小学三、四年の時のクラスの思い出は私にとって地獄でした。28歳の担任の女性教師は性格異常で、始終表情にイライラを浮かべ、ターゲットにしていたある男子生徒を一日一回は皆の見ている前でひっぱたいたり、時には黒板に思い切り頭を打ち付けたり、今なら確実に事件になるようなことをしていました。新井というその名は、以来私の中で冷たい、何をするかわからない恐怖を抱かせる響きになりました。何年か前に、小学校の同窓会の連絡がきた時、私は真っ先に、そこに呼ばれる教師の名前の中にその恐怖の名があるかないか、それをしつこく確認しました。結局、その時の同窓会には参加しませんでした。小中高と沢山の教師たちと知り合い、良い人達ばかりでしたが、中で燦然と輝くこの新井先生の恐怖の名は、私に世の中の人間模様の多種多様なこと、その距離の保ち方がいかに自分を守るかを実によく教えてくれました。感謝はしていませんが。
君の名を彫るがよい やがて大きくなる木の幹に 立ち木の方が大理石より得だ そこに彫り付けた名も成長する
アポリネールの詩です。
子供の時に本で読んで、以来心の隅にポツンと置かれたままになっています。
私自身がその名を彫り付けた木は果たして大きくなったのか、ならなかったのか。私は大きい小さいということには価値の違いを感じなかったのですが、しかし彫り付けた名前が確かに摩耗することなく、ずっとそこに刻まれたままで、少しは木の幹で深く大きく変化したであろうとは思っています。
これまで私が教室で出会ってきた子供たちは、それぞれが木の幹に彫り付けた名前のその後の変化(これを成長という)をどう捉えているだろうかと、ふと考えました。