礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福沢諭吉は保守思想家だったのか

2021-04-11 01:25:17 | コラムと名言

◎福沢諭吉は保守思想家だったのか

 小川榮太郎氏の『「保守主義者」宣言』(育鵬社、二〇二一年三月)の巻末には、[人物註]なるものがついている。たとえば、福沢諭吉については、次のような註がある。

福沢諭吉(1835‐1901)
幕末・明治の啓蒙思想家、教育者。緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだのち、独学で英学を勉強。幕府遣外使節に随行して欧米を視察。明治維新後は西欧文明の紹介に努めるとともに、慶應義塾を創設し、活発な教育・啓蒙活動を行った。主著『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』など。

 この註に関して言えば、「明治維新後は」の六文字に、やや問題がある。主著の『西洋事情』は、慶応二年一二月刊、慶應義塾の命名は慶応四年四月で、ともに明治改元前である。また、この福沢の項に限らず、[人物註]のコーナーでは、「正仮名遣」を採用していないが、これには、何か理由があったのだろうか。
 それはさておき、読者にとって、こうした[人物註]はありがたいものである。この[人物註]は、著者が「保守思想家」、「保守主義者」と判断した人物を選んでの[人物註]というわけではなく、単に、本文の中で言及した人物についての[人物註]のようである。そのこと自体に文句はないが、せっかく、こういうコーナーを設けたのであるから、できれば、[人物註]の対象となった各人物について、「保守主義者」たる著者から視た、独自の「評価」を加えてほしかった。
 福沢諭吉について、著者は、最初からこれを「保守思想家」と位置づけている。本書の「まえがき」には、次のようにある。

 バークやハイエクのような意味で思想的な吟味に充分堪える保守思想家として、日本では本居宣長、後期水戸学、福沢諭吉、柳田國男、和辻哲郎、折口信夫、小林秀雄、林房雄、保田與重郎らを挙げる事が出来るが、……

 本居宣長が挙がっていて、平田篤胤が挙がっていないのはなぜか、後期水戸学が挙がっていて、復古神道が挙がっていないのはなぜか、などと思ったが、この問題はしばらく措く。それ以上に気になったのは、福沢諭吉を「保守思想家」として位置づけた根拠である。
『福翁自伝』によれば、福沢諭吉は、「門閥制度は親の敵(かたき)」と述べて、かつての封建制度を批判している。その意味において、福沢は保守主義者であるとは言えない。しかし彼は、慶応二年九月に、「長州再征に関する建白書」を提出し、外国の兵力を借りて、防長二州を一挙に取り潰すのがよいと提言した。この時点における福沢は、「幕臣」である。幕臣としての立場から、保守的な見方を示したのであった。明治維新後の福沢は、明治政府に出仕せず、在野の言論人・教育者として終始した。薩長藩閥の政治家に対する反発には激しいものがあったが、明治政府が採った政治・経済・外交の諸策に対しては、おおむね肯定的であった。
 福沢諭吉というのは、一筋縄ではいかない人物であり、生前から今日まで、なかなか評価が定まらない人物である。小川氏は、いったい、福沢諭吉のどういった面を捉えて、彼を「保守思想家」と位置づけたのだろうか。本書を読んだ限りでは、このあたりが理解できなかった。
 この本をめぐっての話は、もう少し続くが、明日は、いったん、話題を変える。

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