九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

保安院の大罪(44) 何度でも言いたい「捜査と信賞必罰を!」   文科系

2011年10月03日 12時33分11秒 | 国内政治・経済・社会問題

 6月16日の9回目でこう書いた。
【 『 官僚にはそもそも一体、信賞必罰は存在しないのか?!!』
 考えてみて欲しい。普通の会社では、こんな事は到底あり得ないだろう。上の記事に述べられているように、これだけ大量の被ばく者を生み出しておいて、刑事罰はともかく一団体としての降格とか譴責とか、信賞必罰が何もないとは?! 起こった事実への「未必の故意」などの罪状は今は置くとしても、以降に職務上得た情報を速く流していれば避難したと推定される分だけの大量被ばく者は生み出さずに済んだと、そういう大罪のことを語っている積もりだ 】

 その後、経産事務次官と保安院長他1名の計3名が「更迭」されたという。ところがこの更迭は、世のそれとは全く違うものだ。やめて頂いたという、税金による多額の割増退職金がある「更迭」なのだそうだ。次いで、第13回目『「官僚」は大暴力制度?』には、ここでこう書かせていただいた。

【  最近つくづく思うことだが、官僚制度って日本最大の暴力的制度ではないか。
 昨今何よりも、福島の大惨事に関わって原子力保安院を批判するマスコミが何故現われないのだとよく考える。するとここに行き着く。「マスコミが、保安院を怖がっているとしか思えない」と。怖がるような彼らの暴挙は、実は無数に存在する。小沢一郎問題でも官僚の策動がずっと世を騒がせてきたが、今最もホットな一例をあげてみる。このシリーズ10、11の「罪に罪を重ねる(1)(2)」(6月18,19日)である。始まりは、内閣官房長官スピーチを一介の経産官僚が非難した発言。それを公表・批判したマスコミへの暴力的恫喝など権力の乱用。仕方がないから経産大臣にまで話を持ち込むと、今度は自らの行動全てをなかったことにしようという陰謀策動。経産省がこれほどにマスコミ干渉を行ってきたという、ほんの一例に過ぎないだろう。長谷川幸洋氏が闘って見せたからこそ、初めて明るみに出たという醜く過ぎるやり口である。

 さて、官僚によるこれほどの暴力的「異論」封殺が、福島原発における以下のように重大な罪状の可能性に絡んでくるならば、全く捨て置けない事態だと思うがどうだろうか。彼らの「被疑性」を数え上げてみよう。
①福島事故原因が明らかになっていない。津波と地震自身とで、どちらにどれだけ比重があったのかがはっきりしていない。よって保安員の重大過失、罪状も解明されていない。
②事故後の人為的ミス、あるいは人材に対する課題の難度、などなどの内実も分かっていない。つまり、ここにおける保安院の指導の過失、罪状も分からない。
③以上①、②の実際によって、他原発にも同じ事が起こりうる確率が違ってくる。そういう数字を、経産省自身が本気で調べたとも思えないし、知っていたことですら隠してきた事も多い。それどころか、意図的にごまかしてきた事さえも多かったと断言できる。自分らの責任逃れからと見るのが自然だろう。
④膨大な数の内部被ばく者が発生したわけだが、小児甲状腺癌、骨髄癌などなどの被害の大きさが分かるのは、はるか先のことだ。それで再稼働などとは、国民に対して鬼畜にも劣る手前勝手。こんなことで再稼働を許せば、先の話として癌患者の発生数などを誤魔化しにかかるのが落ちだろう。薬害エイズを長く認めなかったように。
⑤経産省周辺はこうして、「人としての慎み」に欠ける。国民を思うという点で全く品格がない。そもそも、故郷を失った膨大な人たちをどう考えているのか? 避難所で寿命を縮めた人々についても同じだ。申し訳なかったという気持ちが、東電と共に全く感じられないのである。④、⑤合わせてみると、これで公務員・「(原発の危険性に備える国民の)保安院」とは、聞いて呆れる!? 
 
 これだけの疑いがあるのに、どうしてマスコミはどこも、何もこれを究明、報道できないのか? 万一犯罪にはならなかったとしても、職務上の重大過失、怠慢、それに関わる公務員としての道義的責任などなどは無数に存在するのではないか。それに、これらに対する信賞必罰は、民間会社よりもはるかに厳しくてよいはずなのだ考えるのだが 】

マスコミに問う。例えば、なぜこういう世論調査をしないのか。「経産事務次官以下3名の更迭はあれではおかしいから、もっと重罰にすべきと考えますか?」、「福島原発事故とその処理過程で、経産省・保安院に過失致死傷容疑が成立すると考えますか?」。国民の圧倒的多数が間違いなくこれらを認めると思う。としたら、検察庁は一体何をぐずぐずしているのか。「国家、社会の公益の代表者」という検察官の、言語道断の怠慢だと考えるが、どうだろうか。

 こうして世の権力者がその総力を上げてこんな事をしていると僕には思われるのだが、どうだろうか。責任、信任ということでも意味の軽重というものがあるのであって、保安院、検察がその国家的責任の根幹を半ば暴力的に無視し、放棄していると。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする