原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

天才文豪・思想家ドストエフスキーは、てんかん持ちだった

2023年01月17日 | 医学・医療・介護
 長年この世に生きていると、天才文豪・思想家ドストエフスキーのファンと出会うことがたまにある。


 その一人が、我が亭主なのだが。 

 我が亭主に関しては、本エッセイ集バックナンバーに時折小出しにしているが。
 亭主の本業は、物理学研究者である。 過去にネイチャー論文も提出したとの業績のある人物なのだが。

 この亭主が、ドストエフスキーファンであることを私は見合いの席にて最初に聞いた。
 見合いと言えどもお互い既に40歳前後の年齢に達していたこともあり、見合いにて知り合った後は二人で飲み屋で語り合う機会が多かった。

 その際にお互いの学問上の共通趣味である、「量子力学的実在論」や「プラトン哲学」の話題が出た合間に、亭主が「ドストエフスキーファン」であると言う。
 亭主が何故ドストエフスキーファンになったのかと言うと、高校時代の家庭教師だった東京外大生(男性)の影響を大きく受けた結果だと語ったものだ。
 この東京外大生、亭主から聞くところによるとどうやらご本人が“天才肌”だった様子だ。 物理学にも詳しかったようで、この人物の恩恵により我が亭主は大学にて物理学を専攻し、その後物理学研究者として成功できたと言って過言では無かろう。
 そして、今回の話題であるドストエフスキーに関しても、当該東京外大生より大きな影響力を受けたとのことだ。



 最近の話題に移ると。

 亭主が言うには、そのドストエフスキーが実は「てんかん」を患っていたらしいのだ。😲 
 そして亭主付け加えて、「どうやら天才が『てんかん』を患っている事例が多いらしい。」

 そう言われてみると。
 この私も、子供の頃は“天才肌”だったかもしれないなあ。 幼稚園4歳児の時点で園で受けたIQ検査にて、園創設以来最高得点であるIQ168を記録したし。😁 
 ただ、私は“てんかん”は患っていないぞ!😶 😷 



 ここで、ネット上で見つけたドストエフスキー・てんかん説の一つを引用しよう。 

 てんかん発作は脳内の神経細胞網に異常な電流が流れて起きる症状。脳をもっている限りどんな人にもてんかん発作は起こり得る。「人間はてんかん発作を起こす生き物である」と定義したてんかん学者もいるそうで、全人口の10%程度が、自覚はなくても、誰でも一生のうちで一回以上はてんかん発作を起こすと推定されている。 重いものでは意識を失うことも多く、ムイシュキンがラゴージンのナイフを見てホテルの階段で起こした発作やマルファが目撃したスメルジャコフの発作がこのタイプ。
 一方、部分てんかんは局在関連てんかんとも呼ばれ、脳の特定の場所から異常放電が起こる。場所とその広がり方によって、さまざまな症状が現れる。(中略)
 てんかんの診断は、脳波ではっきりするが、発作はいつ起こるか予測できないものなので、発作の起きる時をねらって脳波を記録することはできない。
 ドストエフスキーほど、自らの記録や目撃証言が後世に残っている著名人は他にいない。なによりも、作品の中で多くのてんかん者を描いた。てんかん学者や神経科医がドストエフスキーに注目するのは当然のことだ。

 ドストエフスキーのてんかん
 
 子どものころの病歴は、弟のアンドレイの回想にわずかに残るだけ。「フョードルは、これといった原因もなしに喉頭の病気にかかり声が出なくなった。病気はかなりしつこく、あらゆる方法が試みられたが効き目はなかった。この病気の跡がふつうよりも奥のほうからだす声に残った」と回想している。
 下級生だったコンスタン・トルトフスキーは、回想記に1849年(逮捕の年)にドストエフスキーが来て泊まったとき、「もし昏睡状態になっても三日間は埋葬しないでほしいと頼まれた。昏睡状態に陥るかもしれないという思いが、たえずかれを不安にさせ、おびやかせていたのである」と書いている。
 ドストエフスキーのてんかん発作の最初の目撃証言とされる記述を、工兵士官学校の友人グリゴローヴィッチが回想に記している。「かれといっしょにトロイツキー横丁を歩いていて、葬式の行列に出会ったことがある。ドストエフスキーは急いであとに引き返そうとしたが、数歩も行かないうちに発作に襲われてしまった」(1844~45年ごろ)。
 同じころ、ドストエフスキーを診たヤノーフスキイ医師の回想記には、当時のドストエフスキーの風貌が医師ならではの正確さで描写されている。また、「彼は特別な頭痛をともなった眩暈がすると言い、それを卒中の一種と思いこんでいた。神経症の現象が幼年時代からしばしば現れていたという話をたびたび聞かされていたので、彼の体質や体格を考慮に入れて、神経症の一種にちがいないと想像していた」と書いている。 ヤノーフスキイ医師は1847~1849年の間にドストエフスキーの発作を3回目撃している。ドストエフスキーは、しばしば主として脳や神経系の病気や精神病関連の医学書を借りていったと回想している。
 シベリア時代の記録として残っているのは、1854年にオムスクから兄のミハイルにあてた手紙の中に「ぼくはよく病気になって入院しました。神経の不調のためにてんかんが起こったのですが、しかし、時たまです」とある。
 重要とされる記録は、1857年12月16日、シベリアの第七歩兵大隊の医師エルマコフ が作成した診断書で、「1850年の初てんかん発作以来4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める」とある。
 その後のドストエフスキーの生涯についてはおおまかには次のとおり。
最初の結婚(1857)、ペテルブルグに戻って雑誌「時代」創刊(1861)、妻の死・兄の死(1864)、二度目の結婚(1867)、外国旅行(1867~1871)、スターラヤ・ルッサに滞在(1872~1875)、ペテルブルグに戻って「作家の日記」創刊(1874)、エムスでの療養(1874~1879)、呼吸器疾患による死(1881.1.28)。
 
 ドストエフスキー自身が残した記録のほとんどはメモ程度の短いものだが、その中にめずらしく長いものがある。それは、複雑部分発作の代表的症状の一つとされる自動症の記録だ。 自動症というのは、無意識のうちに様々な動作を行ってしまう症状で、てんかん患者にみられる症状。ドストエフスキーは後世の研究に資するために記録したのだと思いたくなる。

 (以上、ネットよりドストエフスキーの“てんかん”に関する記載を引用したもの。)



 てんかんは、主に「脳波」検査により“てんかん波”が出現することが確定診断となるようだ。
 幼少の頃“天才肌”だった(!??)この私も、一度脳波検査を受けてみるのもいいかも??!?


年賀状、中止に持ち込むのも礼儀と心得つつ…

2023年01月16日 | 人間関係
 (冒頭写真は、本年 2023年正月に我が家の私と亭主宛に届けられた年賀状のうち、昨日のお年玉抽選にて3等当選した年賀はがきを撮影したもの。)



 3等当選の話題から始めよう。

 亭主との晩婚直後期には、お互いに数十枚ずつ合計100枚を超える年賀状を投函し、同じ枚数の年賀状を受け取っていたものだが。

 年月の経過と共にお互いそれぞれの交友関係が減少するのに伴い、年賀状の枚数も減少の一途を辿った。

 参考だが、晩婚後の我が家の年賀状お年玉抽選にて、一度2等当選した経験がある。 

          
 これが、その当選品なのだが。
 元々切手収集の趣味などさらさらない我が夫婦にとっては、“つまらない景品”のイメージしかなく。 私が保管して以来、本日引っ張り出してくるまで、日の目を見ることはなかった代物だ。

 末等の「切手シート」に関しては、ほぼ毎年1枚以上は当選している。
 それも使用はせず、私が保管し続けているのだが。 そろそろ使用しないことには、単に無駄な代物となりそうだ。

 今年の3枚当選は、確率的に多い方であろう。
 抽選会直後期は これの引き換えで郵便局が混雑するであろうから、ある程度月日が流れて後に引き換えることとしよう。




 話題を表題のテーマに変えよう。

 年賀状など まったくもって“虚礼”もよいとこじゃなかろうか、などと反発心を抱きつつ。
 それでも枚数を減らしながらも、年賀状の投函を毎年実行してしまうのはどうしたことだろうか??

 これに関して私が思うには。

 まず一つの理由として、内容の面白い年賀状を下さる方々おられるのだ。
 例えば、一筆直筆に“本気”が吹き込まれている、等々。 
 私の場合、これに該当するのは我が恩師だ。
 私は2つの大学(院)を卒業(修了)している身だが、その二人の恩師の方々が2人揃って私の存在をいつまでもよく覚えていて下さっていて、“本気の”メッセージを毎年書き添えて下さるのだ。

 一つ目の大学(医学部)恩師先生に関しては残念ながら7年前に他界されたが、その後その奥様(郷里観音寺のマチ子さん)との出会いがあったりして、今尚お付き合いが続行している。

 二つ目の大学(及び院)の恩師先生(文化勲章・秋の叙勲ご受章者)からは今年も年賀状を頂戴したが、毎年心のこもった“一筆”を書き添えて下さっている。
 今年初めてその一筆が無かったのが気がかりだ。 既に90歳を超えておられるはずだが、お元気でおられると信じたい。

 その他の方々からの年賀状一筆で多いのは。
 「いつまでも若くて活動的で素敵!」の一筆を寄越してくれるのは、過去の女友達連中だ。
 確かに、と言っては失礼かもしれないが。 同級生の年賀状写真の中には、既に“お婆ちゃん”風貌の方々も多いなあ。 どうやったらそんなに老けるのか?? こちらが聴きたいくらいだが。 な~~んて言っていると、明日は我が身だろうなあ…😱 

 などと、後で楽しめる年賀状の差出人に関しては、今後も年賀状交換が続くのだろう。 


 片や、いつもいつも印刷年賀状に一筆の直筆も無い方々も少なくない。
 このような殺風景な年賀状を寄越してくる方々とは、これぞ虚礼なのかもしれないが。
 それにしても それを毎年続行するその心理の程は、私には計り知れないものがあるなあ。

 嫌ならやめてくれても何ら差し支えないのだが。
 
 もしかしたら、あちら側も別の意味(毎年自分の写真ばかりデカデカ載せていないで、いい年をして恥を知れよ!!)で、我が年賀状が鬱陶しいのかもしれないし。😝 
 

不覚にも左膝複雑骨折した身の私は、未だに日常生活の再スタートラインに立てないでいる…

2023年01月15日 | 自己実現
 (冒頭写真は、2023.01.14付朝日新聞一面広告より転載したもの。)



 上記写真は、言わずと知れた今年正月の箱根駅伝大会にて優勝した駒澤大学監督・大八木弘明氏による名言コピーと、おそらく箱根駅伝にて優勝を飾った選手達を撮影したものであろう。


   その名言を今一度繰り返すと。

      スタートラインに立つまで 
      自分の体調を維持したものが、 
      チャンスを持っている。



 まさに、今の私にとって “耳が痛い” お言葉だ。


 あの日、何で、どうして、私は路上で激しく転んでしまったのだろう??
 転んだ際に右顎も強打して脳震盪を起こし、一時記憶喪失の身で病院へ救急搬送された立場だが。
 我が身に振り被った、我が人生に於ける数極少の “地獄への道” を経験した物語の一場面として、我が脳裏からあの時の光景が消え去ることは無い。


 復活の努力は、もちろん私なりに続けている。

 一昨日も全治3カ月までの期間を待てずして、果敢にもランニングに挑もうと自宅近くの大規模公園へ出掛けた。
 ところが、想像していた以上に左脚が重くて上がらない…
 ランニングどころか、徒歩よりも遅いスピードでやっとこさ5m程走ったふりをするのが精一杯…
 情けなさのみが残る結果となり。😨 

 自宅でも、日々いろいろと左脚の鍛錬を私なりに実行しているのだが。
 やり過ぎると痛みのみが残って、何らの改善にも繋がっていない虚しさばかりが漂い…

 
 本日のように雨交じりの曇天の日には、松葉杖をつかねば歩行困難な身としては傘もさせないため、自宅にこもりっきり…
 それでも都道府県女子駅伝をテレビで見て触発され、いつかは必ず我が身にもランニングが可能となる日を待ち望むこととして。
 


 その後 朝日新聞を開き、冒頭写真の 駒澤大学監督 大八木氏のフレーズを見て。

 “まさにその通り!!” と、何故か感激して。

 現在は不自由な身であるこの私にも、必ずや我が“まともな人生”の再スタートの日が来るであろうことを信じ。

 引き続き左膝回復への弛まぬ努力と体調管理に日々励み、私なりの復活の日を目指そうと思ったりもした。


高齢者介護施設内でのコロナ・クラスター発生に、施設も家族も地獄を見る思い…

2023年01月14日 | 医学・医療・介護
 (冒頭写真は、朝日新聞2023.01.13付記事「退院6日後 また陽性 高齢者施設『陽陽介護』も」より転載したもの。)



 新型コロナ感染拡大が留まるところを知らない現在の我が国だが。

 昨年の大晦日前日に、義理母が入居している高齢者施設より電話が入った。

 「数日前より施設内で新型コロナ陽性者が出ていますが、本日の検査で義理母さんの陽性が確認されました。 本日より自室謹慎となりまして、外へ出られなくなります。 食事やその他の措置に関してはスタッフが最小限出入りして対応します。 外部者の皆さんは当然ながら当施設への訪問はしばらく自粛していただくこととなります。」

 大晦日には、膝骨折中の私を除き 亭主と娘が二人で義理母が暮らす施設を訪問する予定でいた。 それはもちろんのこと、即刻中止にしたが。


 一番困惑させられたのは、状況が全く把握できない認知症かつ難聴の義理母本人が我が家に日々何本も電話を寄越す事態だった。
 「あのねえ。 どうしたことか、私今部屋に監禁されているの。 出して欲しいと言っても、スタッフの皆が意地悪して一歩も出してもらえないのよ。」

 義母からの電話は、嫁の私の電話での声が聞こえないという義母の訴えに合わせてすべて亭主が対応しているのだが。

 この義母からの勘違い電話が正月から毎日ずっと鳴りっぱなしだ。

 愛想が尽きる私が、「着信拒否設定しようよ!」と助け船を出しても、亭主が「いや、いい。自分が対応する」と言うのだが。

 正月からこれを丸一日続けられたものならば、私の方が頭がおかしくなりそうなのをずっと耐えて暮らした。

 結局、1月11日になって、「一応2週間が経過した」との理由で施設側が義理母を“自室隔離”から解放したようだが。


 とにかく、この義母のコロナクラスター騒動で、今年の我が家の正月は電話攻めに遭わされたものだ。


 おそらく一番大変だったのは、施設のスタッフの皆さんに間違いないだろう。
 義母の隔離中にもケアマネジャー氏が逐一我が家に電話連絡をしてきて、義母の状況を伝えてくれる。 
 我が義母の場合は、コロナ陽性反応が出たと言っても症状としては軽い風邪程度で済んだ様子なのだが。 
 他の入居者やスタッフの皆さんの感染状況が全く得られないため、今回の施設内コロナ感染に関する詳細は不明のままだ。



 2023.01.13付朝日新聞「退院6日後 また陽性 高齢者施設『陽陽介護』も」と題する記事より、一部を引用しよう。

 新型コロナウイルスの「第8波」の感染拡大が続き、死者数は過去最多を更新している。 高齢者施設ではクラスター発生が相次ぎ、退院後に再び陽性となるケースも。 国は医療支援を伴う「施設内療養」ができるよう体制整備を求めているが、実態との乖離に現場から厳しい見方が出ている。(中略)
 発端は職員の発熱だった。 陽性と分かった後、一気に感染は広まり、翌日には入居者4人が救急搬送された。 入居者の中で入院できたのは23人だった。 (中略)
 「現場は命の危機と常に背中合わせですよ。 ある施設のホーム長は重い口調だ。 病院に入院できたのは1人、後の16人は施設内での療養を余儀なくされた。 (大幅中略)
 施設現場には施設内療養の体制確保は難しいとの見方がある。 「人出のサポートがあるわけではく、医師の確保もコロナ禍で難しく、医療体制をつくるのは厳しい」と話す。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の私見だが。

 我が家の場合、義母も郷里の実母も高齢者施設暮らしであるが。

 郷里の実母が入居している高齢者自立支援施設の場合は “地元の大病院付属施設”である事実が効を奏して、今回のコロナ禍対応に関しても施設側への適切な指導・措置が採られているようで安心している。

 片や義母が暮らす高齢者施設は、医療機関とは全く縁が無い大手企業運営の施設だ。
 入居費用ばかりは高額なのだが、(医学経験者である私に言わせてもらうと)こと医療対応に関しては全く手薄感が否めない。
 そんな感覚を抱いていた矢先の、今回の施設内義母コロナ感染の知らせだった。

 私自身に関しては、将来的に高齢者介護施設の世話になる希望は全く無い!!のだが。

 もしも、皆様の親族に高齢者介護施設入居希望の身内の方がおられるとした場合、介護施設の選択は慎重になさることをお勧めしたいものだ。 


左膝複雑骨折後、初めてのランニングに出かけたものの…

2023年01月13日 | 自己実現
 (冒頭写真は、本日 ランニングに出かける直前に自宅にて撮影した原左都子。)


 昨年10月末頃 自宅近くの街頭にて激しく転倒、11月1日に左膝に金属(銅製針金を編んだもの)を挿入してバラバラになった膝の骨をまとめる手術を受け。 
 退院後は、自宅にて療養生活(冴えない日々)を送り。

 我が心身状態のストレスも限界に近い感覚の下で、耐え続ける原左都子だが。😫 



 昨日、ついに思い立った。

 もうこんな生活、我慢も限界だ! 明日はランニングに出かけるぞ!!

 そして今日は朝から比較的暖かい晴天!
 これは、ランニング日和じゃないか!!


 午後になり、久々のランニングスタイルに着換えし。
 冒頭の写真撮影の後。
 本日は松葉杖も玄関先に置いたまま、そそくさと自宅近くの都立大規模公園まで出かけた。


 ところが…

 さて、走ろうか!!  とは思えないものだ…😨 
 松葉杖無しの歩行は何とか叶うものの、いざ外に出てみると想像していたよりも脚が重いし、到底、脚(左脚)が走る高さまで上がりそうもない。

 現実は厳しいなあ…

 と思いつつ、ここは無理は禁物。
 歩いて公園内を回るスケジュールに変更しつつ、途中ちょっとだけ両脚を上げてランニング風の動きをしてみるのだが。
 その動きの方が歩くよりもずっと遅いし、5メートルと続かない。

 手術後2か月半の現在としては、こんなものなのだろう。

 そう自分に言い聞かせつつ、それでも多少の運動にはなったと自分をなぐさめて。


 帰り道にいつものスーパーで買い物をして、帰宅した。