◎田邊朔郎博士の震災体験(1925)
吉波彦作著の『漢文研究要訣』(大同館書店、一九二五)を紹介している。その「緒言」によれば、著者が同書を脱稿したのは、一九二三年(大正一二)七月だった。その直後に、関東大震災があり、同書の刊行は、一九二五年(大正一四)三月まで延ばされた。その間に著者は、元の原稿に「訂正増補を加へた」という。
同書の第三篇「支那時文」の第四章「雑報類」を見ると、そこに「日本田邊博士之地震談」という一文が引用・解説されている(四七八~四八二ページ)。「増補」された部分のひとつである。本日および明日は、これを二回に分けて紹介したい。
◎日本田邊博士之地震談
某東報云。東京帝国大学教授田邊朔郎工学博士。全家避暑於箱根強羅之別荘。此次地震之時。闔家二十余名。二日露宿於野。三日朝跋渉至三島。雇汽車出沼律。以脱危地而帰。其語人曰。一日正午前。突然聞異常之山鳴。同時感覚有上下震動之状。幸余所住房屋。用柱極多。墻壁亦軽。普通地震不能崩潰者。詎此次突然震動。立覚不穏。亟行趨出。而地面亀裂。又家中両次震動来襲。壁土剝落而窓戸亦倒。見勢不佳。奪命逃竄。至停車場。共集一処。無何。宮之下方面。火燄騰空。群衆以飲食無資。乃逃出宮城野。計程九里許。沿途道路破壊。橋梁坍陥。状殊可険。当其震動時。上下動蕩連続而起。山岳崩墜。往々而見烟硝揚於空中。驚恐溢於顔色。余此時絶無我見。已覚此身非吾有。順乎気之所致而逃出。鎮定心神。更為科学上之考究。而察其性質及方向。則小田原一帯。 已為大火而変為黒烟。人間世界頓成雲霧界。時又有双子山之爆発。斯時不安之念。達於極度。
出典は明記されていないが、これが、「日本田邊博士之地震談」と題された「支那時文」の前半である。句読点は原文のまま。
この原文の上に、若干の頭注がある。「東報/日本の新聞をいふ」、「汽車。自動車のこと。」、「奪命。一生懸命といふが如し。」、「無何。いくばくもなく。」など。
以下は、著者・吉波彦作による訓読。【 】内は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による注。
〔訓読〕 ◎日本田邊博士の地震談
某東報に云ふ。東京帝国大学教授の田邊朔郎工学博士は、全家暑を箱根強羅〈ゴウラ〉の別荘に避けたり。此の次【たび】の地震の時、闔家〈コウカ〉二十余名、二日野に露宿し、三日の朝跋渉〈バッショウ〉して三島に至り、汽車〔自動車〕を雇ひて沼津に出で、以て危地を脱して帰れり。其の人に語りて曰く、一日正午前、突然、異常の山鳴を聞き、同時に上下震動の状あるを感覚せり。幸に余の住する所の房屋は、柱を用ふること極めて多く、墻壁〈ショウヘキ〉も亦軽く、普通の地震には崩潰する能はざる者なり。詎〈イズク〉んぞや此の次〈タビ〉突然震動し、立〈タチドコ〉ろに不穏を覚え、亟【すみやか】に趨出を行ふ。而して地面亀裂し、又家中も両次の震動来襲して、壁土剝落して窓戸亦倒る。勢の佳ならざるを見、奪命逃竄し〔命からがら逃げまわって〕停車場に至り、共に一処に集る。何〈イクバ〉くも無く、宮の下方面に火燄空に騰〈ノボ〉る。群衆飲食の資無きを以て、乃ち宮城野を逃出せり。程を計るに九里許り。沿途の道路破壊し、橋梁坍陥〈タンカン〉し、状殊に険なる可し。其の震動の時に当り、上下の動蕩連続して起り、山岳崩墜〈ホウツイ〉し、往々にして烟硝の空中に揚るを見る。驚恐顔色に溢る。余〔わたし〕此の時絶えて我見無く〔自分を見失い〕、已〈スデ〉に此の身吾が有〈ユウ〉に非らざるを覚え、気の致す所に願ひて逃出し、心神を鎮定して更に科学上の考究を為せり。而して其の性質及方向を察するに、則ち小田原一帯、已に大火と為り而して変じて黒烟と為る。人間世界は頓〈トミ〉に雲霧界と成れり。時に又双子山〈フタゴヤマ〉の爆発あり。斯の時不安の念は極度に達せり。
原文の「全家避暑於箱根強羅之別荘」を、「全家暑を箱根強羅の別荘に避けたり」と読んでいるが、日本語としては、「全家箱根強羅の別荘に暑を避けたり」のほうが自然であろう。また、原文の「出沼津」を「沼津に出で」と読んでいるが、一方で、「逃出宮城野」を「宮城野を逃出せり」と読んでいる。前者に習うならば、後者は「宮城野に逃出せり」と読むべきではないか。
文章の後半の紹介は、明日。