礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

火野葦平「歴史の歩み」(1944)を読む

2021-04-25 02:40:21 | コラムと名言

◎火野葦平「歴史の歩み」(1944)を読む

 先日、神保町の某書店の店頭で、貴司山治編『勤王史蹟行脚』(鶴書房、一九四四年九月)を買い求めた。古書価一〇〇円(税込)。
 この本は、六名の作家が「勤王史蹟」を探訪した記録を集めたもので、その目次は、次の通り。

勤 王 史 蹟 行 脚
 大 和 の 巻       大 佛  次 郎
 水 戸 の 巻       貴 司  山 治
 長 州 の 巻       火 野  葦 平
 土 佐 の 巻       海音寺潮五郎
 京 都 の 巻       尾 崎  士 郎
 薩 摩 の 巻       村 松  梢 風

 ざっと読んでみたが、火野葦平の長州の巻「歴史の歩み」が、特に良かった。本日は、その最初の節「前田砲台址に立つ」を紹介してみたい。

 勤王史蹟行脚の三   〔長州の巻〕 
      
    歴 史 の 歩 み     火野 葦平

     前田砲台址に立つ
 長府行電車〔山陽電気鉄道〕のあがり口に白い一銭が一枚落ちてゐた。途中の停留場から乗りこんで来た三人づれの魚屋のおかみさん風の女の一人が、ここにお金が落ちとりますよと車掌に教へた。すると若い車掌はつけつけした声で、いらん心配せんで早よ乗んなさいといつた。おかみさんは、教へてやつておこられたと笑ひながら、私の横に来た。私はその前垂〈マエダレ〉姿のおかみさんに、前田台場の位置をたづねた。おかみさんは口で地図をかくやうにしながら丁寧に教へてくれた。それから、下関は歴史の多いところでしてな、といひ、電車が壇之浦岸に沿つて走りながら、御裳川〈ミモスソガワ〉の橋に来ると、平家がここで亡びなさつたさうなといつた。電車の窓から海岸寄りに、「壇之浦台場址」といふ立札が見えた。 
 前田で降りる。天気はよいが強くつめたい海風が吹きつける。道傍で独楽〈コマ〉をまはして遊んでゐる子供たちにまた場所を聞く。石垣のうへだといふ。十段ほどの石段を道路から登る。そこに「前田御茶屋台場址」の花崗岩の碑が立つてゐる。そこから狭い路を抜けて、だらだら坂をあがると一軒の家の前に出た。紀元節なので旗が出てゐる。すぐに門の柱に「誉の家」の札があるのが目についた。垣が張りめぐらしてあつて、台場址はどうもこの家のなかにあるらしい。勝手口から入り、案内を乞ふと、朴訥な風情の老年の女のひとが出て来た。
「前田台場を拝見したいのですが。」
 別に前田台場がこの家の所有でもあるまいが、家のなかにあるらしいので、さういはねば仕方がない。
 老媼は、かへつて向ふが恐縮したやうに、へり下つた口調で、そこの道をまつすぐ行きましてから、谷にかかつた小さい木橋をわたつて、細い坂道をすこし上りますと台場へ出ます、と教へてくれたが、話の途中から、下駄をつつかけて、案内に出る様子である。もうわかるからといふのに、こつちは大体裏道で、もとは表から上れよつたのですが、崖が壊え〈ツイエ〉ましたので、とすまなささうに弁解しながら、二町ほどの山道をすぐ台場の下までついて来てくれた。家は瀟洒な凝つた建物で、貝島の別荘といふことである。誰もゐず、戸はすべて閉められてゐる。老媼は別荘番で、名を増岡ヒデさんといつた。息子が出征をしてゐるといふ。私はいつしよに落葉の散りしいた森林の路を行きながら、かういふやうな素朴で親切な鄙びた昔の人といふものはだんだん減つて行くと思つた。
 足の下で踏みつぶされる松かさがはじける音を立てる。昔のままの道であらう。この道を台場へ通ふ当時の兵隊たちがたえ間なく往来したであらうし、このあたりで西洋の兵隊とはげしく闘つたのであらうなどと、その当時のありさまを頭に描きながら、曲りくねつた細い山道をのぼる。
台上に出ると、林を透して、遽か〈ニワカ〉に眺望が展けた。台場のあつたといふところは、二間四方くらゐの広さにセメントで塗りかためられてあるが、位置を示すために、おそらく後になつて作つたものにちがひない。起伏に富んだ九州の山々が対岸に望まれる。関門海峡はきらきらと眩しく光る。行き交ふ多くの船。海から来る風に周囲の林がたえ間なく波の音のやうに鳴る。
 私は松風のなかに立つて、海に対しながら、無量の感慨に捕はれる。歴史といふものの推移のはげしさが、巨大な重量のごとく、私のうへにのしかかつて来る。現在、大東亜戦争の決戦下にあつて、世界を睥睨してゐる今日の日本の黎明が、まだ百年にも満たない前、この関門海峡の一発の砲声から起つたのである。まことにこの地は、尊王攘夷の大義の発祥地であつた。国内においては、諸説紛々として議の定まらぬとき、攘夷決行の期日と定められた当日、文久三年五月十日、長州では敢然として米国商船ペンブローク号を砲撃した。ついで、二十三日には仏船を、二十六日には蘭船を、といふ風に、片端から、関門海峡を通過する外船を砲撃した。これにしたがつて、長州戦争、外国連合艦隊の下関攻撃などの騒擾が起り、その危急の間にあつて、剽悍な長州の志士たちの心の底には、いよいよ勤皇尽忠の決意が火となつて燃えあがつたのである。【以下、略】

 文中、「貝島」とあるのは、貝島炭鉱、もしくは、その創業者・貝島太助のことであろう。
 火野葦平の「歴史の歩み」は、何よりも文章が良い。また、「大東亜戦争の決戦下」、下関の前田台場址に立って、幕末以来の日本史を回顧するという設定も良い。
 文久三年に下関で放たれた攘夷の一発は、巡り巡って、「大東亜戦争」という攘夷の決戦に到ることになった。前田台場址に立った火野葦平は、その間の「歴史の歩み」について、何をどう考えたのだろうか。「尊王攘夷の大義」を確認したのみではなかった、と思いたいところである。

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