この随筆、過去に二度ほどここにも載せました。が、ゆえあってここ数日かけてリメイク努力をしてきましたので、その産物をまた載せます。僕にとって大事なテーマであり続けてきたものですから、何度も恐縮ですが。
【 随筆 「死にちなんで」
心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらしはじめてちょっとたったころ、執刀医先生のはじめての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたようになにか声を出していた。
さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢をみない永遠の眠り、か」
知らぬ間に生まれていたある心境、大げさでなく僕の人生の一つの結実かも知れないなと、噛みしめていた。
小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということが頭から離れなくなった。ほどなくこれが僕の中で「永遠の無」という感じに育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向づけていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計までをふくめて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹のなかで、僕だけ違った進路をとったから、「両親との諍い」が僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、常識どころか世間的なもの一切が嫌いで、そういう寄り道をしなかったというのも同じこと。はじめは自分が揺さぶられること、次いで自分に意味が感じられることだけに手を出して来たような。こうした傾向を、二十歳の春から五十年つきあってきた連れ合いはよく知っており、「修業している」と評してきた。
ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りであって俺のこの苦しみがなくなるとしたらこんな良い終わり方はないと言えるが、この苦しみがその眠りに夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いもなにもありゃしない」
どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとはまったく逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定をはるかに超えて楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらそれぞれの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。なかでも、ギターで「音楽する」ことは、ちょっと別格だ。「教会音楽」、「音声菩薩」、これらは古今東西の音楽が神の領域のものであったことを示しているが、音楽することにはとにかく、なにか怪しい力がある。その力は、いまの僕の場合こんなふうだ。
この二月から、ある一曲だけにもう一年近く取り組んでいる。南米のギター弾き兼ギター作曲家・バリオスの「大聖堂」。楽譜六ページの曲にすぎないのだが、この曲だけを日に二~三時間も弾き続けてもう一年も先生の所へ通ってきたことになる。通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。一応、上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕が希望して続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るはずがない。この曲をやればやるほどいろんな希望が出て来たから、やめられなかったのである。「この曲のここは今ならもっと気持ちよく弾ける……その為には」。ギターの構えからはじまって、長年刺のようになっていた悪癖のいくつかに挑んできたものだった。これまた「高齢者の大手術」と言えようが、ほぼ大成功。こんな没頭が、自分事ながら訝しかった。音楽はやはり、神の領域のもの、改めて実感し直したものだった。ギター教師について八年、これと同類の事がいくつかあったのだ。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころこれが、気心の知れた友だちとの挨拶言葉のようになっていた。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。】
【 随筆 「死にちなんで」
心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらしはじめてちょっとたったころ、執刀医先生のはじめての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたようになにか声を出していた。
さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢をみない永遠の眠り、か」
知らぬ間に生まれていたある心境、大げさでなく僕の人生の一つの結実かも知れないなと、噛みしめていた。
小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということが頭から離れなくなった。ほどなくこれが僕の中で「永遠の無」という感じに育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向づけていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計までをふくめて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹のなかで、僕だけ違った進路をとったから、「両親との諍い」が僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、常識どころか世間的なもの一切が嫌いで、そういう寄り道をしなかったというのも同じこと。はじめは自分が揺さぶられること、次いで自分に意味が感じられることだけに手を出して来たような。こうした傾向を、二十歳の春から五十年つきあってきた連れ合いはよく知っており、「修業している」と評してきた。
ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りであって俺のこの苦しみがなくなるとしたらこんな良い終わり方はないと言えるが、この苦しみがその眠りに夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いもなにもありゃしない」
どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとはまったく逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定をはるかに超えて楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらそれぞれの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。なかでも、ギターで「音楽する」ことは、ちょっと別格だ。「教会音楽」、「音声菩薩」、これらは古今東西の音楽が神の領域のものであったことを示しているが、音楽することにはとにかく、なにか怪しい力がある。その力は、いまの僕の場合こんなふうだ。
この二月から、ある一曲だけにもう一年近く取り組んでいる。南米のギター弾き兼ギター作曲家・バリオスの「大聖堂」。楽譜六ページの曲にすぎないのだが、この曲だけを日に二~三時間も弾き続けてもう一年も先生の所へ通ってきたことになる。通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。一応、上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕が希望して続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るはずがない。この曲をやればやるほどいろんな希望が出て来たから、やめられなかったのである。「この曲のここは今ならもっと気持ちよく弾ける……その為には」。ギターの構えからはじまって、長年刺のようになっていた悪癖のいくつかに挑んできたものだった。これまた「高齢者の大手術」と言えようが、ほぼ大成功。こんな没頭が、自分事ながら訝しかった。音楽はやはり、神の領域のもの、改めて実感し直したものだった。ギター教師について八年、これと同類の事がいくつかあったのだ。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころこれが、気心の知れた友だちとの挨拶言葉のようになっていた。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。】