中国提出の南京大虐殺資料がユネスコ世界記憶遺産に登録されて、日本政府が抗議しています。このことについて少々。
早乙女勝元氏が1989年に出版した「南京からの手紙」(草の根出版会)というルポルタージュが手元にありました。現地見学や聞き取りを、当時の多くの写真なども入れてルポにしたものです。そこに30万人説の根拠が載っていますので、改めて紹介してみます。これが中国政府の公式見解に近いものだろうと見てのことです。こういう数字を色々戦い合わせることによってきちんとした資料ができあがっていくのだと思います。
以下の推定死者数の語り手は、南京大学歴史系副教授(当時)の高興祖さん。
『当時1937年の南京市の人口は、国民政府調べで、約百万(正確には百一万九千人)。南京陥落後、政府とともに西へ避難した者約二十万人、いちはやく他の都市へ避難した者二十万人余。そして日本軍の虐殺後、南京に残留していた者二十万人余。これに市外から逃げてきた難民と南京を撤退しおくれた中国軍兵士あわせて十万人近くを加えると、合計七十万人。「それ故、前述百万人から、これらの人々を加減した残りの人々が、皆日本軍の虐殺されたことになり、三十万人が日本軍に虐殺されたのは疑うべくもないのである」』
なお、この本には、重傷を負いながら生き残った女性2人、男性2人などの体験証言が載っていました。当時の南京市街や日本軍の一般的行動の有様がよく分かります。
なお、日中学者が集まった検討会での日本側の結論はこうです。死者は、20万人から4万人まで。この数字自身が非常に無責任極まりないように僕には思えますが、皆さんいかがでしょうか。特に強調したいのはこれです。日本の方は政府、軍部両方の証言とか、資料等は残していないも同然と、このことは非常にはっきりしています。当時の中国は戸籍が非常にイー加減だったことを良いことにしてのように。上海・南京戦の前に日本軍が兵に対してわざわざこんな教育をしていたほどです。
『なお、33年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」には、こういう一文があるという事実も付記しておきたい。わざわざ、兵にこう教えていたのである。
「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『餓死した英霊たち)。(同上書)』(当ブログ15年9月30日拙稿より抜粋)
またなお、この問題での当ブログ論争はずっと続いてきており、例えばこんなものも紹介したいです。『夏淑琴さん 東京高裁でも勝訴 へそ曲がり 2008年05月31日』。この夏淑琴さんは、上記早乙女さんルポにおける体験取材聞き取り人4人の内の一人にも入っています。
早乙女勝元氏が1989年に出版した「南京からの手紙」(草の根出版会)というルポルタージュが手元にありました。現地見学や聞き取りを、当時の多くの写真なども入れてルポにしたものです。そこに30万人説の根拠が載っていますので、改めて紹介してみます。これが中国政府の公式見解に近いものだろうと見てのことです。こういう数字を色々戦い合わせることによってきちんとした資料ができあがっていくのだと思います。
以下の推定死者数の語り手は、南京大学歴史系副教授(当時)の高興祖さん。
『当時1937年の南京市の人口は、国民政府調べで、約百万(正確には百一万九千人)。南京陥落後、政府とともに西へ避難した者約二十万人、いちはやく他の都市へ避難した者二十万人余。そして日本軍の虐殺後、南京に残留していた者二十万人余。これに市外から逃げてきた難民と南京を撤退しおくれた中国軍兵士あわせて十万人近くを加えると、合計七十万人。「それ故、前述百万人から、これらの人々を加減した残りの人々が、皆日本軍の虐殺されたことになり、三十万人が日本軍に虐殺されたのは疑うべくもないのである」』
なお、この本には、重傷を負いながら生き残った女性2人、男性2人などの体験証言が載っていました。当時の南京市街や日本軍の一般的行動の有様がよく分かります。
なお、日中学者が集まった検討会での日本側の結論はこうです。死者は、20万人から4万人まで。この数字自身が非常に無責任極まりないように僕には思えますが、皆さんいかがでしょうか。特に強調したいのはこれです。日本の方は政府、軍部両方の証言とか、資料等は残していないも同然と、このことは非常にはっきりしています。当時の中国は戸籍が非常にイー加減だったことを良いことにしてのように。上海・南京戦の前に日本軍が兵に対してわざわざこんな教育をしていたほどです。
『なお、33年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」には、こういう一文があるという事実も付記しておきたい。わざわざ、兵にこう教えていたのである。
「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『餓死した英霊たち)。(同上書)』(当ブログ15年9月30日拙稿より抜粋)
またなお、この問題での当ブログ論争はずっと続いてきており、例えばこんなものも紹介したいです。『夏淑琴さん 東京高裁でも勝訴 へそ曲がり 2008年05月31日』。この夏淑琴さんは、上記早乙女さんルポにおける体験取材聞き取り人4人の内の一人にも入っています。
さて、中国の指導部はこの話を大袈裟にやる予定は無いだろう。習近平は今弾けそうな国内経済や不安定な権力基盤のSOSを日本に求めているから。特に経済は。
AIIBへの参加も水面下ではかなり求めているらしいね(笑)。
だから今回の件で日本の態度が硬化するのを恐れている。
何事もやりすぎは良くないってことだよ。
だからこちらもあくまで外交カードのやり取りとして進めないとバカをみる。
机の上じゃ握手しながら下では蹴っ飛ばし合う位やらないと駄目だよな(笑)。
色々と残念。
日本政府は、抗議しているようですが、さて、どうなる事やら。
取り敢えず、あの国とは距離を置くのが、正解ですね。
案外、そうでもないね。
そもそも、日本政府と同じで、うやむやにして、笑っているだけという品のなさである。加害者の立場なのに。
まず、外交カード側面があったとして、そのどこが悪いか。ほぼどこでもそうどころか、日本やアメリカは外交カードよりも遙かに悪い「(嘘の理由含めた)有志国戦争」である。こんな声を聞いたならなお、ユネスコは被害者の方の資料を取り上げるだろう。それを否定できはしない。
両者の共通項を取った虐殺十数万なら、立派な世界記憶遺産になろう。直前の上海「事変」でさえベルダン要塞戦以来の激戦と言われて、死者19万人だったか? 宣戦布告なしに、酷い戦争をしたものだ。国連から違法戦争と断定された満州事変の上に、この惨劇だから余計にそうだろう。
それを上のように書く。世も末だね。
まんまと相手の手の内で踊らされているようなもので。だから中国はしたたかだねと。この中国に乗っかって誤報や捏造をやってボコボコになった朝日新聞はアホの極みだと思うが。
その6年後の8月から11月までが上海戦争、その直後12月から翌年までが南京大虐殺である。
これらすべてを連合国史観と切り捨てて何の反省も語らないような輩にみえるよ。
1945年の終戦後、時の政府要人たちは自分らの「戦争犯罪」についてはじめこう考えていたようだから、笑える。米国中心で裁くのだから、太平洋戦争だけが裁かれるのだろうと。当時としては比較的リベラルといわれていた天皇も近衛もそう思っていたからね。
ところが、東京裁判は、満州事変から裁き始めた。太平洋戦争は止めようとしたとの自負がある近衛は、自分が裁かれると分かった直後に自殺した。
残った文書を信じたしまうと大間違いという例として僕はいつもこれを出す事にしている。200年後のある高校生が今の憲法9条を読んだ時、世界有数の軍隊が存在したなどとは、まず誰も思わないはずだ。若者は文章を信じやすいのに対して、大人は、れっきとした政府でも、平気でこんな大嘘をつくのである。
南京虐殺は、加害者・日本側は資料を消してしまった。兵士証言等を集めれば、実体は残されただろうに、そんなことは全くしていない。他方当時の中国側は、戸籍さえ不十分であった。
そこで正しい実証方向を辿るのには、推理、総合判断も重要になる。状況証拠など、背景を総合的に考えるということだろう。最低これぐらいの知識は必要だと、この討論を続けた僕は、つくづく思ったところである。
①中国侵略の第一歩、満州事変の知識。
②南京事件直前の上海大戦争と南京包囲戦のつながりの知識。この戦乱の苛酷さ。
③自国の平民の命がどう扱われていたか。それと比較して、相手国民への蔑視がどれだけあったか。日本は南方の兵士や沖縄を見捨てたのだから、その人権意識は先進国としては極めて低かったろう。ましてや、3か月の激戦で仲間を殺された敵国国民に対しては、おそらく同じ人という感覚は持ってはいまい。
歴史学者もこういう総合判断をしつつ、実証の方向を狙い定め、限定していくのであろう。こういう人間の思考方法は、自然科学でも同じはずだ。
U+2461当時の中国は戸籍がイー加減。
この2つの事実から考えられる答えは、U+2460から出てくる数字もU+2461から出てくる数字も根拠が乏しくあてにならないという答えしかないんじゃないのかね。
あとはどちらに肩入れするかの問題だが、それは数学的根拠は無くあくまで気分の話になると思うが。
毎回この話をみるにつけ、どちらも数字的裏付けが無く説得力に欠けるんでよくわからないんだよね。
で、更に残虐非道な話がかぶさってくるんで数の話が消えてくるんだが。この2つは分けた方がいいと思うけどね。