礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

エドワール・テッセ、カミュの『ペスト』を論ずる

2021-04-28 02:42:40 | コラムと名言

◎エドワール・テッセ、カミュの『ペスト』を論ずる

 先日、エドワール・テッセ著、小松清訳編の『現代フランス思想の展望』(酣燈社、一九四八)という本を手にとった。中に、「カミュの『ペスト』」というエッセイがあり、これがなかなか面白かった。
 六ページほどの小篇であり、全文を紹介したいところだが、最初と最後の部分のみを、以下に引用してみることにする。

   カミュの『ペスト』

 今年(一九四七年)のフランスの読書季節で非常に反響のあつた書として、カミユの小説『ペスト』があげられてゐる。その題名がしめすやうに、それは北阿〔北アフリカ〕の一都市オランに起つたペストの流行といふ架空的な物語をとり扱つたものである。
 この作品は、中世紀の史家にならつて、年代記【クロニツク】の形式でかかれてゐる。中世の史家には、彼らの叙述する歴史的な出来事のプロセスのうちに、彼らの個人的な省察や哲学的な断想をおりこむといつた習慣があるが、カミユの「ペスト」のうちにも、そのやうな省察や断想がみてとられる。 .
 作品の主人公はリィユウ医師である。貧しくて教育的なこの医者の感情は、カミユのそれを代表してゐる。フランスの中都市にみられる、あらゆる特長をそなへた都会【まち】の無事平穏な地方の都会に、突如としてペスト病が発生する。最初のあいだは、住民はペストだといふことを信じようとしない。とくに知事がさうである。そのうちに、流行病はだんだん恐ろしい勢ひでひろがつてゆくので、何とか厳重な予防法を講じなくてはならなくなつた。
 ここで興味あることは、伝染病の脅威のお蔭で、平時ならば見当のつかぬ人々の性格があらはに浮びあがつてくることだ。彼らの日常的習慣などといつたものが、ペストによつて根から揺すぶられたわけである。この暴露は小説『ペスト』の覗つてゐるものの一つであると云へよう。
 かうした堪えがたい雰囲気――虚妄の雰囲気といつてもよからう。何故なら、ヨーロッパでは数世紀この方ペストの流行はないから――のうちに、まつたく新しい生活がこの都会【まち】に強制的にはじまる。かつての日常生活を支配した生存形式の場合と同じやうに論理的な生存形式が別なかたちではじまり、住民たちに新しい暮し方をおしつける。誰も彼も、一様にこの伝染病にかかる可能性があるからである。ここで特記しなくてはなちぬのは、カミユが社会的な角度から、これらの人間の動きを描くことに止まつてゐないことである。それくらゐのことなら、さして困難な業【わざ】でなく、多くの作家の興味をひきつけたにちがひなからう。ところが、カミユは、そのやうな描写に足踏みしてゐないで、それらの人間たちの性格を心理的に、哲学的に描くところに重心をおいた点である。『ペスト』の第一義的な興味は、そこにあり、またその存在理由もそこにあるといへよう。

【中略】

 この作品が、われわれにのこす印象は、人生にたいする楽天的な、そして同時に不安定な印象である。カミユは、その結論を、このやうな言葉であらはしてゐる。
「悪疫のさなかで学び得たことは、人間のうちには、感嘆すべきものが、侮蔑すべきものより多くみられたといふことである。」
 しかし、さう云つてから、すぐあとで――悪疫から解放された住民の欣喜の叫喚を描いてから――カミユはわれわれを警めてゐる。
「ペストの病菌は死なぬ。また消えてなくなるものではない。この菌ときたら何十年間でも眠つてゐることがある。……恐らく、或る時がくれば、人間の不幸のため、そして間を教へるために、ペストはその鼠どもを呼びさまし、彼らを幸福な都会【まち】におくつて、そこで死なせるかもしれない。」
 カミユが、われわれに教へようとしてゐることは、文明にとつて大きな課題となるものである。それは、はたして人間は、神や或は合理主義の援けをからずとも、己れの力だけで人間の価値を創造しうるや否やといふ問題である。
 かくしてカミユの途は、『ペスト』の人々の途と同じく、一切の教義【ドクトリン】といつたものと――それがキリスト教であらうと、或は共産主義であらうと――袂【たもと】を分つた人々の進んでゆく途であるだらう。このやうな彼の立場だけでも、彼に具はつた文学的な才能と相俟つて、カミユを現代における最も力強い作家の一人とするに足るのである。   小松 清訳

 筆者のエドワール・テッセ(Edouard Theysset)は、当時、駐日フランス代表部員。この外交官・文人については、『現代フランス思想の展望』の訳編者である小松清(一九〇〇~一九六二)が、巻末の「編者の言葉」で詳しく紹介している。

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