◎崇徳上皇の殯柩は白峯山頂で荼毘に付された
『伝統と現代』の一九六九年二月号「特集 天皇」は、本文一七二ページの薄い雑誌だが、内容は、たいへん充実している。なお、この当時の『伝統と現代』は、学燈社から発行されていた。
この号には、谷川健一による『魔の系譜』の連載第二回が掲載されている。『魔の系譜』といえば、谷川健一の代表作のひとつだが、その初出が、『伝統と現代』誌であったとは知らなかった。
連載第二回は、「崇徳上皇(1)」で、特集のテーマによくマッチしている。読んでみると、『雨月物語』を向こうに張る名文であり、思わず引き込まれた。以下に、最初の三ページ分を引用させていただくことにしよう。
魔 の 系 譜 ②
崇 徳 上 皇 (1) 谷 川 健 一
よしや君昔の玉の床とても
かからん後は何にかはせん ――山家集――
(1)
明治と年号が改元される半月ばかりまえのことである。慶応四年八月二十五日、明治天皇の勅使、大納言源朝臣通富、副使三条左少将は、讃岐に下向した。天皇即位の翌日から懸案になっていた、崇徳上皇の御神霊を京都にむかえたてまつるためである。
勅使の一行は阿野【あや】郡坂出村(現在の坂出市)の港に着船し、そこから白峯【しらみね】にある御陵にむかった。一行が白峯のふもと、高屋【たかや】の阿気【あけ】というところにたどりつくと、道の上方にみすぼらしい神社が立っている。高屋という地名から、高家神社というが、一名「血の宮」とも呼ばれる。
その異様な名称のいわれは次のとおりであった。
崇徳上皇が、九年間の流謫の辛苦ののち、四十六歳で亡くなったのは、長寛二年(一一六四年)八月二十六日のことである。上皇の死去当時、その遺骸をどう処置したらよいか。それは上皇側近の一存できめかねることであった。早速、都に上皇の崩御を注進し、おうかがいを立てた。
保元の乱でやぶれた上皇が仁和寺を出発したのは保元元年(一一五六年)七月二十三日であり、難波津から船にのせられ八月三日には松山浦に到着している。その間およそ十日。したがって上皇の崩御を注進するにも往復二十日はかかる。まだ暑い時候であり、上皇の死体の腐敗を防ぐために、泉の水に浸して、復命を待った。二十日めに都からの宣下が到着した。白峯山に葬れとの命令である。野沢井の泉の清水に漬けられていた崇徳上皇の御遺体は、殯柩に納められて出発した。そうしてちょうど前記の場所にさしかかったとき、一天にわかにかきくもり、雷鳴を伴う烈しい風雨となった。夕立か驟雨に見舞われたのでもあったろう。人々は、殯柩を石の上におろし、雨の晴れるのを待った。すると、柩のなかから血が澪れ出して、柩をおいた台の石を染めた。崇徳上皇の霊はもちろん、その御身体にも生きた血が流れていたのである。死後二十日たってなお、まだ死に切っていなかったのである。「血の宮」の呼称はここにはじまった。里人は、血のかかった石を御神体として神殿におさめ、上皇の霊をいまだに祀っている。
「血の宮」を左方に折れて山道にかかる。あるかないかの小径が児【ちご】が嶽【だけ】のふもとにつうじている。そこに「煙の宮」がある。
上皇の殯柩ははこばれて、白峯山頂の西北の石巌の上で荼毘【だび】に付したのであったが、その折、荼昆の煙はたなびいて、児が嶽のふもとに落ちた。
当時の有様を「源平盛衰記」は次のように伝えている。「白峯という山寺に送り奉り焼上奉りけるが、折節北風はげしく吹きけれども、余りに都を恋悲しみ御座【おはしま】しけるにや、烟は都へ靡きけるとぞ、御骨をば必ず高野へ送れとの御遺言有けるとかや。」
里人はこれを大いに畏敬して、煙の落ちたところに宮をたてた。「血の宮」といい「煙の宮」といい、ふつうの神社におよそ似つかわしくない名称である。しかしそこを通らねば白峯山頂へはゆけず、後世を畏怖させた帝の心情を理解することができない。【以下、次回】
冒頭近くに、「大納言源朝臣通富」、「三条左少将」とあるのは、それぞれ、「権大納言(ごんだいなごん)中院通富(なかのいん・みちとよ)」、「三条西公允(さんじょうにし・きんあえ)左近衛少将(さこんえのしょうしょう)」のことか。