◎高杉、木戸らが国事を談じた暁天楼を訪ねる
火野葦平は、一九四四年(昭和一九)九月に、「歴史の歩み」という文章を発表した。昨日のブログでは、火野葦平が前田台場址に立って、「関門海峡の一発」を振り返っている部分を紹介した。
そのあと火野は、山陽電気鉄道鳥居前駅で下車して功山寺を訪ね、ついで松小田(まつおだ)駅で下車して、白石正一郎邸と暁天楼を訪ねている。このうち、暁天楼を訪ねたところを引いてみたい。
松崎神社の古びた石燈籠のならんだ石段をのぼると、正面に朱塗の柱の絢爛とした天満宮の社がある。裏は佐加太利公園である。石段をのぼり切ると、三田尻の町が一眸に見わたされる。「春もややけしき調ふ月と梅 芭蕉」とある句碑の横をぬけて松林にはいると、崖のうへに一軒の粗末なバラツク建の飲食店がある。道を聞きがてら、そこでうどんを食べる。まるまると太つた色の黒い純朴な婆さんが、たつた一人でがらんとした店のなかで、手籠でうどんをあたためる。
「お婆さん、このあたりに暁天楼といふのがあるのを知りませんかね。」
私はうどんをすすりながら訊いた。
「はあい、ぎよてんろですか。よう、わしら知りませんがのんた。なんでも、この裏ん方に、なんかそんなものがありますい。坂本龍馬てら何てらいふ侍が、来たとか来んとかいひますが、わしらついはあ、なんべん聞いても、ぢき忘れてしまひますでのんた。」
私はうどんを二杯食べてそこを出た。(序に、このうどんは、油揚げ、卵やき、葱などのたくさん入つた、近来稀に見るううまい汁のうどんで、おそらく日本で何番目かであらう)
暁天楼はそこからすぐ裏手の閑寂な疎林のなかにあつた。社殿からは西北へ一町ばかりだ。二階建のごく粗末な建物である。屋根は傾いて落松葉をかぶつてゐる。二階は六畳二間しかない。これはもと〔下関〕市内宮市前小路の藤村といふ人の邸にあつたのを、最近ここへ移築したと、案内の高札に書いてある。あとで、松崎神社の社務所で神主さんから往年の藤村邸の絵図面を見せてもらつたが、大きな邸宅の極く一隅にこの暁天楼はあつたらしい。下は通路になつてゐて、二階で志士たちが会合をしてゐたのだ。
「もともと旅館ではなかつたのを、志士たちが宿屋をしろといつて勧めたのだと藤村の当主はいつてゐます。この建物は物置か納屋のやうなものだつたやうです。高杉、木戸、井上、伊藤、山県、品川、坂本などといふ人たちがさかんに往来して国事を談じてゐたんですね。下は通路になつてゐるので、目だたないのでここを選んだものでせう。見張りは立ててゐたのですが、下の土間には漬物桶を置いたりして、いまの言葉でいふと、カムフラージユしてゐたさうです。入こんでゐだ間者を斬つたこともあるさうですが、間者がかくれてゐた立木もいつしよに伐つたといふ、その木が残つてゐます。また、思ふやうにいかないことが多かつたので悲憤のあまり、刀を抜いて柱などを切りつけたらしく、刀痕もあります。藤村の本屋の方には七卿も来て、茶など汲んだこともあるさうです。暁天楼といふのは、あとからつけた名です。」
神主さんの話をききながら、私は、高杉晋作が三田尻の船宿の行燈に書いたといふ詩が、尊攘堂〔功山寺境内〕にあつたことを思ひ出してゐたが、志士たちも随分あちこちしたものだと感にうたれた。
ここで火野葦平は、高杉、木戸らが国事を談じた暁天楼を訪ねている。史蹟と言えば史蹟だが、要するに、当時の革命家たちのアジトである。
それにしても、あいかわらず、達者な文章である。特に、うどんの描写が印象的である。火野が、「日本で何番目か」とまで誉めたことについては、「外食」が困難になっていた当時の食糧事情を考慮する必要があろう。【この話、続く】