勉強のできるできないというのは、時に相対 的な評価であって、これをもってその子の人間性を推し量る物差しになるものでは必ずしもありません。 人間性ということで言うならば、 勉強で培った知識や知恵の上に組み立てられる豊かで膨大な思考力や情操と決断力、 その考えの方向性など、 数え切れないほどの要素をこそ 考慮する必要があります。
私達が日常 見ているのは、 この意味で ほとんどと言っていい程、まだ手付かずの状態にある、いわば 純朴たる 原石のような 子供達であって、彼らがその長い人生の中で 私たちと過ごす短い時間の中で、私達が どれだけその背中を押して行かれるものなのか、 そこに 私たちの最大の関心があります。
個人的には ペラペラとよく喋る印象の拭えないタイプではなく、寡黙でも良いので 静かに何かを追い求めていく姿勢を持った子の方に、 何か秘められた素質や可能性を感じます。 そこにあるのは つまらない 自己弁護や飾り付けのない、 質素でありながら、それでいて キラリと輝く子、といった感じでしょうか。こういう子は 小学生にしてすでに 自己の確立あるいはそれの入り口辺りに立っていて、 自分の意見というものを持っている事が多いです。 これで思い出すことがあります。
以前 私たちの教室に 超難関大卒の講師が いました。彼はさすがに学問的には頭が良く、大抵の子供たちには大抵の科目を何の準備もなく(準備をしないというわけではありません)ほぼ完璧に教えることができました。ただし、それは教えるというよりも私に言わせると単に自分の知識を開陳しているに過ぎず、子供達にとっても心に訴えてくるような迫力や印象は必ずしもあったわけではないようです。彼の話し方には特徴があって、何かの話題の時に自分の意見を言うのではなく、勉強することによって身につけた知識を 開陳するということで何かきのきいた事を言っている気になる、そういうところがありました。話をしている当人達にしてみれば、その場その場で自分の意見、自分の考えを述べている訳で、相手にもそれを期待するわけです。それなのにその口から出てくることはスマホで調べればすぐに分かるような表面的で無機質で平面的なことばっかり。 例えば今のウクライナ情勢などで言えば、 話のポイントが ロシアという国の非道ぶりや乱暴を、その歴史的な見地も踏まえての意見を述べ合う中で、ひとり自分だけ「マリウポリは首都から●●キロ東部にあって人口は●●万人、気候の特色は」などというピント外れなことを言って「どうだすごいだろ」というタイプ。 これでは相手の印象に残るような話になるはずもありません。
気になるのは、 最近、というより年を追うごとにこの手のタイプの子達が増えている印象があることです。何を言っても何を話しても、彼らの口から出てくるのは彼らがその時持っているスマホから仕入れた情報ばかりで、その子自身が実際に何を考えているのかということはあまり伝わってきません。 そんなことに かすかな不安を覚えるのは、 私だけでしょうか。