◎本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(1994)
今月一一日のコラム「福沢諭吉は保守思想家だったのか」の中で、私は次のように書いた。
福沢諭吉というのは、一筋縄ではいかない人物であり、生前から今日まで、なかなか評価が定まらない人物である。小川氏は、いったい、福沢諭吉のどういった面を捉えて、彼を「保守思想家」と位置づけたのだろうか。本書を読んだ限りでは、このあたりが理解できなかった。
ここで「本書」とは、小川榮太郎氏の近著『「保守主義者」宣言』(育鵬社、二〇二一年三月)のことである。
さて、同日のコラムを書いたあと、私は、みずからの福沢諭吉論である『知られざる福沢諭吉』(平凡社新書、二〇〇六年一一月)を読みなおしてみた。その後に発表した『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇年八月)のうち、福沢諭吉について論じた章にも目を通した。さらに、幕臣たる福沢諭吉が、慶応二年に提出した「長州再征に関する建白書」も、改めて検討してみた。
その結果、暫定的に得られた結論は、こうである。
福沢諭吉を「保守思想家」として位置づけるのは適当でない。しかし、幕末期、維新期、明治期における福沢諭吉の挙動および言論活動は、「保守主義とは何か」という問題を考える際、きわめて重要なヒントを提供してくれるに違いない。
「長州再征に関する建白書」は、保存しておいたはずのコピーが見つからなかったので、インターネット上にあるものを利用しようと考えた。しかし、これをインターネット上で閲覧することができなかった。こういう基本的な史料が、インターネット上のどこにもないことに驚いた(青空文庫は「作業中」)。やむなく、『福沢諭吉全集』第二〇巻にあるものを、図書館に行ってコピーしてきた。
インターネット上で、「長州再征に関する建白書」を探し求めている間に、本山幸彦氏の「書翰にみる福沢諭吉」という論文を見つけた(『教育科学セミナリー』第二六巻、一九九四年一二月)。もちろん、「長州再征に関する建白書」にも言及している。
これは、注目すべき論文である。しかし私は、『知られざる福沢諭吉』を書いたときも、『攘夷と憂国』を書いたときも、この有益にして優れた論文の存在に気づかず、これを援用することができなかった。
本日以降、本山氏のこの論文を、何回か分けて紹介してみたい。本日は、「はじめに」の全文を紹介する。註は、引用した箇所にあるものを、その都度、紹介する。
書 翰 に み る 福 沢 諭 吉 本 山 幸 彦
は じ め に
1 『福翁自伝』の真偽
2 維新期、啓蒙期の福沢書翰
3 書翰にみえる福沢諭吉
む す び
は じ め に
私は福沢諭吉の書翰約400通をえらび、大学院の演習で院生諸君と詳細に分析してきた。3年間にわたる演習の結果、『福翁自伝』とは違った福沢像がみえてきた。古今の自伝文学の最高傑作の一つだと絶賛されている『福翁自伝』も、その記述のすべてが、福沢諭吉の真実を語っているわけではないのである。書翰のなかには、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず云々」という福沢の名言からは、とても想像できない福沢像が、しばしば顔を出す。
『福翁自伝』のこうした問題性については、『福沢諭吉研究』(1)や『福沢諭吉』(2)の著者ひろたまさき氏も、「功成り名遂げた64才福沢の自伝には、自己満足と自己隠敵をもった後代の意識をみなければならぬ」(3)とのべ、その信憑性に疑問を投げかけている。
小論は福沢諭吉の書翰と『福翁自伝』とを比較しながら、『自伝』では知りえない、『自伝』とは違った福沢像、いわば福沢という人間の素顔に迫ることを目的としている。そして、『自伝』を基盤としたこれまでの福沢研究とは別の角度から、福沢の人と思想を追及する手がかりをつかみたいのである。
こうした目的のもとに、まず、『福翁自伝』 のなかから、幕末期の福沢について語った二、三の「事実」をえらび、それを書翰や建議など当時の記録と比較することによってその真偽を検証し、次に維新期から啓蒙期にいたる『自伝』の記述と書翰を比較検討し、最後に『自伝』との比較が困難な啓蒙期以後の書翰を対象に、福沢の像を描がいてみたい。
(1) ひろたまさき著『福沢諭吉研究』。1976年2月。東京大学出版会。
(2) ひろたまさき著『福沢諭吉』(朝日選書)。1976年11月。朝日新聞社。
(3) 『福沢諭吉研究』。7頁。