寝床ひとりじめ
zonoさん、いつも拙い駄文をお読みくださり有難うございます
特定の科目については、ノートの取り方がその人のその科目に対する取り組みの姿勢や理解の深さ に大きく影響そ、貢献すると思います。
例えば社会。
子供たちを見ていると、ノートの取り方に工夫を凝らしている子は、概ねこの傾向がはっきりと読み取れます。逆に、工夫を感じない子、例えば学校の先生が黒板に書いたものをただ漫然と書き写しているだけ、それがよくわかる子は、 おしなべて理解が浅いです。
このことを、私は昔、自身中学3年生の時に 少し違った形で 感じました。当時、私は社会が好きで、それなりに自分でノートの取り方を工夫していました。 テストも成績もとてもよく、これはこれで 満足していましたが、 ある時、友達が、また別の友達のノートを私に見せて 「これすごく分かりやすいよね。こういうノートが一番だね」と言いました。見ると、 書き方の工夫がいたるところに見て取れました。カラフルで、文字の強弱も感じましたし、 簡単な図なども挿入してありました。
一種の参考書のような趣さえありました。 シンプルな私のノートとは 違っていました。
私はそれを見て 驚きました。と同時に、その後の行動は 少し曲がった方向に進みました。ノートの取り方に密かな満足感を持っていた私は、その プチ自尊心を傷つけられた思いが少しして、以後その友達のノートを真似て 工夫を 暮らすようにしてみましたが、出来上がったものは、いかにもそれを模倣したものでした。
確かにそれなりの出来にはなりましたが、それが私の理解度の向上につながったとは思いません 。ここに落とし穴があります。
綺麗なノートを作るということは良いことですが、人の模倣をして何か良いことをしたつもりになるというのは、単に先生が黒板に書いたものを書き写してその気になるのと 同じないかと気付きました。 言ってみれば、私は 自分の理解の向上のためにそれをしたのではなく、単に友達に「良いノートだね」と言ってもらいたくてそれをしていただけだったのです。
目的と方法とを誤ると、時に本来 目指すべき方法とは 違ってしまうこともあるのだということを、 中3の私はその時思いました。