◎福沢諭吉には強い政治的野心があった
本山幸彦氏の論文「書翰にみる福沢諭吉」(『教育科学セミナリー』第二六巻、一九九四年一二月)を紹介している。本日は、その二回目で、「2 維新期、啓蒙期の福沢書翰」の初めのところを紹介する。
1 『福翁自伝』の真偽
『自伝』の福沢は、中津藩士としても、後に幕臣になってからも、「世間で云ふ功名心は腹の底から洗ったやうに何もなかった」(4) と、立身出世の欲望や政治的野心が全くない無欲恬淡な人間として描かれている。長崎や大阪での修学中はいうまでもなく、安政 5(1858)年、中津藩洋学教師として江戸に呼び出されてからも、「藩の政庁に対しては誠に淡白で、長い歳月の間只の一度も建白なんと云ふことをしたことはない」、しかも、こうした態度は幕臣になってからも変らなかったと福沢はいうのである。(5)
《扨〈サテ〉江戸に来て居る中に幕府に雇はれて、後にはいよいよ幕府の家来になって仕舞へと云ふので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰って一寸【ちょいと】旗本のやうな者になって居たことがある。けれども是れ亦、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしやうと云ふやうな野心はないから、随て自分の身分が何であろうとも気に留めたことがない。》(6)
あるいは、尊攘対佐幕の政争が激化してきた幕末政局のなかにあっても、福沢は「幕府の門閥制度鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンナ連中に加勢しやうと思ひも寄らず、唯ジット中立独立と説を極めて居た」(7) と回想している。では、歴史上の福沢も果してこの通りだったのか。
万延元(1860)年、幕府が遣米使節団護衛のためと称して咸臨丸をアメリカに派遣したとき、福沢は何とかこの船で渡米したいと考え、かねて出入していた江戸蘭学の総師桂川甫周〈かつらがわ・ほしゅう〉にたのみ、桂川家の親籍にあたる咸臨丸艦長木村摂津守の従僕という身分をえ渡米に成功していた。この福沢の行為は、たんに外国をみて見聞をひろめたいという知的関心だけによるものだったとは思えない。事実、帰国後の福沢は、幕府外国方に雇いとして採用されているのである。福沢の立身出世志向は、外交文書の翻訳を介して政治の方面にも拡がっていく。
福沢の政治志向が『自伝』の自画像を裏切って強くなったのは、文久元(1861)年12月から1年間、幕府遣欧使節の一員として欧州に滞在したことが大きい。このとき、使節を派遣した久世広周〈クゼ・ヒロチカ〉、安藤信正ら、公武合体派の幕閣は、関国、開明政策を実施し、その参考のために、使節団の団員に欧州探索を命じていた。幕命により福沢も国制、軍制、税制の調査に当ったが、それはこの幕閣の改革路線に直結するものであった。(8)
この任務の遂行により、福沢はさらに政治意識を高め、文久2 (1862)年4月11日、ロンドンから国許の家老島津祐太郎に政治意見を具申するようになる。その意見は、中津藩も他の諸藩に負けず、「大変革の御処置有之度、私儀も微力の所及は勉強仕、亡父兄の名を不損様仕度丹心に御座候」(9) と、新知識を武器に藩政の改革に参加したいと決意を表明し、その方法については、「い才〔委細〕の義は帰府の上建白も可仕候得共、先づ当今の急務は富国強兵に御座候。富国強兵の本は人物を養育すること専務に存候」(10)と、藩士教育の緊急なることを説いていた。
帰国後の元治元(1864)年10月、木村摂津守の推挙で福沢は幕府直参となり、外国奉行翻訳方に出仕、扶持米〈フチマイ〉百俵を受ける身分となる。しかし、これも福沢自ら積極的に就職運動をした形跡がある。福沢は帰国の翌文久3(1863)年より、せっせと木村家を訪問しているが、文久3年21回、直参になった元治元(1864)年26回、慶応元(1865)年 1回、2年14回、3年7回というのがその回数である。その度に福沢は黒鯛、鰡(鯔【ボラ】の誤りか)、椎茸、あるいは郷土の名産などを手土産に持参していた。(11)
(4) 〔昆野和七校訂〕『福翁自伝〔復元版〕』(角川文庫)。1953年1月。角川書店。168頁。
(5) 同上。164頁。
(6) 同上。168頁。
(7) 同上。271頁。
(8) 長尾正憲著『福沢屋諭吉の研究』。1988年7月。思文閣出版。142頁
(9) 慶応義塾大学編『福沢諭吉全集』17巻。1961年11月。岩波書店。8頁。
(10) 同上。8頁。
(11) ひろたまさき『福沢諭吉』。70頁
『福翁自伝』において福沢諭吉は、「立身出世の欲望や政治的野心が全くない無欲恬淡な人間」として、みずからを描かれている。しかしこれは、事実に反する、と本山幸彦氏は指摘する。
本山氏によれば、「立身出世の欲望」を持っていた福沢は、木村摂津守喜毅(きむら・せっつのかみ・よしたけ)など、幕府有力者に接近してゆくなかで、強い「政治的野心」を抱くようになったという。
さて、この当時の福沢諭吉を、「保守」的と捉えるべきなのか、それとも「革新」的と捉えるべきなのか。幕府外国方の「雇い」となり、「外国奉行翻訳方」となった福沢は、幕府のために忠勤を励んだ。その意味では、彼は「保守」の側に立ったと言える。しかし、福沢に求められた役割は、幕閣の「改革路線」のために尽力することであった。その意味では、「革新」の側に立ったことになろう。