礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

陸奥・出羽ノ賊徒ヲバ速ニ鎮メ定メテ

2021-04-15 01:55:02 | コラムと名言

◎陸奥・出羽ノ賊徒ヲバ速ニ鎮メ定メテ

『伝統と現代』一九六九年二月号所載、谷川健一『魔の系譜』連載第二回の初めの部分を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

 白峯の山頂にのぼる途中、今は展望台になっている場所が山道の脇にもうけてある。そこからは坂出市はもちろん、瀬戸内の島々が一望に見渡せる。崇徳上皇がしたたる血で五部の大乗経の奥に魔王となる誓文を書き、それを海底に沈めたといわれる椎途〈ツチノト〉の海(松山の海)が見えるのである。
 今日、西国八十一番の札所となっている白峯寺からすこしはなれたところに崇徳上皇の御陵がある。大きな羊歯類や一つ葉のような植物が見られ、風や雪にたおれた木が、ゆくてをさえぎる。枯木には何という鳥か無数に群れて飛び交っている。そうした行きづまりに御陵はある。御陵への道は数年まえまではあたりがうっそうと昼なお暗く、数メートルさきは見えない位であったという。
 御陵の北側の背後は、数十メートルの断崖絶壁になっている。これが児【ちご】が嶽【だけ】であり、雨月物語の「白峯」に「児が嶽という嶮【けわ】しき嶽背【みねうしろ】に聳【そば】だちて、千扨の谷底より雲霧おひのぼれば、咫尺【まのあたり】をもおぼつかなき心地せらる。木立わずかに間【すき】たる所に、土墩【つちたか】く積【つみ】たるが上に、石を三かさねに畳みなしたるが、うばらかずらにうずもれてうらがなしきを、これなん御墓【みはか】にやと心もかきくらまされて、さらに夢現【うつつ】もわきがたし」とのべている箇所である。
 西行が白峯陵をおとずれたのは、仁安二年か三年の秋であり、祟徳上皇がなくなられて三、四年しか経っていない頃のことであった。その後白峯陵はなんども修築されて、慶応元年にもそれがおこなわれたが、その雰囲気は勅使一行が御陵のまえに立ったときも殆んど変りなかったはずである。勅使が御陵の前に立ったその日は、崇徳帝の命日にあたる八月二十六日であった。勅使はうやうやしく額づくと、明治天皇の宣命〈センミョウ〉を崇徳帝の御神霊のまえによみあげた。

 天皇我詔旨登【すめらみことのみことのりと】挂巻母畏伎讃岐国阿野郡【かけまくもかしこきさぬきのくにあやのこおり】白峯山陵爾鎮座須【しらみねのみささぎにしずまります】崇徳天皇乃御大前爾【すとくすめらみことのみまえに】恐美恐美母申給波久登申佐久【かしこみかしこみももうしたまわくともうさく】去志保元乃年頃【すぎしほうげんのとしごろ】忌々志伎御事与利起利弖【いまいましきおんことよりおこりて】其終爾波海路遥祁伎此国爾佐閉行幸氐【そのついにはうなじはるけきこのくににさへいでまして】御鬱憤乃中爾崩御良世賜閉留波【ごうつぷんのなかにかむあがらせたまへるは】何奈留禍神乃禍事爾夜有祁牟【いかなるまがつかみのまがつことにやありけむ】最母畏久悲伎時乃極美登【いともかしこくかなしきことのきわみと】常爾難伎思食須【つねになげきおもほす】此者素先帝乃叡慮奈利志爾【こはもとさきのみかどのえいりよなりしに】其事乎果志賜波受【そのことをはたしたまわず】此現世乎神去給比伎故【このうつしよをかみさりたまいきゆえ】今度其大御意乎継志氐【こたびそのおおみこころをつぎして】尊霊乎迎閉奉利【そんれいをむかえたてまつり】其御鬱憤乎和米奉利賜波牟登思食氐【そのごうつぷんをなごめたてまつりたまわむとおもほして】皇宮爾最近伎飛鳥井町爾【すめみやにいやちかきあすかいまちに】清祁伎新宮乎造利設立【さやけきしんぐうをつくりもうけたち】二位権大納言源朝臣通富乎差使弖【にいごんだいなごんみなもとのあそんみちとみをさしつかわして】尊霊乎迎閉奉利賜布故【そんれいをむかえたてまつりたまうゆえ】此由乎平久安久聞食氐【このよしをたいらけくやすらけくきこしめして】速爾多年乃宸憂乎散志【すみやかにたねんのしんいうをちらし】御迎人登共爾皇都爾還坐氐【おむかえびととともにこうとにかえりまして】天皇朝廷乎常盤爾堅盤爾【すめらがみかどをときわにかきわに】夜守日守爾護幸反給比【よのまもりひのまもりにさきわへてたまい】此頃皇軍爾射向比奉留【このころこうぐんにいむかいたてまつる】陸奥出羽乃賊徒乎波【むつでわのぞくとをば】速爾鎮定米氐【すみやかにしずめさだめて】天下安穏爾護助賜反登【あめがしたおだやかにまもりたすけたまへと】恐美恐美母申賜波久登申【かしこみかしこみももうしたまわくともうす】
    慶応四年八月十八日

 こうして勅使は崇徳上皇の御神霊に還卸を乞うと、あくる二十七日、上皇の御遺影を神輿に奉じ、御遺愛の笙〈ショウ〉を副えて、日没時に下山した。二十八日に坂出港を出発、九月五日に京都に還った。高松藩主松平頼聰が命を受けて、伏見に奉迎し、神輿にしたがった。飛鳥井町の新しい神廟に崇徳上皇の神霊は祀られた。じつに帝の死後七百五年目のことである。
 右に掲げた宣命にあるように、崇徳上皇の御神霊を京都に呼び迎えることを計画したのは、孝明天皇である。慶応二年京都の飛鳥井町(現在は上京区今出川堀川東飛鳥井町)に白峯神社の造営が企てられたが、孝明帝の死去によって、先帝の遺志を明治天皇がついだのである。【以下、略】

 文中に引用される「明治天皇の宣命」は、いわゆる「宣命体」で書かれている。「天皇我詔旨登」の我(が)・登(と)、「挂巻母畏伎」の母(も)・伎(き)は、助詞や活用語尾に相当するもので、原文では、小さく表記されている(宣命小書体)。ルビは、旧かなづかいと新かなづかいが混ざっているが、これは谷川健一によって施されたものであろう。
 谷川健一『魔の系譜』の紹介は、以上で終えるが、「宣命体」については、機会を改めて、若干の補足をおこないたい。
 明日は、「保守主義」の話に戻る。

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