原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「絶対悲観主義」という脱力のススメ

2022年12月03日 | 自己実現
 (冒頭写真は、朝日新聞本日2022.12.03付「書評」ページより  楠木建著「絶対悲観主義」を転載したもの。)



 本日のエッセイは、朝日新聞「書評」ページより冒頭写真の著書「絶対悲観主義」に対する臨床心理士・東畑開人氏による書評「ダラダラ生きて心を自由に」を引用しよう。

 絶対悲観主義。 世の無常を悟った仏教運動家の本かと思いきや、なんと著者は高名な経営学者。 絶対悲観主義を、「自分の思い通りにうまくいくことなんて、この世にひとつもない」という前提で仕事をするための「緩い哲学」と説明する。
 これは古代ローマで流行ったストア哲学の亜種だ。自分でコントロールできることについては頑張るけど、コントロール圏外にあるものについては諦める。 そう自他の区別をつけることで、せめて心の中の自由を得ていこうとする思想だ。 
 これが現代のビジネス界隈で流行っているのである。 というのも、現代のビジネス環境と古代ローマは結構似ているからだ。 資本主義もローマ帝国もあまりに巨大だから、個人の力ではどうこうしようがない。 円安も蛮族もコントロールできない。 だったら世界に期待するのは諦めて、粛々と個人をいきようというストイック(ストア学派が語源だ)な結論になる。 (中略)
 冒頭こそ絶対悲観主義的な仕事の心構えが解かれているが、後半に至るにつれて著者の私生活を貫く偏屈おやじ的人間観察と美学が存分に発揮されるようになる。 (中略)
 絶対悲観主義というと仰々しいが、これは脱力のススメだ。 気張らず、ダラダラと生きる。 思えば、これこそが心の自由であり、ストア哲学の賢人たちも本当はそんな感じだったのかもしれない。 愛すべき経営学者は身をもって、脱力した生き方を示し、張り詰めている私たちを癒してくれるのである。

 (以上、朝日新聞「書評」ページより一部を引用したもの。)



 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 この私の現役職業人時代など、いつも“張り詰めて”いたような記憶がある。
 特に医学関係企業内にて20代後半の若さで職場長に任命された時は、本気でその職場を自分“だけ”が背負って生きねばならないがごとくの、(今思えば)勘違いの「責任感」を通り越した「使命感」にがんじがらめになっていた感を今となっては抱く。

 まあ若気の至りの時期であり、それもやむを得なかったであろうし。
 逆に、職場長の立場で“いい加減な心構え”で職務に当たったよりは、マシな結果を出せたのだろうとの好評価もできるであろうか??


 その後 時を経て、30代半ばで突如として高校教諭に任命された時は。
 職種が異なれど、職業人として既にある程度の経験を積んできていた身として心に余裕があったものだ。 たとえ全く異種業界であろうが、何ら気負うこともなく我が過去の職業経験を活かしつつ業務に当たれたものだ。
 それが効を奏したのか、私は生徒間で人気の教員としてずっと教育界を渡っていくことが叶い、高校現場においては教師として有意義で楽しい思い出しか残っていない。


 そんな身で、上記の「絶対悲観主義」を考察するならば。

 「著者の私生活を貫く偏屈おやじ的人間観察と美学が存分に発揮されるようになる」 との記述があるが。
 この原左都子にも、“偏屈おやじ的”な要素が備わっている事実に気付かされる。 (当該エッセイ集をいつもお読み下さっている方々でしたら、“なるほど! 原左都子の論評を読むと、確かに“偏屈おやじ的”要素が見え隠れしてるなあ。なる感想を抱かれるかもしれないが…)😖 😷 


 ただ、この著者と原左都子が決定的に異なるのは、「脱力のススメ」やら、「ダラダラと生きる」方向は、いつの時代も一切目指していない点であろう。

 そんな私は一生涯に渡り、「張り詰めている方々」を癒せる能力も備わっていないということだろう…
 (悩める高校生たちの気持に寄り添って癒すのは得意技だったけどね!?!?)😁 


 最後に参考だが冒頭の写真内に記載されている通り、版元によると(この本を読んだ)読者からは「笑いながら学べる」「ほっとする」という感想が来たという。
 

“痛み”とは身体に発生した「異常」を知らせるシグナルの一つと捉えるが…

2022年12月01日 | 医学・医療・介護
 本エッセイ集 2022.11.10付バックナンバー「現代医療に於ける“リハビリ”が果たす役割の大きさ」と題するエッセイに於いて、私は以下の文章を綴り公開している。
 再掲載させていただこう。


 (私が現在お世話になっている)病院・整形外科患者の退院判断は、リハビリ担当者がその権限を握っているとの事で。 その担当者のA氏より「退院OK」のお墨付きを頂戴し、私は退院の権利を得て。
 晴れて、“自由の身”を手中にしたとの訳である。

 それにしても、確かに理学療法士による「リハビリ」との施術が進展して以降、整形外科分野での医療の在り方が180度変化進展した感を抱かされる。
 “患者をある程度まで自立させて後に世に戻す。”
 この思考・方針は、今後も医療に於ける中心理念として息づいていくことだろう。

 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)



 今週の月曜日にも当該病院のリハビリ科にて、理学療法士氏より退院後4度目のリハビリのお世話になったのだが。

 退院後はいつも異なる理学療法士が、私のリハビリを担当して下さっている。
 
 今週月曜日の担当者氏は、女性だった。
 いつものように、怪我の状態や日々の暮らし方等々リハビリに役立つ会話の雑談をしつつのリハビリが展開した。
 それに関しては、何ら問題は無いのだが。
 その回の担当者が、少し“手荒い”ことを感じ始めたのは、リハビリが開始して10分後頃の事だっただろうか?

 私の膝に対する措置に比較的強い痛みを感じるため、それを正直に言葉で表現すると。
 担当者氏がおっしゃるには、「手術後1か月が経過しようとしているこの時期に、この措置に耐えられ得ないとすると問題がある…」 そのようなニュアンスの返答をし始めた。
 そう言われてみても私としては痛いものは痛いため、少しお手柔らかにお願いしたいものだが…
 その後も措置中の痛みが続き、私はリハビリによる痛みを抱えたまま自宅に帰るはめとなった。

 帰宅後もやはりリハビリ(打撃)を受けた膝が痛むものの、その日はその痛みを我慢して過ごした。


 その後3日が経過した現在の膝の痛みは、平常レベルに戻っているのだが。

 
 今の私は、正直言って当該病院のリハビリ施行に対し違和感を感じてしまっている。

 元々医学部出身で医学関係者の私だが、そもそも “痛み”に関する我が考えは表題に掲げた通りだ。
 繰り返すならば、“痛み”とは身体に発生した「異常」を知らせるシグナルの一つ”。

 そうであるからこそ身体に“痛み”が発生した時には、とりあえずの措置としてその“痛みを抑える”べく行動に出るのが常識であろう。
 
 ところが、現在通院中の病院で行われているリハビリとは。
 「痛みを我慢してでも、(例えば)早く膝を90度曲げられるようにならねば、通常世界で暮らしていけない! “痛い!”と言っていないで、鎮痛剤を飲んででも痛みを麻痺させて、膝曲げのリハビリに耐え抜くべき!!」
 要するに、そういうことなのであろう。

 その気持ちが分からなくもない。
 実際問題 現役世代の人々は、退院後すぐに現役職場に戻らねばならないであろう。 その身で、「私は膝が90度曲げられませんから、この仕事はスルーさせて下さい」という訳には行かないのはこの私も重々承知だ。

 ところが私自身に関して言うならば、既に現役を引退している身だ。 もちろん、それでも日常生活上、膝が90度曲がった方が利便性が高いに決まっている。 それはそうなのだが…

 
 とにかく、元々“医学措置慎重派”の私だ。

 「痛み止め薬を飲んで痛みを和らげてでも、リハビリにて膝が早急に90度曲がるように努力せよ!」との指導には、どうしても従う気にはなれない。

 これを次回リハビリ科へ行った際に、担当者に伝えるかどうかなのだが。

 そんなこんなを考えていると、病院通いが嫌になるというものでもあるが。😫 
 
 次回の通院日は11日先のため、それまでに我が解答を出そうと考えている。