原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

世界の新型コロナワクチン政策は、振り出しに戻るのか??

2021年08月17日 | 医学・医療・介護
 本日先程見たネット情報を、以下に引用しよう。


 東京五輪関係者への感染で国内で初めて確認された新型コロナウイルス・ラムダ株の危険性に、海外メディアが強い警告を発した。
北中米のメディア「デーリーガーディアン」は現在、猛威を振るい〝最凶〟と恐れられるラムダ株に関する最新研究を特集。「南米諸国で蔓延しているラムダ株は感染力が強く、新型コロナウイルスワクチンによる保護効果を回避する可能性があることが示された」と指摘した。
「研究では、ペルー、アルゼンチン、エクアドル、チリなど少なくとも26か国でラムダ株による感染が広がり、ワクチン接種率が高いにもかかわらず感染が増加していることを示している。ラムダ株はワクチン接種による抗ウイルス免疫から逃れることができることを示している」と強調。現在世界で普及しているワクチンの効果はほぼ無効化されることが確実となり、このまま日本でもラムダ株が広がれば、一気に感染大爆発を誘引するというわけだ。
現在はデルタ株によって感染が深刻化している日本。報道通りの威力でラムダ株が拡大すれば、計り知れない危機的状況を迎えることになりそうだ。

 (以上、今朝見たネット情報より引用したもの。)


 上記のネット情報以外にも。

 コロナワクチン接種を2度受けた60代(?)男性が、その後新型コロナに感染し死に至った、との報道も今朝目にした。

 我が家に話題を変えると、昨日2度目のコロナワクチン接種をしてきた我が亭主が言うには。  
 「担当医師曰く、ワクチン接種を2度受けてもコロナに感染する危険性はあるので、今後共十分に留意して下さい。」😨 



 原左都子の私見に入ろう。
 
 これ要するに、現在全世界で接種中の各社のコロナワクチンの「有効性」の程を今一度議論し直すべき、との事だろう。
 “ラムダ株”が世界規模で猛威を振るおうとしている今、果たして現在普及している新型コロナウィルスワクチンの「有効性」が実際どれ程のものなのか? の議論が置き去りにされたままに、国や自治体は国民に接種を煽ることにしか脳が無い有様だ。
 
 研究開発が開始して既に数十年の年月が経過しているインフルエンザウィルスですら、今尚その「有効性」が60%程度と見聞する。

 現在接種中の新型コロナウィルスワクチンとて、それ相応の年月に及び研究開発され続けてこそ、真なる「有効性」の程が明らかになるのであって。
 昨日今日開発して世に出回っている新型コロナウィルスの「有効性」が高い訳もないと、私など最初から疑ってかかっている。

 ワクチンの「安全性」に関しても然り。
 この研究もなおざりにされたまま、コロナワクチン接種が独り歩きしてしまっている観が強い。


 とにかく、国民の皆さん。
 コロナワクチン接種は、我が国ではあくまでも「任意接種」体制が採用されている事実に鑑み。
 どうか個々人がご自身の意思でその接種の是非を選択・決定されて。

 たとえ接種が2度終了したとはいえども、その現状に“糠喜び”せずに。
 あくまでも新型コロナ感染の脅威を軽んじることなく、今度共ご自身の健康はご自身で守り抜きましょう!


私も実姉と絶縁して24年の年月が流れている…

2021年08月16日 | 人間関係
 今朝先程、以下のネット情報が目についた。
 早速、一部を引用しよう。


 評論家の古市憲寿氏が15日放送の『ワイドナショー』(フジテレビ系)に出演し、妹と20年間会話がないことを告白した。
 番組ではきょうだい間での物の取り合いが話題に。3人きょうだいで妹が2人いるという古市氏は、司会の東野幸治から「妹さんはテレビでの活躍を応援してくれたりとかは?」と聞かれると、「下の妹とは20年ぐらいしゃべってないんですよね」と明かした。
 古市氏はさらに、「たまに実家に帰るなどして同じ場所にいることがあっても、直接はしゃべらなくて、『お兄ちゃんに言っといて』みたいな感じで誰かを介してしかしゃべらない。何かのきっかけで、もうしゃべらないのが定着してしまって」と語った。

 (以上、ネット情報の一部を引用したもの。)


 この事例の場合、どうやら妹さんと絶縁したわけではなく、“しゃべっていない”との事のようだ。 その理由は全く不明であるが。
 ただ、この文章を読む限り、妹さんと会話が無い事実がさほど深刻ではないようにも受けとれる。



 さて、原左都子の私事に入らせていただこう。

 私が米国暮らしが40年近くなる実姉と縁を切ったのは、24年前の事である。 (バックナンバーにても複数回述べているため、ご存じの読者の方々もおられるであろう。)

 元々、仲が良くない姉妹だった。
 何というのか、姉が生来的に人とコミュニケーションを取りにくい人間であり、幼い頃から姉との接触が少なかったように振り返る。
 幼さが幸いして、特段姉と付き合わずとて他の家族や近隣の友達と仲良くすればそれで済むため、妹側の私としては何ら不都合は無かった。

 参考だが姉と私は1歳7か月しか年齢が離れていない。
 小学生中学年になった頃、姉が私に告げる。「何故あなたは、姉を無視してよその子とばかり遊んでいるんだ! 姉をもっと大事にしろ!」

 意外性のある訴えだったと私は把握したが、姉の怒りは収まらず、その後妹に対するいじめが本格的に始まった。
 同じ布団で寝かされた時期があるが、布団内で妹の私に対し毎晩殴る蹴るの暴力を繰り返す。 それを親に訴えて、「布団を別々にして欲しい」と要望したのだが、真剣に受け止めてもらえず…

 それが実現したのは、小学校高学年になった頃だったろうか。
 その後も姉の暴力は過激となるのに加えて。
 二人が中学生になった頃から、姉は私宛の郵便物をすべて先に開いて「こいつは誰だ?! 姉を放っておいて、何でこんな奴と付き合っている!??」
 あるいは、当時私が「小説」や「詩」を書いたりしていたのだが、(どうせ姉に読まれると思った私が隠してあるのを)見つけ出した姉が「こんなもの書く奴は不良だ!」 等々、とにかく妹の私に対する嫉妬心(?)の程が壮絶だった。

 高校生になった姉は祖父母の家で暮らすと言い、父母と暮らす選択をした私と別々になった。
 実は姉に手を焼いていた両親も、姉が祖父母の家で暮らすことを内心喜んでいたのを私は知っている。
 それでも高校生時代に2人共国鉄(現在のJR)通学をしていた関係で、列車の中で合ったりする。 いつも友人と一緒の私のところへ姉が来ては、「あんたは姉より友達が大事なのか!」こればかりを繰り返した。 友達が「〇ちゃん(私の事)のお姉さん、怖い…」といつも怖がっていた。

 そんな姉が大阪の大学へ進学して、私は胸をなでおろしていたのだが…  
 「どうしても大阪へ来い!」と姉が私に命令する。 両親も共働きだったが故に「そうしてもらえると助かる」と私に告げる。
 やむを得ず何度か大阪へ私一人で行ったのだが、行く都度更に“異常さ”を増している姉の態度が恐ろしくもあった。
 
 実は姉はミスコン出場の常連で、ミス・インターナショナル地元代表のタイトルを取得していた。
 (それがあだとなったと私は思うのだが)、更に性格が歪んだままに大人になり、30歳過ぎてから1度目の結婚をしたものの短期間で破綻・離縁し。 その後、離再婚を4度繰り返し。 
 2度目の結婚相手が米国人であり、その時米国へ渡る際に、「二度と日本の地を踏むものか、私は米国に骨を埋める!」宣言をした時に。 私と母は(これで疫病神から離れられる)、とどれ程喜んだことか。

 私が娘を高齢出産した際に、米国の姉から電話があった。
 超難産で体調絶不調だった私相手に、姉が一体何を言ってきたのかを暴露すると、「先に産みやがって! 姉の私がどれだけ辛いかわかるか!!」だった。

 更に年月が流れ、我が娘が2歳時に私は頭部皮膚癌を患った。
 その手術入院が明日に迫った夜、偶然だが米国の姉から電話があった。その事実をつゆ知らない姉が一体何の用かと思いきや、「3度目の亭主と上手くいっていない。あちらが分かれたいと言うのだが、どうすればいいか?」とのいつもの内容の電話だった。
 それに私が応えて、「申し訳ないけど、私は癌を患っていて明日その手術入院のため今多忙で…」と言いかけたところ、姉が言うには「今は癌は治る時代だ、そんなことよりも私の方がずっと辛いから、とにかく話を聞け!」
 少し聞いてやりながら我が脳裏には、(これは絶縁しかない…)との思いがよぎった。

 更に年月が流れ、娘が4歳時に私が一人で家にいる時間帯に姉から電話があり、用件が何だったか忘却しているが、いつものように私に無理難題をふきかけてきた。

 その時には、私の心は決まっていた。
 「もう縁を切りましょう。 私は今は一児の母であり、今となっては遠方に住む姉のあなたよりも娘や家族がずっと大事なのよ。 私の方は、姉の貴方が高校生の時に祖父母と暮らすと言ったあの時から、貴方の事を姉でも何でもないと思って生きて来ている。 申し訳ないけど、私の人生に貴方は何ら必要ないのよ。 金輪際の付き合いを終焉します。」

 これに姉が何と答えたのか、記憶にないが。 
 この我が大宣言が姉にもこたえたのか、あれから連絡が途切れている。
 (通信網の大進化で、着信拒否等々の技術が劇的に進歩した恩恵も大きいのだろうが。)


 本気の絶縁とは、壮絶なものだ。
 謝罪して許されるなどとの、生易しいものでは決してない。
 それは、血縁家族とて同様だ。
 

左都子の「自然科学概論」 小講座 ⅩⅢ

2021年08月15日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、原左都子2度目の大学にて受講したA先生による「自然科学概論」授業の講義ノートを転載したもの。



 今回から、講義内容が「科学革命」時代へと突入する。

                                   
 「科学革命」は、2世紀以上の長い期間に渡って徐々に起こった。
 revolution  とは、本来は“命が改まる、 元に戻る、 という意味。
 ここでは、本質的に違う状態が生じた、という意味でこの言葉を使っている。
 
 それまでは、大学以外の場所で学問が行われることはなかった。
 「大学」とは、支配的階級と結びつけた制度だった。

 その後、大学の外で研究がなされるようになった。
 近代の科学は多様である。 中世は、アリストテレス的だったが。
 
 ここに、プラトンが入ってくる。 → プラトン主義 Platonism
   それは、近代の自然観とは全く異質な数学的科学。
 プラトンは、自然とは似せて作られたもの、コピーである。(この言い方には問題があるが) イデアに関心を向けなければならないと説いた。
 
 近代の科学では、厳密な数学を求めていくこととなる。

 原子論は近代科学のひとつの特徴であるが、プラトンはこれを目の敵にした。

 実用性の追求もテーマとなった。
 『ヘルメス文書』 16C  は、古いものが優れているとの考えの中で、1or2世紀に書かれたものを重要視した。
 “魂の救済”  我々はたまたまこの世界にいる。
       本来、何者であるかを認識しなければいけない。
 フランシスコ・ベーコン は『自然的魔術』 natural magic に於いて、科学は力である、とした。



           
 
 近代科学の背景

  ルネサンスと科学革命との関係
  ルネサンスの美術は自然主義 naturalism を掲げ、自然的事物を忠実に写  し取ることを主題とした。
  これに対し、中世では象徴がテーマとなり、自然的物事を忠実に写し取るとの姿勢は見られなかった。
  絵に対する思想は、抑制されていた。
 
 プラトンは、絵は世界のコピーであるがゆえに二重のコピーであり、これを眺めることは無意味とした。
 絵を描くこと、すなわち、手作業を軽蔑的に見ていた。
 このプラトンの考え方は時代の流れに逆らっていている、と捉えられた。

 アリストテレスは、以下のように説いた。
  ● ポイエーシス : 何かを作り出す活動、制作、テクネー
   (テクネーとは、Ars  体を使って何かを作り出す仕事全般のことであり、「テクネーはビュシス 自然 を模倣する。 機械学もテクネーのひとつ。 これは、動力学的考察中心。 アリストテレスの言うビュシスとは、自ら動くもの との意味。)
  ● テオーリア  : セオリー、理論的活動 
  ● プラクティス : 行為  政治学など

 アルキメデスは静力学を主張し、つりあい、バランスが問題とした。
 絵とは静的なものであり、ピュシスの模倣にはならない、とした。
 
 アリストテレスの興味は『詩学』ポイエーシス、ドラマにあった。

 これに対し、人間の活き活きした動きを模倣するのがテクネー。



 
 最後に原左都子のお詫びになるが。

 A先生ご自身はもちろんの事、素晴らしい授業を展開して下さっている事実には間違いないのだが。
 
 原左都子による、より深部に入った考察がすっかり抜け去っているが故に。
 事象の時代背景が交錯していて、分かりにくい概論となってしまったことをお詫びします。

 今回の概論をきちんと紐解くにあたり私自身が大いに力量不足であることを、重々認識できております。      


 P.S.
 途中、文字の大きさが大小入り乱れている点をお詫びします。 
 これは決して原左都子の意図ではなく、単にgoo編集画面上のトラブルです。   
 何分キーボード高速打ちのためこのトラブルが頻発してしまいますことを、  どうかご承知おき下さいますように。                  


今年の夏はこのコロナ禍下で徳島の“阿波踊り”が開催されているらしい

2021年08月14日 | その他オピニオン
 (冒頭写真は、原左都子還暦頃に徳島・阿波踊り会館にて観客の立場で阿波踊りを踊り、表彰された時の写真。)


 私は物心ついた頃から、郷里の盆踊りである「阿波踊り」を好んでいた。
 あの大太鼓や鐘のお囃子のリズム感が、我が幼き体感にズシン・ズシンと響き渡り、内面に訴えてくるものがあった。

 いつかは夏本番の阿波踊り桟敷席に踊って繰り出して行きたいものだと志していたところ。

 高校生時代に、そのチャンスがやって来た。
 実母の勤務先であった県庁・土木事務所が道路公団と「本四架橋」工事計画にからんでいた関係で、娘の私に「本四架橋かけよう(架橋)連」(参考ですが、阿波踊りでは阿波踊りのグループのことを「連」と言います。)にて是非踊って欲しいとのオファーが、母を通して来たのだ。😃 

 それを引き受けて、早速踊りの練習が始まった。
 高校が夏休みに入って後に有名連のプロから踊りの基本から学び、皆が集合して全体練習を繰り返した。
 皆さんはご存じないだろうが、阿波踊りとは実に“難しい”踊りだ。 腰の落とし方や前傾姿勢の保ち方、それから手の位置や指使い、足の挙げ方・運び方等々、特に女踊りの場合は体力と共に実に繊細な動きを要求される。……  
 まあとにかく「かけよう連」の場合はあくまでも素人連のため、有名連に比して下手でも許されるのだが、それでも少しでも全体像が揃って美しく見えるべく皆で努力したものだ。
 参考だが、私は長身のため女子の最前列で踊ることになった。 (阿波踊りは連の全体像も美しく見えるべく、そのような配置にもこだわりがある。)

 本番では、鳴門市と徳島市の桟敷席で踊ることになったのだが。

 鳴門の桟敷席は観客が少ないのに加えてそれほど規模が大きくなく距離も短いため、さほど緊張も疲労もせずして本番を終えた。

 
 これが徳島市の阿波踊り本番ともなると、全国から押し寄せた観客と踊り子で街中がごった返している。 
 桟敷席も鳴門の2倍以上の広さと距離、そして4,5倍(もっとか?!?)の観客数だっただろうか??  会場は、溢れんばかりの観客で満員御礼状態だ。
 緊張しつつ桟敷席へ繰り出して行ったものの、困ったことに途中から挙げた腕が既に筋肉痛状態だ。 これ出口まで腕を上げ続けられるのか?!?
 その闘いとなったが、何とか痛みを堪えて出口に辿り着いた。
 カラカラに乾いた喉と重労働で疲れ果てた身体で何とか出口を出てみると、そこには職員の方々が待っていて下さり、飲み物を進めてくれる。
 (この話はどうか時効とのことでお許しいただければ幸いだが)、私は身長が高く日頃から十分に大人に間違われていたのだが、ビールを手渡されてそれをごくごくと飲み干した。 とにかく喉がカラカラ状態で水分補給をしたかった。 そうしたら、男性が「おっ、いける口だね!」と言いつつもう一杯お替りをくれた。
 それもほぼ一気飲みをして気が付いた。 子供の頃から大人が飲んでいた赤玉スイートワインが好きで、がぶ飲みしてへいっちゃらな子供だったことに。😜 
 ビールに話を戻すと、別に何ら酔っぱらうでもなくもっと水分補給したい程だったが、さすがに高校生の立場で自粛した。


 いやはや、実に爽快な夏の思い出だ。
 あれが我が本場阿波踊り経験の最初で最後である。



 朝日新聞2021.08.12付記事「阿波踊り 悩みながら復活」をの一部を以下に引用しよう。

 新型コロナウィルスの影響で昨夏、戦後初めて中止となった阿波踊りが8月12日から2年ぶりに開かれる。 主催の徳島市は「伝統の継承」を掲げ、開催に踏みっ切った。 ただ、踊り手や観客は徳島県内在住者に限定し、日程も短縮するなど苦肉の策を講じての「復活」となる。 (中略)
 例年の夏ならば、阿波踊り独特の二拍子のリズム「ぞめき」が響き多くの人が行きかう街も、昨夏は静まり返った。 観光や宿泊業など県内経済も大きな打撃を受けた。
 新型コロナの収束が見通せないなか、阿波踊り実行委員会は2年連続の中止は避けようと動き出した。 (中略)
 そして、安心・安全な環境構築が最優先として、従来より規模を縮小した開催を明らかにした。

 (以下略すが、朝日新聞より一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の私見でまとめよう。

 とにかく音楽好き・ダンス好きの私としては、もちろん「阿波踊り」も大好きだ。
 それが理由で郷里へ出かける用がある都度、冒頭写真の「阿波踊り会館」へ足を運び、舞台で踊る始末だが…

 徳島の阿波踊り実行委員会の言うところの「安心・安全な環境構築」が満たされた上での今夏の阿波踊り開催だったのか否か、に関しては。
 明日の最終日以降に、その結果が出るものと予想する。
 
 厳しい言い分を許して欲しいが。
 おそらく少数派の意見だったと思しき 2021夏の「阿波踊り」開催が成功だったか否かに関しては。
 
 明日「それが終了して後に発表される、徳島県内の“コロナ感染者情報”」に左右されるとの事ではあるまいか。


心がへこむこんな日には酒の写真でも見よう! ー コロナ禍バージョン ー

2021年08月13日 | 
 (冒頭写真は、コロナ禍直前期に郷里を訪れた際に楽しんだ「阿波懐石」より焼き物セットを撮影したもの。)


 この酒好きの原左都子が外部の酒処を訪れたのは、2020.01に上記写真の郷里の阿波懐石料理店に立ち寄ったのが最後だ。 

 この旅行以降、諸外国はおろか国内旅行も一切自粛して既に1年7か月の月日が流れている。



 コロナ禍以前には旅行中の酒三昧は元より、普段の日も一人かあるいは娘を誘(いざな)って、私は頻繁に酒処を訪れたものだ。


 それらの写真を、順不同で以下に掲載させていただこう。

          
 この日本酒は、冒頭写真の阿波懐石料理店にて2本目に注文した冷酒。
 まさに、“明快辛口”でした!


          

          
 これらは、おそらく2020年の外部飲み処での我が家の新年会と、下の写真は何処だろう?

          
 これは、どこかのファミレスだなあ。 ファミレスも今の時代酒が充実していて十分に飲み処として使える。


          

          


          
 上記3枚は、いつだっただろうか? おそらく2019冬頃に娘と二人でクラシックバレエ公演を鑑賞した後に立ち寄った、回転寿司店にて。

          
 こちらは、皆さんおなじみの「サイゼリア」。酒はいつも“デカンタ白500㎖と決めていて、それのお替りはロゼ300㎖だったなあ。 もちろん、一人で短時間で完飲! このエスカルゴが安価なのに十分美味です。

          

          

          
 ここは、家族で義母の高齢者施設を訪ねた後でいつも立ち寄っていた寿司屋。 高齢者施設もコロナ禍以降はずっと家族も立ち入り許可制を貫いていて、帰り道に飲み屋どころではない。


          
 近くの映画館で一人で映画を見た後は必ずやこの居酒屋へ立ち寄り、“菊水の辛口”をいつも2本お替りしていたなあ。


          


          

          

          
 義母の高齢者施設へ一人で訪れた帰り道には、必ずこちらの回転寿司屋に立ち寄り一人酒を楽しんだものだ。
 コロナ禍でここへ行かなくなって、これまた1年半が経過している。


 
 この酒好きの原左都子にして、よくぞまあ、家酒オンリーで1年半も暮らしてきているものだ。
 外部飲み処での“ひとり酒”がすっかり板について、一人飲む姿が様になっていたのに…


 後どれ程の年月が流れたら、正統派のん兵衛の原左都子にして再び外部飲み処での“ひとり酒”が堪能できるのだろう???😰