今回は、同じ同人誌仲間のT・Hさんの随筆を紹介する。とてもお話のうまい人、職業婦人をずーっと通されてきた方だ。昔は軍国少女だったと聞いたことがあって、僕よりも一世代近く上の方とお見受けしてきた。誠実ということを絵に描いてちょっと珍しいほどの方だと僕は観てきたが、ここに書かれたようなことがその原点となっておられるのでもあろうか。
【 刺 T・H
ある時同人誌の友人が子どもの頃、学校で出会った教師の事を書いておられた。
それを読み当時国民学校といっていた教室の長い廊下にひとり座り込んでいた自分の姿が重なった。
あれは、五年生の時だった。理由は何であったか今では思い出せないが、となりの席の友達と大げんかになり、私は負けじと大声を出した。だれも止めてくれなかったのは、放課中だったからか、友達は職員室へ走り込んで告げた。その時の担任は中年すぎの女教師。
「あの人は、ああした病気だから相手にならないように気をつけなさい。病人だから……」と。
教室にもどった友達は勝ち誇ったように教室の中で大きな声で言った。
ああした病気。病人……。私は顔をひきつらして言葉を失った。
なぜ理由を。どうして一方的にと……。でもそれを言葉で言えず、私は奥歯を鳴らしていた。
それから私は変わった。学校へは行くだけ、教科書も開かず、帳面には何も書かず、机の前に居るだけになった。注意されると、「ああした病気だから読めん。書くこともできない」と、立ち上がり、徹底して反抗し、教室から出て廊下に座り込んですごした。
そんな事が許される筈はなく、母親は何度も呼び出され、ある時は校長にまで注意をされ、家では叱られっぱなし。
変わった子。強情っぱり。泣かない子。などのレッテルはいっぱい。
当の教師には、反抗するいやな子とまで言われた。廊下では他の教師からも叱られからかわれたりで、今だったら登校拒否児となっていただろうが、、家で叱られているよりも、廊下でのひとりがよかったのか、わからないまま毎日学校へは行っていた。
そんな私にうす笑いをしながら通りすぎる教師にまで悪く言われ、私はますます強く反抗した。途中で抜け出して帰ると叱られるのがいやで、まわりの田んぼ道で花をつんだり、川原でとんぼや小さな魚を見てすごして家に帰ることもたびたびだった。
返事もしないで、ぎらぎらと反抗ばかりの日々。教師は間違っていない。反抗は悪。ということだったのか。友達はおもしろがってはやしたて、からかい。私は放っておかれた。
両親も仕事の忙しさに追われ、学校の呼び出しに困惑し、叱りつけるだけ。
六年生は同じ教師の持上がり。私の反抗は続いた。
今だったら、そんな私に何か助言を……と思うけど。子どもの人権、児童虐待ということばもなく、教師や親は絶対という時代だったのか。ことばによる虐待は、大きいのに。
人はよく子どもの頃は楽しかったと言う。私は体にささった刺のように、これを忘れることはできない。
やがて年月はすぎて、長年の教師としての労にと、国から賞をもらわれる事になった。みんなで祝賀会を開いてと、案内状が私のところへ届いた。】
【 刺 T・H
ある時同人誌の友人が子どもの頃、学校で出会った教師の事を書いておられた。
それを読み当時国民学校といっていた教室の長い廊下にひとり座り込んでいた自分の姿が重なった。
あれは、五年生の時だった。理由は何であったか今では思い出せないが、となりの席の友達と大げんかになり、私は負けじと大声を出した。だれも止めてくれなかったのは、放課中だったからか、友達は職員室へ走り込んで告げた。その時の担任は中年すぎの女教師。
「あの人は、ああした病気だから相手にならないように気をつけなさい。病人だから……」と。
教室にもどった友達は勝ち誇ったように教室の中で大きな声で言った。
ああした病気。病人……。私は顔をひきつらして言葉を失った。
なぜ理由を。どうして一方的にと……。でもそれを言葉で言えず、私は奥歯を鳴らしていた。
それから私は変わった。学校へは行くだけ、教科書も開かず、帳面には何も書かず、机の前に居るだけになった。注意されると、「ああした病気だから読めん。書くこともできない」と、立ち上がり、徹底して反抗し、教室から出て廊下に座り込んですごした。
そんな事が許される筈はなく、母親は何度も呼び出され、ある時は校長にまで注意をされ、家では叱られっぱなし。
変わった子。強情っぱり。泣かない子。などのレッテルはいっぱい。
当の教師には、反抗するいやな子とまで言われた。廊下では他の教師からも叱られからかわれたりで、今だったら登校拒否児となっていただろうが、、家で叱られているよりも、廊下でのひとりがよかったのか、わからないまま毎日学校へは行っていた。
そんな私にうす笑いをしながら通りすぎる教師にまで悪く言われ、私はますます強く反抗した。途中で抜け出して帰ると叱られるのがいやで、まわりの田んぼ道で花をつんだり、川原でとんぼや小さな魚を見てすごして家に帰ることもたびたびだった。
返事もしないで、ぎらぎらと反抗ばかりの日々。教師は間違っていない。反抗は悪。ということだったのか。友達はおもしろがってはやしたて、からかい。私は放っておかれた。
両親も仕事の忙しさに追われ、学校の呼び出しに困惑し、叱りつけるだけ。
六年生は同じ教師の持上がり。私の反抗は続いた。
今だったら、そんな私に何か助言を……と思うけど。子どもの人権、児童虐待ということばもなく、教師や親は絶対という時代だったのか。ことばによる虐待は、大きいのに。
人はよく子どもの頃は楽しかったと言う。私は体にささった刺のように、これを忘れることはできない。
やがて年月はすぎて、長年の教師としての労にと、国から賞をもらわれる事になった。みんなで祝賀会を開いてと、案内状が私のところへ届いた。】