礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

長賊御征罰は求めても得がたき好機会(福沢諭吉)

2021-04-18 00:00:16 | コラムと名言

◎長賊御征罰は求めても得がたき好機会(福沢諭吉)

 本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(『教育科学セミナリー』第二六巻、一九九四年一二月)を紹介している。
 本日は、その三回目(最後)で、「2 維新期、啓蒙期の福沢書翰」の最後のところを紹介する。前回、紹介したところのあとを、一ページ強、割愛している。

【中略】
 幕府に関する『自伝』の記述と、幕末期福沢の幕府への想いが、極端なまでに相違するのは、次にしめす第2次長州征伐をめぐる福沢の幕府への建議であろう。 
 第2次長州征伐がはじまると、中津藩も幕府に出兵を命じられ、藩は江戸留学中の青年藩士に出征のために帰藩を命じたのである。このときの福沢の行動が『自伝』にはこう記されている。
 《夫れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘が付いて、ソコで将軍御親発となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向て兵を出せと云ふ命令が下って、豊前中津藩からも兵を出す。就ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎を始め十人も居ました。ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還しに来た其時にも、私は不承知だ。此若い者が戦争に出るとは誠に危ない話で、流丸に中っても死んで仕舞はなければならぬ。こんな分らない戦争に鉄砲を担がせると云ふならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ。此大事な留学生に帰て鉄砲を担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ。仮令ひ弾丸に中らないでも、足に踏抜きしても損だ、構ふことはないと病気と云て断って仕舞へ、一人も還さない、ソレが罷り間違へば藩から放逐丈けの話だ、長州征伐と云ふ事の理非曲直はどうでも宜しい。兎に角に学者学生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張った云々。》(19) 
 ここには福沢の素顔ともいうべき身分差別の意識がはっきりしめされている。『自伝』では珍らしい記述である。福沢は武士である学生の身を案じるあまり、学生の代りに「領分中の百姓に担がせても同じ事」と叫んでいるのである。学生の生命は大切だが、百姓の生命はどうでもいいと考えているのだろうか。
 それはそれとして、 『自伝』が語るように、 福沢が学生達に帰藩命令を拒否させたのは、おそらく事実だろう。しかし、長州征伐のことを「こんな分らない戦争」だとか、「長州征伐と云ふ事の理非曲直はどうでも宜しい」とか、本当に当時の福沢が考えていたであろうか。それはあきらかにウソである。慶応2(1866)年7月、福沢が幕府に建議した「長州再征に関する建白書」(20)が、『自伝』のウソを暴露する。
 建白は外国との條約締結以来、尊王攘夷の妄説が世に拡がり、国内が混乱し幕府の心労はさぞ大変にちがいないという意味の書き出しではじまる。ついで「其説(尊王攘夷)の趣意は、天子を尊候にても無之〈コレナク〉、外国人を打払候にても無之、唯活計なき浮浪の輩〈ヤカラ〉衣食を求め候と、又一には野心を抱候諸大名上の御手を離れ度と申〈モウス〉姦計の口実にいたし候迄の義」で、これら大名たちのなかで、「第一着に事を始め反賊の名を取候者は長州」だとつづく。 
 この反賊を討伐するのが征長である。「彌以〈イヨイヨモッテ〉此度〈コノタビ〉御征罰相成候義は千古の一快事、此御一挙を以て乍恐〈オソレナガラ〉御家の御中興も日を期し可相待〈アイマツベキ〉義、誠に以難有仕合〈アリガタキシアワセ〉に奉存候。……此度長賊御征罰の義は天下の為め不幸の大幸、求ても難得〈エガタキ〉好機会に御座候」と、福沢は一挙に長州を征服し、余勢をかつて他の大名をも制圧し、「京師をも御取鎮〈オトリシズメ〉に相成」、幕府は外交の全権を握り、「全日本国中の者片言も口出し不致様仕度〈イタサヌヨウシタキ〉義に奉存候」と、幕府絶対権力の確立を、この長州征伐に期待しているのである。 
 この建白の何処に、「こんな分らない戦争」、「理非曲直はどうでも宜しい」などと考えた痕跡がみられようか。 
 ほんの少しの事例をあげたにすぎないが、『自伝』の記述と幕末期の福沢の思想と行動とのちがいが、恰も実像と虚像のように相反していることか理解されるであろう。恐らく明治の「聖代」に天下の指導者を以て任ずる福沢が、昔は尊攘派を抑え、幕府をもり立てようとした忠実な幕臣だったとはいいにくかったのであろうか。こうした実像と虚像のギャップの意味を考えること、このギャップを念頭において福沢の研究を進めることが、福沢の再評価には必要なのではあるまいか。

(19) 『福翁自伝』。167頁。 
(20) 『福沢諭吉全集』。20巻。7頁

 本山幸彦氏は、ここで「長州再征に関する建白書」のうちの、最も本質的な部分を抜き出している。すなわち、当時の福沢は、「長州再征」を機に、幕府(開明派)による「幕府絶対権力の確立」を目指す立場に立っていたのである。
 ここで再度、この当時の福沢諭吉を、「保守」的と捉えるべきなのか、それとも「革新」的と捉えるべきなのかを考えてみよう。ここでは、「京師をも御取鎮に相成」と述べている点に注意したい。ここで福沢は、「皇室」、ないし、それを担ごうとする勢力の制圧を提言しているのである。
 どこまでも幕府を支持しているという意味では、福沢は、明らかに「保守」の側に立っている。しかし、幕府(開明派)による「幕府絶対権力の確立」(皇室の制圧を含む)を目指しているという意味では、きわめてラジカルな「改革」の側に立っていると言ってよい。
 本山論文の紹介は、ここまでとし、このあと私は、「長州再征に関する建白書」の全文を引用した上で、その検討に入りたいと思う。しかし、明日は、いったん、話題を変える。

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