◎『万葉集』に見られる隋唐時代の口語
二〇一五年六月一日の当ブログに、「日本書紀に見られる口語起源の二字漢語」というコラムを載せた。唐煒(とう・い)さんという女性研究者の労作『日本書紀における中国口語起源二字漢語の訓読』(北海道大学出版会、二〇〇九)の紹介であった。
唐煒さんによれば、日本の正史として尊重されてきた『日本書紀』に、魏晋から唐代にいたる口語・俗語が用いられているという。初めて聞く話だったが、すでに、神田喜一郎(一九四九)、小島憲之(一九六二)、松尾良樹氏(一九八七)らの先行研究があるという。
その後、ごく最近になって、『万葉集』にも、「隋唐時代の口語」が使われていることを知った。瀧川政次郎の「万葉律令考(七)」という論文に、そのことが説かれていた。この論文は、たまたま手にした、雑誌『伝統と現代』の一九六九年二月号「特集 天皇」に載っていた。瀧川によれば、『万葉集』における「口語」についても、瀧川政次郎(一九三四)、井上通泰(一九三八)、神田喜一郎(一九五二)、小島憲之(一九五五・一九六四)らの先行研究があるという。
いずれにしても、瀧川政次郎の博学に驚かされた。
本日および明日、瀧川政次郎の「万葉律令考(七)」から、「一八 唐代俗語」の章を紹介してみたい。引用にあたって、漢文の返り点は省いた。
一八 唐 代 俗 語
小島憲之は、名著『上代日本文学と中国文学』〔塙書房、一九六二・一九六四・一九六五〕に於て、万葉集の用字格を論じ、その中に文言に非ざる中国の南北朝、隋唐時代の口語則ち俗語が用いられていることを指摘しておられる(同書中巻〔一九六四〕、八一九頁以下)。その俗語というのは、「登時」(登)、「為当」、「何物」、「以不」、「若為」(若)、「好去好来」、「好在」等の語であるが、斯くの如き語は、また我が律令の条文、及び養老令の註釈書である令義解〈リョウノギゲ〉、令集解〈リョウノシュウゲ〉等にも、屢【しば】々使用されている。それらの語が万葉集にも使用されているのを見て、私は大いに興味を感じ、昭和九年〔一九三四〕十二月、時潮社から出版した『法史瑣談』の中で、そのうちの「登時」なる語について、解説を試みたことがある。いま中国文学の専家である小島氏の、それらの語についての詳密な考証を読むに及んで、空谷〈クウコク〉に鞏【きよう】音を聞く如く、懐旧の情に堪えない。それらの語の中国の小説類、敦煌【とんこう】変文等に見える例は、小島氏の独壇場で、私が加うべき何物もないが、どうしたことか、小島氏はそれらの俗語について清の趙翼が既に研究していることを見落しておられる。趙翼の『陔余叢考〈ガイヨソウコウ〉』巻四十三には、俗諺二百二十三条、俗語三十五条を説明したものがあるが、その俗語の中には、小島氏の考証しておられる「登時」や「儞」も含まれている。故に私は、小島氏の考証の闕を補い、遺【お】ちたるを拾うと共に、我が律令及びその註釈書に見えるそれらの俗語について述べたいと思う。
(一)登 時
まず趙翼の考証を紹介しよう。
俗謂俄頃間曰登時。亦云即刻。宋書。盧循之走也。劉裕知其必寇江陵。登【スナハチ】遣索邈援荊州。北斉書。祖珽守北徐州。会有陳寇。珽令城中寂然。寇疑人走城空。不復設備。珽忽鼓噪聒天。賊大驚登時退散。旧唐書。武后幸興泰宮。欲就捷路。 韋安石力諫。武后登時為之廻輦。
これによれば、「登時」なる語は、南北朝時代から唐、五代にかけて使用せられたことが知られる。万葉集においては、「登時」の語は七箇所に使用されているが、歌に使用されているのは、次の歌に見るのみで、あとはみな題詞、左注に見えるものである。巻八所収の
霍公鳥鳴之登時君之家爾往跡追者将至鴨【ほととぎすなきしすなはちきみがいへにゆけとおひしはいたりけるかも】(一五〇五)
なる歌が、則ちそれであるが、諸注はいずれもこれをスナハチ、またはソノトキと訓【よ】んでいる。また巻十六の三八六九の歌の左注に
自肥前国松浦県美禰良久埼発舶。直射対馬渡海。登時忽天暗冥。暴風交雨。竟無順風。沈没海中。云々。
とあるのは、「登時」が左注に使用されている一例であるが、「登時、忽」とあるから、この登時はタチマチとよんでもよいであろう。
その律令に用いられている例を挙ぐれば、捕亡令〈ホモウリョウ〉には
凡有盗賊、及被傷殺者、即告随近官司坊里。聞告之処、率随近兵及夫、従発処尋蹤、登【スナハチ】共追捕。
とあり、厩庫律〈クコリツ〉には
凡官私畜産。毀食官私之物。登時殺傷者。各減故殺傷三等。償所減価。畜主備所毀。臨時専制者。亦為主。余条准此。其畜産欲觝齧人。而殺傷者。不坐不償。亦謂。登時殺傷者。即絶時。皆為故殺傷。
とある。前の「登」は、「時ヲ移サズ」の意であり、後の「登時」は、「絶時」に対するものであって、「ソノ場デ」の意である。この厩庫律の条文は、緊急避難、正当防衛を認めた条文であるから、登時殺傷ということが、殺傷の違法性を阻却する要件となっている。故に絶時であれば、その殺傷行為は、故殺傷の罪に問われるのである。
これについて面白い話がある。或る男が醜い面をした友人をヒッポポタマス(河馬)と罵った。醜男はその時怒った様子もなかったが、二、三日経ってその男が醜男に出会った途端、醜男に横づらを殴られた。男は驚いてなぜ殴るのだと言うと、醜男はお前が俺をヒッポポタマスと言ったからだという。男はそれは数日前のことだ、そんなことを根にもたいでもよいではないか、というと、醜男は俺は昨日動物園へ行って、初めてヒッポポタマスを見て来たのだと答えたという。これは鶴見祐輔氏がアメリカで排日問題を論ぜられた演舌の中の一挿話であるが、緊急避難、正当防衛の問題に、一つの問題を投げかける挿話である。醜男が罵言の意を解した時と殴打の行為とは、登時であるかも知れぬが、殴られた男にしてみれば、罵言を発した時と殴られた時とは絶時である。【以下、次回】