◎狭い陋屋から歴史を動かす大精神が生れいでた
火野葦平の「歴史の歩み」という文章(一九四四)を紹介している。昨日のブログでは、下関に暁天楼を訪ねたところを紹介した。
そのあと火野は、萩を訪れ、松下村塾、玉木文之進の旧宅、そして樹々亭(吉田松陰の生家)を訪ねている。案内するのは、萩市役所の河野道である。以下、樹々亭を訪ねたところを引いてみたい。
萩に来て夕陽を見ずして萩を語るなといはれた。沈む場所の工合がなかなか棄てがたいさうである。護国山団子巌〈ダンゴイワ〉の高台から展望すると、正面の阿胡〈あご〉の海をはさんで、右に相島〈アイシマ〉、鶴江台、城の腰などが見え、左には萩城のある指月山〈シヅキヤマ〉、佐波島、青海島、青波瀬などの起伏がつらなつてゐる。残念ながら、まだ陽は沈まない。
海にそそぐ阿武川〈アブガワ〉の両域に萩市街が望まれる。美しいのはいたるところにふくよかな実を鈴生らせてゐる蜜柑畠である。私はしばらくこの典雅な風景に見とれてゐたが、やがて、その昔この同じ高台に生れ、毎日この風景を展望しつつ人となつた吉田松陰のことへ、思ひがかへつた。
樹々亭とよばれる松陰の生家は、いまはまつたく跡をとどめない。ただ、団子巌〈だんごいわ〉の台地のうへに、わづかに、以前の居宅であった場所が、間数どほりの敷石によつて示されてゐるばかりだ。それを見ると、満足な居間としては、六畳が二間あるきりで、あとは玄関の三畳と、祖母の居間があり、それに二つの押入れと、台所とがついてゐる。すこしはなれて厩〈ウマヤ〉があつたらしい。もともと、あづまや風の建物であつたのだが、大火に会つて焼け出され、ここへ移つて来たといふ。松陰はここで、天保元年〔一八三〇〕八月四日杉百合之助の二男として生れた。五歳のときに叔父吉田大助の養子となつたので姓が変つた。
ここへ上つて来る山麓に玉木文之進の旧宅がある。もう倒れんかと思はれるばかりに傾いてゐるが、ここで玉木文之進は家塾をひらいて、子弟を教育した。その名が松下村塾といつたのを、松陰がのちに受けついだのである。松陰は玉木文之進に教を受け、すでに十一歳にして、藩主に武教全書を講ずるほどに学力が進んだ。十九歳のときに、樹々亭を棄て、下へ降りたのである。
河野さんは眼下の風景を展望しながら、いかにもわが意を得たやうに、「ここに立つと、松陰先生の抱かれた雄大の論がよくわかりますな。松陰先生の大東洋主義は、この展望から生れたのですよ。それにしてもえらいものではありませんか。あの当時、すでに、日本は満洲、朝鮮、支那ををさめ、南方を経営せねば国力が確立しない、といつてゐるのです。印度にまで考へが及んでゐるのです。そのころは誰もたわいもない空論のやうに思つたでせうが、いま、その通りになつて来たではありませんか。大東亜戦争はすでに松陰先生が道破されたところといつてもよいくらゐですよ。」
それにしても、私はそのむかしの樹々亭の日常を心に浮べながら、微笑がわいて来た。この狭い家のなかに、十一人もの家族がゐたことがあるのである。両親、兄、弟、妹が三人、母方の祖母、離縁されて来てゐた母方の娘、妹の婿になつて住みこんで来た久坂玄瑞、それに松陰。暮しむきも豊かでなく、半士半農の生活をしつつ、これだけの家族が暮してゐたといへば、さぞ、賑かであつたことと思はれる。その騒ぎのなかに、つねに読書の声が絶えなかつたといふ。これはいかにも世帯〈ショタイ〉じみた感想であらう。しかし、松陰はその環境のなかから非凡の才能を光らせた。大志あるものはいかなる環境にもうちひしがれることはないのである。この樹々亭といひ、松下村塾といひ、また、乃木邸といひ、狭い汚い陋屋のなかから、歴史を動かす毅然たる大精神が生れいでたといふことは、虚飾の時代へのはげしい警告であると思はれる。
裏手に護国寺の墓地がある。遺髪ををさめた「松陰二十一回猛子墓」をはじめ、実父母、養父母の墓「東行暢夫之墓」など、多くの志士の墓標が歳月の苔を帯びて並んでゐる。
玉木文之進の墓。明治九年〔一九七六〕前原一誠の萩の乱が起ると、文之進の養子眞人をはじめ、多くの門人がこれに加はつた。文之進は「平生の教育その宜しきを得ざるの致す所」と深く責を感じ、ここに来て自刃して果てた。当日は雨降りで、文之進が屠腹すると、血潮は雨にまじり、文之進の遺骸をつつんだ。松陰の妹千代子が見とどけるために傍に立つてゐた。文之進は六十七であつた。墓地をかこむ樹林に夕ぐれの風がわたる。屠腹の場所と教へられて、そこへ立つと、なにか悽壮の気が私の身をおそひ、心のふるへるのをおぼえた。
文中、「佐波島、青海島、青波瀬」の読みは、いずれも不明。また、「東行暢夫之墓」は、原文では、「東行暢天之墓」となっていたのを、引用者の責任で訂正した。東行(とうぎょう)は高杉晋作の号、暢夫(ちょうふ)は同人の字(あざな)である。
この引用部分で注意したいのは、案内人の河野道が「大東亜戦争はすでに松陰先生が道破された」と指摘しているところである。しかし、火野葦平は、そうした指摘に、反応することなく、「それにしても」と話題を転じている。火野の関心は、もっぱら、吉田松陰の生家の「狭さ」にあったようである。
なお、戦中に、「大東亜戦争はすでに松陰先生が道破された」という見方があった以上、「大東亜戦争」が敗北に帰したあとは、その視点に立って、吉田松陰の思想を再検討し、明治維新という革命を再検討し、さらには「大東亜戦争」について再検討する必要があると考える。こういった再検討が、いまだに十分なされていないのは(左右いずれの側からも)、まことに不思議なことと言わなければならない。
明日は、話題を変える。「長州再征に関する建白書」の検討に入るのは、そのあとで。