関して現在はまさに「右翼」「左翼」の垣根を越えて統一見解が得られそうな時代と成り行く感覚を抱く。

 ここで今一度、私が同感する「原左都子エッセイ集」バックナンバーで紹介した朝日新聞「声」欄 60歳男性の投書を紹介しよう。
 力関係による領土問題の解決は将来までしこりを残し、本当の解決にはつながらない。 しかも偏狭なナショナリズムは繰り返し報道されることによって一気に沸騰しコントロールが効かなくなる。 日本が力によって領土問題を解決する道を選択するのなら、日米軍事同盟は一層緊密になり緊張状態を絶えず強いられることになる。 領土問題はあくまでも時間をかけて話し合うべきだ。本質的な解決に至るまでは「棚上げ」にして漁業問題や海洋資源問題の暫定的な取り決めをすればいいと思う。

 尖閣諸島日本国有化に反発して、中国現地日本企業に火炎瓶を投げるとの暴力行為に出ている中国人若者の中には、「周囲が反日感情で盛り上がっているからそうしているが、尖閣諸島が何処の領土なのかは分からない…」との正直な談話も聞こえているそうだ…

 「愛国心」の真の意味合いとは何なのか?
 これは、“ベルリンの壁崩壊後”に於ける全世界の国家指導者の指導力こそが問い直されるべく課題であろう。

 (以上、本エッセイ集2012年9月バックナンバーより一部を引用したもの。)


 2019年11月、今現在の我が私論を語ろう。

 香港に於ける争いを見るに忍びない思いだ。 

 私は若かりし過去に“イギリス領”だった香港を旅した経験がある。 観光のみならず、経済面でも活気付いた香港の姿を垣間見てきている。

 あんなに素晴らしい観光地だった香港を、一体全体中国はどうしたいと言うのか!??

 香港の若者達は、「今まで通りの“自由な香港であって欲しい!!”」と訴えていると私の耳は捉えている。(若者達の闘い方が未熟である事実は私も認めるものの…)

 そんな切なる若者達の思いを断絶し命を奪うまでの闘いを繰り広げて、中国側に如何なる利益がもたらされると言いたいのか!

 原左都子のあくまでも愚かな私論に過ぎないが…   この香港での闘いに関し、私は若者達の香港に対する「愛国心」にこそ、軍配を挙げたい!


自分が辛いときに人に頼られると元気になるから不思議

2019年11月13日 | 自己実現

 ロードレースを全力疾走して疲れ果てている老体に、次々と難題が押し寄せる。

 高齢者施設暮らしの義母は、体調不良だと訴えてくる。 (あのーー。私も疲れていますが… )とは決して言わない。 認知症と難聴を抱える義母に電話口で「身体の何処がどうような状態ですか?」と大声を張り上げて問わねばならない。 

 こんな時に亭主も体調不良で、やはり私にその状態を話しに来る。 

 更にはこんな時に娘が残業続きで帰宅が遅い。 眠い目をこすりつつ娘の帰りを待ち、娘の夕食の隣で「今日はどうだった?」 等々とコミュニケーションをとる。

 ああーー、 参ったなあ。 こんな時に年賀状のシーズンだ。 過去の「筆ぐるめ」データは旧パソコンの壊滅的故障によりその全部を失っている。 住所録からすべてを入力し直しだ…

 

 そんな折に、本エッセイ集2017.02.27公開の「いつの間にやら“頼られる”人間を強要されていた」と題するバックナンバーがランクインしていた。

 早速以下に、要約引用させて頂こう。

 朝日新聞 別刷「be」 between のテーマは 「甘えられる人はいますか?」 だった。  これ、今の私にとって人から聞かれて一番辛い質問だ。  何故かと言えば、それが周囲に一人もいない事実こそが現在の私にとって一番の悩みであるためだ。

 いえいえ、決して「孤独」という訳ではない。  私に甘えたい(頼りたい、と表現するのが適切だが。)人間は家族を中心に複数存在する。

 たとえば、今朝も郷里の実母より電話が入った。
 3月2日から実母の高齢者施設を訪問する予定となっているが、その時に「何を持参して欲しい。到着したら何をして欲しい。……」云々の依頼内容だ。 「うん。前にも聞いているし、既に準備出来ているよ。」と私が応えると母は安心した様子だ。 
 その留守中一人で自宅で暮らさざるを得ない亭主からも、「〇子(私の事)は2日の何時に出発だっけ? 帰りは何時頃になる?」とこれまた繰り返しの質問。 それに応えて、「2日は午前中の出発だし、帰りの日の帰宅時間は夜11時を過ぎるよ。 その分の食費を渡しておくから、一人でちゃんと食事するのよ。」とまるで子供に言い聞かせるように指導せねばならない。
 今回は、娘が職場の有給休暇を取れるとの事で同行するため、娘の心配は不要だ。 「郷里の施設のお婆ちゃんの世話は私がするから、貴方はせっかくの旅行なんだから自分が好きな場所を観光して楽しみなさい。」と促しても、どうやら私と一緒に行動したい様子だ…
 まったくもって軟弱家族を抱えると短期間旅行に出るのも大変であることを、いつもの事ながら実感させられる。

 私自身はそもそも「人に甘える」人格だったと振り返る。
 特に幼少時代より子供の頃は、とにかくスキンシップを愛好する子どもだった。 家族等々周囲の誰にも自然ともたれかかったり手を繋いだりしていた記憶がある。
 あるいは友達の女の子達と手を繋ぐのも好きで、それを小学校高学年までしていた記憶がある。 ある時友人から「女同士で手を繋ぐと変な関係と思われるからやめた方がいいよ」と指摘された時には、(確かにそうだなあ)と悟ったものだ。
 時は流れ大人になり、上京して仕事や学問に励み職場の長に任命されても、私は「人に甘える」との手段により自身の心の平穏を保ちつつ、自己実現を繰り返して来た感覚がある。
 周囲に“甘えさせてくれる”人材を集める事が得意技だった気もする。 そういう人物(そのほとんどが男性)と仲良くなる事に長けていたと言うのか… 
 まさにそのお陰をもって、我が“長き華の独身栄光の時代”を謳歌出来たのであろう。

 時代そのものが変遷して、私も年齢を重ねた。  我が栄光の時代は当の昔に過ぎ去った事は自覚しているものの、何故生来的に「甘え上手」な私が「人に頼られる」身とならねばならぬのか、不可思議に思ったりもする今日この頃だ。

 そんな折に、冒頭の朝日新聞記事を見た。
 ここで、「甘えられる人がいるか?」の回答結果を発表するならば。  「はい」が56%、「いいえ」が44% との結果だ。  おおー、意外と「いいえ」も多いじゃないか!と身勝手に安堵しつつ、その詳細を記載しよう。

 「はい」と回答した人物のほとんどが誰に甘えているのかと言えば、「夫・妻」との結論だ! (おそらく回答者に高齢者が多いのだろう。)   私など「本気かよ!?」と言いたいところだし、これ、高齢者ご夫婦にとってはその後に「孤独」の危険性が燦然と待ち構えているのではなかろうかと、危惧感すら抱く。

 片や、「いいえ」と回答した人達の回答内容は多彩だ。
 「(甘える相手に)迷惑を掛けると思い、引いてしまう。」
 「気安い関係になれない。」
 「自立していたい。」 
 「借りはつくりたくない。」 
 「甘え方がわからない。」
 
 そんな「いいえ」の人々に尋ねた「本当は、誰かに甘えたいか?」なる質問の回答とは。
 「はい」が45%。  「いいえ」が55%。

 原左都子の私事及び私論でまとめよう。

 今回の朝日新聞の質問回答に関しては、一貫して「いいえ」と応えたい。  特に今現在の私は、上記「いいえ」回答内の、「(甘える相手に)迷惑を掛けると思い引いてしまう。」「自立していたい。」 「借りはつくりたくない。」 に同意する。
 「(人と)気安い関係になれない」に関しても、その思いも重々伝わる。 ただ私の場合は今置かれている自身の立場上、むしろ「(この人とは)気安い関係になってはならない」なる否定的感情が優先する場合が多いのかもしれない。 
 「甘え方がわからない」に関しては、むしろ「甘え方自体は分かっちゃいるが(この相手には)遠慮するべき」なる冷静さを優先するのは当然の事だろう。 

 それにしても、人と人との関係が何とも希薄化してしまった我が国の現状だ。 いや、それは国際レベルで同様だろう。
 これ程までに国際規模でテロが勃発する時代と化し、国内に於いてもストーカー殺害事件等々人と人が傷つけ合う事件が多発している現状下に置いて、他者に安易に甘えている場合ではない事も明らかだ。
 そんな逆境下に於いて、一番の身内である「夫・妻」こそが最高に甘えられる相手!?、と結論付けた朝日新聞記事の信憑性もあろうかと考えたいが、その生活範囲や思考の狭さに寂しさや“歪み”すら感じるのは私だけだろうか…。
 ただ、これぞ朝日新聞読者が高齢化している事実を証明したようなものとも言えるよなあ。

 (以上、本エッセイ集2017.02バックナンバーより一部を引用したもの。)

 

 いや実際、私に依存してくれる人間が近き周囲にいるとの事実は、恵まれた状況なのだろう。

 多少疲れていようがその対応に追われているうちに頭が回転し始め、身体も元気を取り戻すから不思議だ。

 ああーー。 一番鬱陶しいのは年賀状かな。 これを機会に極力差し出し人数を抑えて、いずれ年賀状廃止に持ち込む好機かもしれない。

 (と言いつつこのエッセイをわずか10分でまとめ、公開に持ち込む凄腕・素早さに我ながら感心する!) 


英語、英語と騒ぎ過ぎの気もするが…

2019年11月12日 | 教育・学校

 文科省大臣を筆頭に世間をも巻き込み、国家を挙げて「英語、英語」と大騒ぎしようが、英語ができる子(人)はできる、できない子(人)はできない。 と結論とは至って簡単なようにも思うのだが…

 

 これでは無責任過ぎる結論であろうため、本エッセイ集2012.09.24バックナンバー 「『英語』とはツールに過ぎない」の一部を以下に要約引用させて頂こう。

 私には、米国在住の実姉がいる。  30年程前に国際結婚で米国に渡り永住権を取得した後、かの地の某日本総領事館に通訳として勤務しつつ、「日本には何の未練も無い。私はこの国に骨を埋める!」と日本の家族に伝え続けている。

 姉は中学生の頃より、将来は「英語」分野に進むとの強靭な志望を抱いていた。  ところが何分過疎地のド田舎育ちのため、英語環境らしきものが周囲にほとんどない。 そんな逆境の中、我が姉は外国人神父氏がいるキリスト教会へ通い詰め自主的に英会話を学んだ。  そしてその後、姉は県内最高位進学校に進学を決めた後、第一志望だった某国立外国語大学に一発合格して更なる英語力を培っていく。

 時が経過して、姉がその大学を卒業後“フリーの通訳”となり日本国内で開催される国際競技大会やユニバーシアードレベルの通訳をこなしていたそんなある日の事だ。
 姉の日本人知人男性から厳しい指摘を受ける事と相成った。 ちょうどその席に居合わせた私は、その知人男性が言い放った言葉を今尚明瞭に記憶している。  「英語とはあくまでもツールに過ぎない。 ○子(姉のこと)がその英語力で将来一体何がしたいのか捉え処がない。 通常学問分野の専門力として英語を専攻した場合、その英語専門力をもってこそ自分の夢が描けたはずである。(例えば、国際会議レベルの同時通訳をしたい等々??) ところが○子の場合は未だにその夢の程が不明瞭だ。 単に外国に渡って生活をしたいレベルの英語力を欲していたのならば、それを学問として学ばなくとも事が足りたであろうに…。」
 この手厳しい指摘を聞いた私は、大いにガッテンしたものだ。 確かに姉の英語力の程(一応「英検1級」や「通訳検定」等の資格は取得しているが)とは、大学にて学問として「英語」を学んだ割には私の感想としても中途半端感が否めない有様だ。
 当時医学分野の民間企業で頑張っていた私だが、そんな私とて過去に学校で学んだ英語力を活かして仕事上医学英文論文を読むことなど日常茶飯事だった。 何も外国語大学を出ずとも、自分の専門分野ともなれば辞書を引きつつ論文を読むことに集中可能だ。  片や一旦外国語大学出身者ともなれば、学問としての「英語力」が社会から要求期待されるに決まっているではないか!   ただ我が姉が褒められるべきは、中学生の頃より長年自主的に培ってきている“英会話力”の程が、米国領事館での通訳力をはじめ米国での日常生活に於いて十分通用している事態である。 これはこと英語分野に於いては、私には真似の出来ない快挙と讃えるべきであろう。

  朝日新聞2012.11.21「英語をたどって」との連載記事の最終回記事内容と原左都子私論が一致するため、以下にその一部を要約して紹介しよう。
 日本人に英語力がない元凶に関して、「中高の教え方が悪い」と指摘する人が多い現実であろう。 さらには入試問題を考える大学も悪けりゃ、予備校も悪い。 いや、文科省こそが諸悪の根源だ。 TOEICを課す民間企業もバカなれば、英語教育産業とて同様の罪がある。 もっとも家庭の親どもが子どもに期待しすぎる。……
 そんなことを言っていてもきりがない。 
 東京大学某教授は、「日本人にとって英語はものすごく難しい言語である」と表明している。 文法、語順、発音、文字すべてにおいて日本語とはまったく異なる文化と背景を持つ言語であることを表明している。 しかも日本人にとって日常生活上英語はほとんど必要でもない現状だ。 にもかかわらず、何故これ程現在の日本の子ども達に英語を要求するのか?   日本の子ども達とて、読むのは好き、話すのなら任せて、書くのは得意。 そんなふうに、得意不得意があって当然だ。 日本語に於いてもそうなのに…。
 今回の連載では、主張したり議論したりする経験自体が日本人には不足しているのではないかとの取材をしてきた。
 英語教育をいくら勉強しても、そこに「言いたいこと」は書いていない。  言いたい事を言う力をまず鍛える。 日本語で出来ない事が英語で出来るはずはない。  (以上、朝日新聞記事より要約引用。)

 私論に入るが、まさに朝日新聞がおっしゃる通りだ。 
 日本国民皆が言いたい事を言える力こそを、まずは国政は鍛えるべく努力するべきである。 それを叶えた時点で、中高学校教育現場に於いて「英語コース」なるものを設けても遅くはなかろう。 (英語とは単に「ツールでしかない」ことを肝に銘じて欲しいものだ。)
 その上で大学に於ける学問としての「英語教育」に関しては、もっと専門力を上げる必然性があるのはもちろんの事だ。
 決して「英語」を大学(及び大学院)に於いて専門としていた訳ではないこの私など、今現在尚、数十年前に過疎地の中高で学んだ英語力のみで世界(とは言ってもまったく大したことはないが…)を渡ってきているぞ。
 年老いて英単語力が欠落している部分は「受験英単語集」を本棚から引っ張り出し紐解きつつ、結局は相手と話したい勢いのみで結構通じることを実感しながらのしがない英会話力範疇であるものの…

 (以上、「原左都子エッセイ集」2012年9月バックナンバーより一部を引用したもの。)

 

 最後に原左都子の結論を繰り返すが。

 上記バックナンバーにてすべての結論を述べているため、付け加えることもないのだが。

 まさに英語教育の中枢とは「中学英語」にあるのではないか?! との我が結論に揺るぎが無い。 要するに過去に於ける「読み書き」中心、「文法中心」英語教育こそが、その後の我が長き英語遍歴人生を支えてくれている感覚が今尚強靱だ。 これに加えて我が姉のごとく、主体的に英会話にも励めば尚よかったとのことだろう。 (今時は過去に比してそのチャンスはいくらでもあろう。 我が娘も中学高校にての6年間、英語のリスニング・スピーキング授業を通過し、高2時には「英検準2級」に合格している。)

 私は国内過疎県の出身者だ。 そこの中学校とてきちんと英語を教育可能な教員が存在したからこそ、その後高校・大学・大学院及び職業人と進んだ後も、読み書き英語に関しては何らの不都合もなかったものだ。

 中学英語を学習して50年の年月が流れた今尚、海外旅行へ出ても中学英語の学習力に頼り、発音は悪いものの現地の人々との簡単な英会話は何とかなっている。

 文科省が一体如何なる英語人材を育成したいのかに関しては、申し訳ないが既に娘が社会人として活躍している身にして私の知った事では無い。  ただ国民として、文科省としてのその英語政策の掴みどころがない事実こそが諸悪の根源だと思いませんか、皆さん?!? 

 “文科省と民間英語企業との癒着”や“下手な英語人材育成観点”より、今後の大学受験生や保護者及び大学現場等にこれ以上の混乱をもたらす事実こそを慎むべきなのは、私が言うまでも無い。