たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2018年ミュージカル『ジキル&ハイド』(4)

2021年03月07日 15時56分47秒 | ミュージカル・舞台・映画
2018年ミュージカル『ジキル&ハイド』(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b9c3c98a4b9193277224e273d898a0fd

(東京国際フォーラム公演プログラムより)

「ヘンリー・ジキル/エドワード・ハイド役;石丸幹二

-ジキルとハイドのベースには、永遠に解決できない苦しみが宿る-

 稽古は、自分の中で出来上がっていたものを壊し、まず疑うことから始めました。今は周りのスタッフの皆さんのご意見を参考にしながら、何か違う形にできないかと探っているところです。イメージとして、前回は針を刺すとぶるんと飛び出してくるようなハイドでしたが、今回はジキルの殻がくるみみたいに固くて、一刺しでは破れない。その厚い殻を破って蛹(さなぎ)がハイドという蛾へと孵化する、その蛹の時間を長めに作ろうかと考えています。鍵になるのは理事会のシーン。以前はここでハイド的な部分をフツフツと出していましたが、今回は、ジキルのストレスがどれほど溜められるかをこの場面で試すつもりです。

 初めてジキルとハイドを演じた後にドラマ『半沢直樹』に出演、人間臭い敵役を演じました。良い役と悪い役の両方で人間の脆さ(もろさ)や表と裏の関係性に触れることが、様々な役作りに影響しています。昨年演じた『パレード』のレオ・フランクは免罪を着せられますが、それはジキルが世の正論によて潰されて内に籠るのと同じ。一方『キャバレー』のMC役は挑発するほうで、何の制約もなく自由に飛ぶ様がハイドと似ている。MCを経験したことで、今回のハイドは鱗粉(りんぷん)を大量に振りまくかもしれません。

 猟奇的で狂気に満ちた役を演じることは、逆に表裏一体である普通の人を見つけることにも繋がります。今回でいえばアターソンがそんな存在。まっすぐで優しく、何があっても受け止めてくれる長年の友人。彼と向き合った時に、その率直さに目が眩むみたいな部分をハイドの中に加えられたらとも考えています。

 ルーシーがジキルの名刺をもらって、今までとは違う次のステージに行けるかもしれない!とウキウキしているところで現実を見せつけられるシーンには、彼女の人間臭さと魅力を感じますね。ジキルも、冒頭の理事会で、このルーシーと同じ仕打ちを受けるんです。ルーシーとジキルは立場が違えども、抑圧を受けながら生きているところは同じ。現代社会もすぐSNSでバッシングが始まったりしますが、意見や立場が違うことが排除の対象となりがちな気がします。理事会ではそもそも互いの接点をみつけよう、意見を擦り合わせようという努力はなされない。当時は今よりはるかに狭いコミュニティでしたから、他と違うことで受けるプレッシャーは並大抵ではなかったでしょう。

「対決」では、自分の中では右脳と左脳が戦っている感覚です。具体的な働き云々ではなく、脳は視覚的に二つのパートがくっついているように見えますが、それらが言い争っているような。これが一人の人間の中で起こるわけですが、私の想像として、ひょっとすると一卵性双生児の喧嘩はこんな感じなのかなあ?とも。

 この作品に向き合うにあたって、多重人格を扱った映画やドラマ、ドキュメンタリーなどをいろいろ見ましたが、そこには常に苦しみがつきまといます。私もこの物語のベースは苦しみだと捉えています。解決できない、どうしようもない苦しみのループはまるでメビウスの輪。肉体と精神をフルに使って取り組みます。」