原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

高学歴親皆が「教育ジレンマ」に陥っている訳ではない!

2023年01月24日 | 人間関係
 (冒頭写真は、最近の朝日新聞広告欄より転載したもの。)


 “iPS細胞”研究開発者でノーベル賞受賞者である山中伸弥氏も、ひょんなところで顔を出すようだが。

 それは置いておいて。



 「高学歴親という病」ねえ。

 我が家の場合も、娘の両親である私と亭主共々その分類に入るのであろう。
 我が娘にとって父である我が亭主の学歴は、大学物理学科博士課程まで修了した「理学博士」取得者。
 この原左都子も大学医学部卒に加え。 30歳時点で入学した公立大学にて再び学び、大学院進学・修了後「経営法学修士」も取得している。


 そんな我が夫婦が晩婚にて産んだ娘の“お抱え家庭教師”として、母であるこの私が娘大学卒業まで導いてきた。
 参考だが、我が亭主は娘の教育に関しては私と共に共同スポンサーではあったものの、娘に対する実際面での教育には一切合切かかわっていない。 すべてを、母である私に一任してもらったと言って正解だろう。



 で、何ですって??

 この本は、その種の親どもをひっくるめて「高学歴親」と呼び、その皆が「病」だと言いたいのだろうか???


 ちょっと待って、勘弁してよ!! だ!

 我が家の場合は、そんな「病」に陥っている場合で無い程に、切羽詰まっていた!

 晩婚高齢・超難産出産でこの世に産まれ出た娘が、運悪く“仮死産”。
 その後2歳を過ぎた頃、案の定 専門医より「発達の遅れ」を指摘され。

 とりあえず、専門筋に娘の相談や指導を一時お世話になったものの。
 娘の持つ事情や現状を一番把握している母の私が、医学関係者・教育者であった事実が活きて。 
 この私が一手に一心に我が娘の指導・教育を遂行して来た。



 そんな身にして勘弁して欲しいのは、決して我が子に対して教育熱心な親が皆 「高学歴親という病」にかかっている訳ではない、との事実だ。

 お陰で我が娘はその後まっとうに大学まで卒業し、現在はIT技術者として活躍している。



 当該本を全く読まずして反論を展開した点はお詫びする。

 我が家の場合も、両親共々れっきとした「高学歴親」ではあるが。

 冒頭写真内に書かれているような、
 「オレオレ詐欺にだまされ」たり、「金銭感覚がズレて」いたり、決して「『間違った早期教育』」に走ったわけではなく。
  ああ、「習い事」ね。 これは娘の適性を見てやらせたなあ。 お陰で未だに音楽やバレエ、美術鑑賞好きな大人になってくれている。

 「子供には成功談よりも失敗談を語る」?? 
 そんな暇も無い程に、とにかく娘の独り立ちを一心に願いつつ “サリバン母”の私は娘と二人三脚で誠心誠意歩んで来た。


 今現在尚、年齢は離れているものの、仲良し母娘である事実が何より嬉しいと思える今日この頃だ。
 

某大手国内ウィッグ企業よりの久々のセールス電話

2023年01月22日 | 自己実現
 (冒頭写真は、goo編集画面にて見つけた、2015.10時点の原左都子の写真。 この写真など、ウィッグを着用しているのが素人目にも分かり易いであろう。)



 本日つい先程、別のテーマにてエッセイを執筆せんとしたところ。

 我がスマホ電話が鳴る。
 画面を開くと、数年前までお世話になっていた国内某大手ウィッグ企業からだった。
 すぐにセールス電話だと分かったが、無視しても何度もかけてくるのが目に見えるため電話に出ることとした。

 電話口で女性担当者氏曰く、「ご無沙汰しております。以前は大変ごひいきにしていただきありがとうございました。 その後、ウィッグのご使用の程はいかがでしょうか?」

 すかさず私が応えて、「もう数年前より、別社の製品を購入して使用しています。 ウィッグも時代と共に随分と進化を遂げていて、私が現在使用しているウィッグは安価であるにもかかわらず、過去に貴社にて作っていただいたオーダーウィッグより品質もずっと高く、十分に満足しております。 今後も現在使用中のメーカー製品を愛用する予定でおります。」

 当然ながら、大手ウィッグ企業の担当者より反論が出る。 「弊社製品も現在では発展を遂げておりますので、どうか今一度お試しいただけないでしょうか?」
 
 更に私が応えて、「貴社製品を巷の広告等々で拝見する機会がありますが、私に言わせていただきますと、やはり概して価格が高額です。 私も今現在は年金生活者ですし、私としましては現在使用中の(大手企業製ではない)ウィッグを今後共愛用したく考えております。」
 
 かなり明瞭にその旨告げると、「また貴社製品をご愛用いただける機会がございましたら、よろしくお願いします」…
 ナンタラカンタラと告げて、比較的簡単に電話は切れた。


 
 私め原左都子が、ウィッグ愛用者(と言うよりもウィッグ無くして生きていけない人種)であることを、本エッセイ集愛読者の方々は十分にご存じであろう。

 そのきっかけとは、私が40歳時に“頭部皮膚癌”を患ったことに遡る。

 まさに頭頂部やや左寄りの位置に発症した皮膚癌であったが。
 その摘出及び我が脚からの植皮手術に関しては順調に事が運び、抗がん剤治療の後退院後ずっと、この通り元気にこの世を生き延びている。

 癌の置き土産だった我が頭頂部の傷跡カバーのために、当初その傷が全治するまでの半年程はずっと帽子着用にて対応してきたが。
 傷跡が完治して以降はウィッグのお世話になることとして、その後20数年年月が流れている。

 
 本エッセイ集バックナンバーにても幾度か公開したが。
 当初、そのウィッグを某大手国内ウィッグ企業(本日電話を寄越した企業)に全面的に依存することとしたのだが。
 そのウィッグ制作総額が、なんと! 数百万円にも上り…

 まさに、年金生活に至った時点で、私なりの“ウィッグ大改革”を遂行し。

 今現在は、安価にもかかわらず品質のよりウィッグに巡り会えて、その製品のお世話になっている。


 そのようないきさつがあり、今となっては 過去に数百万円の出費を煽られた国内某大手ウィッグ企業とは完全に縁を切りたい、と欲するのは自然の理であろう。

 実際今の時代、世のウィッグ改革の程が凄まじいまでに進化している様子だが。

 国内某大手ウィッグ企業も、いつまでも高額のウィッグを電話セールスとの安直な手段で展開するのは、もうそろそろ終わりにしては如何でしょう??


新名称「東京科学大学」、いくら何でも 安直過ぎ の感を私も抱く

2023年01月21日 | 教育・学校
 冒頭から、朝日新聞2023.01.19付記事「新名称『東京科学大学』東工大・医科歯科大 統合」の一部を以下に引用しよう。

 
 2024年度中に一つの大学に統合すると発表している、いずれも国立の東京医科歯科大学と東京工業大学が新大学の名称を「東京科学大」とする方針を固めたことが19日、関係者の取材で分かった。
 両大学は昨年10月に統合を発表した。 大学名が統合の目的や、目指す組織文化に沿っているかを両大学で検討し、決定した。 略称は「科学大」とするという。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より引用したもの。)



 引き続き、ネット情報より同様の報道を引用しよう。

 新名称・東京科学大学が物議、偏差値低下の懸念?

 東京工業大学のHPより
「さっそく会社で『東京科学大学出身の〇〇くん』ってバカにされましたよ」(東京工業大学OB) 

 19日、2024年度の統合を予定している国立の東京工業大学と東京医科歯科大学が新大学の名称を「東京科学大学」にすると「NHK NEWS WEB」などで報じられた。 このネーミングをめぐって、SNS上では偏差値が低い大学を指す「Fランク大学」のイメージが強いとして、「圧倒的Fラン感」「ダサい」「紛らわしい」などの声が続出するなど物議を醸している。
 両大学はともに長い歴史を持つ名門の難関国立大学として知られている。河合塾が発表している2023年度入試難易予想一覧表によれば、2次試験の偏差値は東工大の工学院は65、東京医科歯科大の医学部は70となっており、東京大学の理科一類が67.5であることからも、なかりの「狭き門」であることが理解できる。
 医系、理工系の単科大学としては日本トップの両大学は22年10月に統合で合意したが、その目的の一つが、国からの「国際卓越研究大学」の認定取得だ。認定されると年間で数百億円の支援を受けられるため、研究活動や設備拡充が進む可能性がある。 (中略)
 東京医科歯科大も国公立大学医学部のなかでは東大・京大に次ぐ難易度を誇るが、そんな両大学の統合後の新名称が「東京科学大学」となる方針であることがわかり、SNS上では反応が寄せられている。

 (以下略すが、以上ネット情報より引用したもの。)




 私見に入ろう。

 この私も、両大学統合に伴う大学新名称「東京科学大学」を最初に聞かされた時点で、随分と“手抜き”であり、また陳腐過ぎて分かりにくい大学名称” との印象を抱かされた。

 特に、同じく国立大学医学部出身者である我が身としては、大学名に医学部(歯学部)の名称を是非共残すべきと考察する。
 既に都内都心部に存在している、東京医科歯科大学とは実に立派な医科歯科大学だ。
 その名称が「東京科学大学」???
 附属病院内に数多くの患者さんを抱える大学病院にして、これじゃあ、まず一般人に分かりにくい。
 大学医学部・歯学部たるもの、その名称は外してはならないのではあるまいか?
 
 東京工業大学側の視点からも、同様の問題があろう。

   もしかしたら、都内に現存する私立の「理科大学」を意識して「理科」なる言葉を避けるがために安直に「科学」の文言を持ちだしたのかもしれないが。
 「科学」では範囲が広過ぎて、せっかくの国内最高位に位置するであろう国立大学の統合に際し、如何なる新大学となるかの説明が全く無されていない感覚もある。


 原左都子の私案だが。

 元通りの名称を活かして、「東京医科歯科・工業大学」の名称が一番分かり易いのではないかと、考える。 (もちろん、順番を逆にして「東京工業・医科歯科大学」でもよいだろう。)

 両大学の統合は2024年らしいが。

 まだ少しも遅くはない。
 是非とも、統合後の大学名の再考をお願いしたいものだ。


体育がスポーツ嫌いを招かぬために

2023年01月20日 | 教育・学校
 (冒頭写真は、2023.01.16付朝日新聞「まなび つながる 広場」コーナーより転載したもの。)



 冒頭の朝日新聞のテーマを見た瞬間。

 私は本エッセイ集にて公開した 2009.05.16付エッセイ「『逆上がり』の屈辱」と題する教育・学校カテゴリー記事を思い起した。

 以下に、その一部を再掲載させていただこう。

 今の小学校でも、児童生徒全員が必ず「逆上がり」が出来なくてはいけないなどという“意味不明な縛り”を、まだ全児童に課し続けているのであろうか?

 5月の連休中の朝日新聞の「ひととき」欄に、公園で子どもの「逆上がり」の練習に付き合っていて、「逆上がり」が出来なかったはずの母親である自分が思いがけず出来てしまい公園で注目の的になったという、30歳代の女性からのほほえましい投書があった。
 似たような経験は私にもある。我が子が小学生の頃までは子どもが苦手なスポーツ種目等様々な事柄に付き合って、公園等でよく一緒に練習したものだ。
 例えば「持久走」、これは私も子どもの頃は苦手だった種目である。ところが子どもと一緒に公園を走ると、以外や以外いつまででも走れるのだ。先に音(ね)を上げた子どもを休憩させて、一人で連日一体どれ位の距離を走ったことだろう。
 それから「縄跳び」。体力には自信がないもののリズム感は自慢の私は「縄跳び」は子どもの頃から比較的得意種目だった。 何十年かのブランクをものともせずやはり我が子よりも数段上手い。子どもの指導も放ったらかして、公園で一人で没頭して跳びまくったものだ。
 「ボール投げ」もやったなあ。折れそうな細腕だった小学生の頃の私は9m投げるのがせいぜいだったのに、今投げると20m程飛ばせるから不思議だ。
 
 何年か前に、テレビの対談番組で女優の桃井かおり氏も同様のことを話していた。
 昔子どもの頃できなかった「逆上がり」等のスポーツ種目が、50歳を過ぎて体が老化の一途を辿っている今、不思議と何でも出来てしまうのだと。それは単に体力や技術的な問題のみならず人間的成長がものを言っている、云々… そのような趣旨の話をしていたと記憶している。

 まさに私も同感だ。
 人生経験を積み重ねていく中で自然と体力面や技術面の力が向上し、体の各部位の効率的な使い方というものを誰に教わる訳でもなく心得てくるように感じる。 子どもの頃には訳がわからずただただやみくもに頑張っていたことが、今では力加減を心得るようになっている。
 それに加えて、人間としての“成功感”が大きくものを言うようにも私は感じる。人生における様々な分野での成功体験を通じて自信が芽生え、チャレンジする対象事象の如何にかかわらず「自分は出来るぞ!」とのごとくのエネルギーが内面から湧き出てくるのだ。このような精神力が力強い後ろ盾となって、体を突き動かしてくれるように感じることをよく経験する。

 話を冒頭の小学校の頃の「逆上がり」に戻すが、この私もなかなかクリア出来ずクラスで最後の2、3人にまで残った“「逆上がり」落ちこぼれ”児童だった。 
 あれは、我が幼き日の屈辱的な光景として今尚忘れずにいる。

 上にも書いたが、まず我が折れそうな細腕が体を支えられない。
 それ以前の問題として、昔の小学校には体育専任教師など配備されておらず、技術的に「逆上がり」を指導できる指導者が誰一人いないのだ。そんな悪環境の中で、ただただ周囲の児童が成功するのを見よう見真似で頑張るのだが、どう足を上げても成功には程遠く疲れ果てるばかりだ。
 更に極めつけは、昔の学校においては“出来の悪い子を責める”教育がまかり通っていたのだ。「皆出来るのに、何であんたは出来ないの!」との教員の罵声が「逆上がり」が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。 「だったら、あんたがちゃんと教えろよ!」と今なら言い返すが、当時の幼き私に教員に逆らう手立ては何もない。

 それでも、その“出来の悪い”2、3人で日が暮れるまで学校の校庭で毎日頑張った。一緒に残って元気に遊び回っている“出来る子”をお手本にしつつ、ある日、何とか「逆上がり」が出来た私であった。
 残念ながら“ひねくれ者”の私には何の達成感もなく、豆だらけで血が滲み鉛筆を持つにも痛む手と、“劣等感”を抱かされた屈辱的な「逆上がり」を、もう金輪際しなくて済むという開放感のみが我が幼な心に残った。

 昔の小学校の体育教育において、何故にたかだか鉄棒の一種目でしかない「逆上がり」ごときに、教育行政があれ程までにこだわったのかは不明だ。
 もしかしたら、東京オリンピックで男子体操チームが大活躍したことに、単に浮かれたて連動した安直な教育行政だったのだろうか??? 

 現在(当時)高校生になっている我が子も、所属小学校から「逆上がり」をクリアする事を強制されてはいなかったようだ。 恐らく現在では「逆上がり」クリアを全員強制とするがごとくの子どもの個性や多様性を無視した安直な教育理念は、教育現場から排除されていると信じたい。

 そのような教育現場における時代の進化を喜びつつ、さて明日は公園へでも行って、今度は「逆上がり」にでも挑戦してみようかな!! イエイ!

 (以上、原左都子エッセイ集2009年バックナンバーより一部を引用したもの。)




 2023.01.20現在の原左都子の私事・感想等を述べよう。

 今現在思い出してみても、私が郷里過疎地にて受けた小学校の「体育」教育は劣悪だった。
 現在とは異なり、「体育」専任教員が配備されていなかった時代背景だが。
 とにかく、全ての教科を学級担任が指導するのだが。
 (私に言わせてもらうに)スポーツなど無縁に見えるデブったおばさん教員が児童の体育指導もするのだが。 子供心に如何に贔屓目に見ても、「体育」指導をこなせる能力がまるで無い。
 そのくせ、出来ない児童をたしなめるのはへいっちゃらだ。
 まさに上記引用文中にて記した通り、「『皆出来るのに、何であんたは出来ないの!』との教員の罵声が“逆上がり”が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。」 『だったら、あんたがちゃんと教えろよ!』と今なら言い返すぜ!!!

 私の場合救われたのは、中学生になって素晴らしい女性体育教師に恵まれたことだ。
 いつも肯定的に物事を捉えて下さる教師先生で、決して運動神経が優れているとは言い難いこの私をあたたかく応援して下さったものだ。
 そのお蔭をもって、小学生時代に抱かされた“体育アレルギー”からすっかり解放され。
 大人になって以降は自らダンスやランニングに励んだりしつつ、私なりに体力づくりに勤しむ人生を送ることが叶っている。 (左膝複雑骨折の身の現在は無理だが…😭


 そんな私も朝日新聞記事のタイトルに同感だ!
 
 「体育がスポーツ嫌い招かぬために」

 特に、未だ発達・成長途上期の児童・生徒達に対する“スポーツ指導”に於いては、体育教育理念にかなった正しい指導を施して欲しいものだ。


行きたくない病院はやめなさい

2023年01月18日 | 医学・医療・介護
 (冒頭写真は、朝日新聞広告欄より転載したもの。)



 冒頭写真のごとく、「受けたくない治療を断る」こととは、そもそも患者としての義務と医学関係者の私は心得るが。

 その思いが積み重なると、今回の表題の如く「行きたくない病院をやめたく」なるものだ。

 いえいえ、この原左都子は過去に大学医学部にて医学教育を受けた医学関係者である故に、人よりも“医療に対する否定感情”が出やすいのかもしれない。
 特に、私自身が納得いかない医療行為や医師からの身勝手な診断や治療の強制等があった場合、この反発心が我が内面からみなぎってきてしまうのだ。

 その結果私の場合は、「受けたくない治療を断る」よりももっと手っ取り早い手段として、表題に掲げた「行きたくない病院はとっとと行くのをやめる」との強硬手段に出ることもある。

 その事例として、9年前に右手首・左鎖骨を同時骨折し近くの整形外科を受診した時のことを思い起す。

 直接診察して下さる院長先生に関しては、特段の問題はなかったのだが。

 初診から2週間程が経過して、骨折箇所の「リハビリ」が始まったのだが。
 この「リハビリ」について説明すると。
 私の感覚では、理学療法士の資格を保持していないおそらくパートのおばさんらしき人物が、単にリハビリマシンを我が骨折幹部に取り付けて放置し、一定時間温めるとの療法を実行する、との手段等々なのだが。
 周囲でリハビリを受けている患者さんのほとんどが高齢者。
 その隣に座ってマシンのリハビリをしていると、それら高齢女性たちが必ずや私に話しかけて来て、ご自身の“病気自慢”を始めるのだ! 
 テキトーに相槌を打ったりするのだが、正直言って鬱陶しく ちょっと勘弁願いたかったものだ。
 
 この「リハビリ」を2度程施された後に、私は当該整形外科医院での診療をやめる決断を下した!

 その理由とは、“まったくもって時間の無駄!”それ以外の何でもなかった故だ。
 同時に、我が鎖骨及び手首の2箇所の骨折状況が回復に向かっている事実を自ら診断したからに他ならない。
 (後日談を少し語ると、コルセットを背負い続けていた鎖骨の方はその後順調に回復に向かい2か月を待たずして完治したが、右手首に関しては多少難義した。 手首とはどうしても普段酷使せねばならない箇所であるため、いつまでも痛みが残ったものだ。 それでも骨折8か月後くらいまでに痛みも取れて、完治しただろうか。)



 今回のテーマで本日エッセイを書こうと志したのは、他の何でもなくて。

 表題の通り、今膝複雑骨折にて通っている病院をやめたくてしょうがない故だ。 


 やめて他の病院へ移るという意味では無くて、そもそも病院へ行く趣味が全く無い私としては、通院を全面的に終了に持ち込みたいとの意味合いだ。
 今回お世話になっている病院とは、そもそも私が好んで選択して行った病院ではない。
 路上で転び、救急搬送された際に救急隊員が決定して連れて行って下さった病院だ。 

 このように、そもそも私が好んで選択して行った病院ではない、という事実が最初からずっと引っ掛かている。
 加えて自宅から遠く、左膝複雑骨折状態のため通常の交通手段で通えない身であり、タクシー利用等で交通費に余分な負荷がかかる。

 しかも、医師(私の整形外科主治医ではなく)、リハビリの際に少し問診した別医師の説明・指導等に関して大いなる不信感を抱かされている最中だ。(まあ、これが一番の理由かな??)

 明日が、そのリハビリの日なのだが。
 明日のリハビリ時にはその医師との面会は無いので助かると言えばそうなのだが。

 一旦不信感を抱かされると、病院全体に対して不信感を拡大してしまうのは私だけでないだろう。
 
 病院を患者の意思で辞めるのは簡単であることも、上述の如く十分承知しているが。
 今回困惑するのは、左膝の金属(針金で編んだもの)の除去手術(3日間の入院を要する)がほぼ1年後に控えている事実だ。
 もしも今の病院を辞めた場合、その除去手術を施してくれる病院を自分で探さねばならない。 これが困難な気がするのだ。


 まあ、明日はリハビリに行く予定でいるし、明日行ってみてもう少し様子を探ってみることにするかなあ。