礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神田喜一郎「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」

2021-04-13 04:54:45 | コラムと名言

◎神田喜一郎「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」

 瀧川政次郎の論文「万葉律令考(七)」(『伝統と現代』の一九六九年二月号「特集 天皇」)から、「一八 唐代俗語」の章を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

(二)為 当 
 「為当【はた】」なる語は、万葉集、巻一の
 見吉野乃山下風之寒欠爾為当也今夜毛我独宿牟【みよしぬのやまのあらしのさむけくにハタやこよいもわがひとりねむ】(七四)
という文武天皇の御製に見えている。「為当【はた】」は律令の条文には用例を見ないが、令集解には頻繁に用いられている。戸令集解一篇を検しても、その中に十五の「為当」を見出すことができる。次にその中の三例を示そう。 
  父子流散。父貫越前。子貫越後。未知。従見住哉。為当従父貫哉。(新附条)
  穴云。問。嫡継母等之財物。夫亡之後。雖其身存。而混合夫財処分哉。為当財主見存之故。不入分例哉。(応分条)
  問。雖会赦猶離之。未知。離而後聴【ゆる】更婚哉。為当終身不聴哉。答。穴太博士説。至終身不許婚也。(先姧条)
 沢潟〔久孝〕博士の『万葉集注釈』巻一(七四)には
  漢籍に見える「為当」、「為復」、「為」などの文字については、古義、講義、井上通泰氏の「万葉雑話」(五十三)(「アララギ」第廿六巻、第八号、昭和八年八月)、神田喜一郎氏の『日本書紀古訳攷證』、同氏「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」(「国語・国文」第廿一巻第一号、昭和廿七年一月)、小島憲之氏の「万葉語『ハタ』の周辺」(「万葉」第十六巻、昭和卅年七月)などに多くの用例が掲げられてゐる。
とあるが、そのどれを見ても、「為当」が令集解に最も普通に使用されている語であるとは書いてない。「為当」は令集解に数百の用例があるから、これは律令語というべきであって、私はこれが「万葉語」と呼ばれていることに抵抗を覚える。
(三)若 為
 「為当」と共に、奈良時代の文献に屢【しば】々使用されている中国の俗語は、「若為【いかん】」である。小島憲之氏は、続紀、天平宝字元年七月戊申条の、紫微内相恵美押勝暗殺 計画密告の記事の中に
  斐太都問云。王臣者為誰等耶。東人答云。黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂等。徒衆甚多。斐太都又問云。衆所謀者。将若為耶。
とあるのを挙げて、「為誰等」は、一般には「為誰」と書き、「将若為耶」は、「将如何」と書くべきである、然るにそれが右のような文章になっているのは、小野東人【をぬのあづまんど】と下道斐太都【しもつみちのひだつ】の会話を生々【いきいき】と浮き出させるために、中国の口語体を用いたものであって、「若為」は如何【イカン】という意味の俗語である、と言っておられる。この「若為」が令集解にも見えることは、小島氏も今集解逸文、獄令裏書の一文を引いて注意しておられるが、「若為」若しくは「若」は、令集解本文の随所に見られる語であって、敢えて逸文に見える貧弱な例を引くには逮【およ】ぶまい。次に戸令集解に見える数例を挙げて置こう。
  古記云。問。取内位任里長。取外位任坊長。若為選叙。(置坊令条)
  問。有嫡子幼若。若為処分。答。嫡子幼弱。猶為以母耳。(戸主条)
  古記云。問。並於所在附貫。若為附姓。答。旧主姓部注附耳。(絶貫条)
  古記云。問。除帳之後。未収授之間。租調若為処分。答。輪租調不合。(戸逃走条)
  古記云。問。若有才伎者。奏聞聴勅。又上句具状上飛駅。若為分別。(没落外蕃条)
爰【ここ】に引いた「古記」は、古令私記の略であって、天平九年の頃に述作せられた古令(大宝令)の註釈書である。作者は不明であるが、私は大宝律令の撰定に与った大和宿禰長岡を以てこれに擬している。
(四)以 不 
 小島氏は、前述の続紀、天平宝字元年七月条の記事に
  奈良麻呂語全成曰。相見大伴古麻呂以否。全成答云。未得相見。
とある会話の文を挙げて、「以否」、「以不」は、スルヤイナヤという唐代の俗語であって、「以」は日本書紀にもその用例の多い助字であると言っておられる。この「以不」も、令集解にはその用例が多いのであって、戸令集解には
  問。称寡妻妾。在夫家。并在父家。有別以不。答。不見其別。(三歳以下条) 
  又問。畿内京内相通聴哉以不。答。此亦不可許也。(居狭条)
  問。定嫡子有限以不。答。内八位以上得定嫡子。以外不合。(応分条)
などとある。また令集解には
  問。母財物。処分於嫡子并女子及孫之事。放(倣)父財物哉。為当以不。
と、為当と以不とを重ねて、or notの意を現わしたものも見られる。

 神田喜一郎の「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」(「国語・国文」第二一巻第一号、一九五二年一月)は未見。次回、国立国会図書館に赴いた際に、ぜひとも閲覧したい。

※神田喜一郎の「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」であるが、この「続貂」は、「ぞくちょう」と読み、ここでは、「他人の仕事を受け継ぐことをへりくだって言う」の意味である。つまり、神田以前に、「万葉集は支那人が書いたか」という文章を書いた人があって、神田は、その文章を踏まえて、「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」を書いたのである。このコラムを書いたときは気づかなかったが、その後、国語学者の橋本進吉が、『国語と国文学』第一四巻第一号(一九三七年一月)に、「万葉集は支那人が書いたか」というエッセイを寄せていることを知った。取り急ぎ、以上を追記しておく。(2021・7・13)

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