たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

第二章_日本的経営と近代家族_エピローグ

2016年04月30日 18時54分38秒 | 卒業論文
 女性が家庭にいることを前提とした「会社」の雇用システム、女性をなかなか対等の成員として迎え入れることのできない「会社」の仕組み、女性の社会進出が進んでいるとはいえ、日本型企業社会はまだ女性の潜在労働力の必要性を認識してはいない。

 だれも休まず、だれも病気にならない、という「希望的観測」のもとに人員が配置されている組織は、だれも産まない、だれも子供を育てない、というどこにもいない人間を前提にした組織である。このような架空の人間像を支えているのは専業主婦の存在である。しかし、既婚女性の半数以上が働いている時代に、この前提は空洞化しつつある。1) こうした架空の前提を懸命に維持しようとする会社の実情を取材した竹信三恵子は、「女性の活用」をテーマに取材した都市銀行の中間管理職から女子行員の出産に関して次のような本音を引き出している。

「銀行の上司から、育児休暇を取るな、と言われた女性がいる、と言っておられたが、日本の会社は権利を目一杯主張し、代わりに義務もきちんと果たす、という仕組みではない。経営と個人が甘え合う関係で成り立っている。全面的にすべての権利を主張されても会社は困る。その女性にも問題がある」。2) 

 熊沢誠が、コース別を大枠とした性別職務分離がよく観察できる業界である 3)と指摘した銀行は、「本音では、便利に使えて給料の安い大量の若い女性を必要としている。しかし、そんな女性を惹きつけるには、もはや育児休業など母性保護制度を敷くしかない。つまりは人集めのための目玉商品だ。かといって額面通りに受け取られて、長く居座られては、賃金をたくさん払わなければならない。だから、育児休業制より、いったんやめてもらって賃金を安く抑えられる再雇用制を導入するところが多い」。4)

 以上は、『日本株式会社の女たち』から引用した1994年以前の話だが、2002年時点でも子供を産んだ女性が働きやすい環境が会社や社会に整っていないのは、第一章で見たとおりである。女性が働きにくい仕組みはなお温存している。

 男性が仕事と家庭を切り離して考えることができるのに対して、家庭責任を担う女性は仕事と家庭を切り離して考えることができない。男性の、ほかの全てを顧みず仕事を最優先させるという硬直的な職業生活を可能にするため女性が自身の生活を適応させている。女性にそのような生き方を要求しているのは、日本型企業社会である。女性のライフサイクルと企業の経営方針とは密接な関わりがあるといえる。女性が家庭の事情で簡単に会社を辞めると、勤務態度を男性と比較して不真面目で劣ったもののように非難する企業経営者がときどきいる。

 しかし、そのように女性を非難する一方で、自社の男性社員が家庭よりも仕事を優先することをあたりまえとしているとすれば、それは矛盾している。硬直的な職業生活を送る男性に代わって、女性が自身の生き方を融通しているのに、その点には目をつぶって、個々の女性の選択だけを問題視するのは、おかしな話である。5) 日本型企業社会は、労働市場における女性差別を、女性という「性」によって正当化してきた。

 この章では、こうした矛盾を孕んだ日本的経営の成り立ちとその単位となっている「近代家族」について概観し、労働市場において女性が男性ルートから排除されてきた背景を探りたいと思う。

引用文献

1)竹信三恵子『日本株式会社の女たち』148頁、朝日新聞社、1994年。

2)竹信、前掲書、150-151頁。

3)熊沢誠『女性労働と企業社会』106頁、岩波新書、2000年。

4)竹信、前掲書、152-153頁。

5)小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』59-60頁、中公新書、1998年。


旅の思い出写真_ベルサイユ宮殿

2016年04月30日 14時57分36秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
 流れが前後してしまいますが、2007年10月26日、旅の最後に訪れたパリからバスで一時間ほどのベルサイユ宮殿の入場券とパンフレットの写真のご紹介。現地で購入した日本語の冊子は部屋の中で行方不明中。気付いて少し焦っていますがどこかにあるはず。まだまだ色々とグチャグチャで整理しきれていないことを実感しています。

 ベルサイユ宮殿への旅はツアーには組み込まれていなかったので、現地の英語によるオプショナルツアーに一人で参加しました。二階建てバスの二階に乗ったらベルサイユ宮殿に到着した時シートベルトがすぐに外せず、ひそかに冷や汗をかきながら焦ったことを思い出します。とにかく広大な広さで見学したのは、ほんの一部に過ぎません。鏡の間や、アントワネットが押し寄せた群衆の前に立ったという場所には行きました。プチトリアノンに行こうと思ったら、自転車を使って一日かけないと無理。短い時間で全部を回り切れるような場所ではありません。この贅沢さと市井の人々の暮らしはあまりにもかけ離れていましたね。


池田理代子『ベルサイユのばら大事典』2002年集英社発行、54頁より

「国王一家の住居・ベルサイユ

 ルイ14世は衛生状態や環境のよくないパリを嫌って、テュイルリー宮を放棄し、パリ郊外の狩の館を建て増ししてベルサイユ宮殿とした。政府機関もすべて移したため、国家規模の大プロジェクトとなった。

 ベルサイユの庭園は造園家のル・ノートルが設計。当時ヨーロッパでは野趣あふれるイタリア式庭園が流行していたが、ル・ノートルは端正な左右対象の、後にフランス式庭園と呼ばれる豪華な庭園を作った。また、十字架を模した1KM*1.5KMの運河は、ゴンドラを浮かべて遊ぶことができた。手入れのための費用は気にしなくてよい、宮廷ならではのデザインである。

 建物は王室主席建築家のル・ボーが設計を担当し、彼の死後はマンサールが後を継いだ。建設は1661年から始まり、実に20年余の年月をかけて見事なバロック建築が作られた。

 宮殿の室内の多くの間にはそれぞれ名前がつけられている。

 室内は芸術家や職人が集められ、壁画やゴブラン織りのタペストリーで飾られた。イタリアのムラノ島から、ガラス職人を連れてきて鏡の間を作らせた。建物は格式ばったバロック様式であったが、インテリアは次第に軽快で曲線的なロココ様式に映っていく。明るく優美なロココ様式は、建築だけでなく当時のヨーロッパの芸術全般にその影響を与えた流行であった。

 マリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノンは、宮殿から歩いて約15分の場所にある離宮である。もともとはルイ15世が愛人のポンパドール夫人に贈ったものだったが、アントワネットがルイ16世からさらに譲り受け、庭園とした。」


ベルサイユ宮殿、日本語の入場券
















ベルサイユ宮殿、簡単な日本語のパンフレット