◎尾佐竹猛所蔵の写本は戦災で失われた
昨日は、『福沢諭吉全集』第20巻(岩波書店、一九六三)に拠って、「長州再征に関する建白書」の全文を紹介した。同巻同文献のあとには、校訂者による次のような「註」がついている。
〔註 慶応二年幕府の長州再征に際し幕府の当路者に提出した建白書である。慶応義塾図書館架蔵の写本に拠る。文中数ヶ所に「奉存候【御座候】」とあるのは写本のまゝである。写本の最後に「誠に急卒被[為]写候故御推覧被下候/良哉/嘉一郎君」と記してある。この「良哉」は緖方塾以来の福沢の親友山口良蔵のことで、彼は良齋又は良哉と称したことがある。「嘉一郎」は紀州藩の有力者岸嘉一郎〈キシ・カイチロウ〉で、このとき山口は紀州藩に雇はれてゐた。この文書には別に尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉所蔵のもう一つの写本があり、それは幕府の外国方関係筋で作られた写本と覚しく、右の文末の「昨年八月中より」以下に、昨年八月中より書き記した「西洋事情」と題する一本を写させて添附するから御覧願ひたいといふ意味の文言が記されてあつた。惜しいことに尾佐竹本は戦災に失はれて今は見る由もないが、その「西洋事情」とは本全集第十九巻一七六頁に収めた写本「西洋事情」のことであらう。〕
ここに、「奉存候【御座候】」とあるのは、「奉存候」の右側に「御座候」と書かれているという意味である。
「被[為]写」の[為]は、「写させ」と読ませるのであれば、「被写」ではなく、「為写」でなくてはならないということから、校訂者が施した註であろう。
『福沢諭吉全集』第20巻所収の「長州再征に関する建白書」には、句読点が施されている。しかし、この手の候文には、句読点がないのが一般的である。ここに施された句読点は、福沢自身によるものではなく、校訂者によるものであろう。
ちなみに、福沢諭吉の文章は、初期のものから晩年に書かれたものまで、ほとんど句読点がない(『福翁自伝』には句読点があるが、これは、口述を筆記したものなので、例外とする)。『福沢諭吉全集』に収録されている福沢の文章には、句読点があるが、これは原則として、校訂者によるものである。
この点に関して、『福沢諭吉全集』第1巻の巻頭にある「凡例」には、次のような一項がある。
一、福沢の文章には原則として句読点がなく、口調を強める場合や読み誤られる虞のある場合に限り、僅かにゴマ点が施されてゐるだけであるが、本全集では今日の読者の便を慮つて、校訂者の責任に於て、すべて句読点を施した。
ここで、「ゴマ点」とは、いわゆる読点「、」のことである。
ところで、「長州再征に関する建白書」は、その一部に、「ふりがな」が施されていた。そのうちの多くは、校訂者によるものと判断されるが、「弁理公使」に施されている【ヂブロマチーキアゲント】という「ふりがな」については、福沢自身が施した「ふりがな」である可能性が高い。
また、この文献には、一部で「闕字」(特定の語の前を一文字あけること)が用いられている。これは、原文にあったものであろう。
当ブログでは、このあと、この「長州再征に関する建白書」を、何回かに分けて、注意深く読んでゆきたい。ただし、明日は、いったん、話題を変える。